西漢時代265 成帝(二十三) 蕭何の子孫 前16年(3)

今回で西漢成帝永始元年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
かつて鄼侯蕭何の子孫で侯位を継いだ者の中には、子がいなかったり罪を犯した者がいたため、前後して五回、祭祀が途絶えました。しかし高后(呂太后、文帝、景帝、武帝、宣帝が蕭何の功を思って支庶に跡を継がせてきました。
 
蕭何の子孫に関しては、景帝前二年(前155年)武帝元狩三年(前120年)、宣帝地節四年(前66年)に書きました。
恵帝時代、酇侯蕭何(文終侯)が死んでから、子の蕭禄(哀侯)が跡を継ぎましたが、死後、子がいなかったため、高后(呂太后が蕭何の夫人(懿侯)を酇侯に封じました。
また、蕭何の小子蕭延を筑陽侯に封じました。
文帝時代、蕭何の夫人同を免じて筑陽侯蕭延(定侯)を酇侯に改めました(一回目)
蕭延の死後は子の蕭遺(煬侯)が継ぎます。しかし蕭遺にも子がいなかったため、蕭遺の死後、文帝は蕭遺の弟蕭則に跡を継がせました(二回目)
ところが蕭則は罪を犯して廃されてしまいます。
景帝時代、蕭則の弟蕭嘉(幽侯)を武陽侯に封じました(三回目)
その後、蕭嘉の子蕭勝が武陽侯を継ぎましたが、罪を犯してまた廃されました。
武帝時代、蕭則の子蕭慶(共侯)を改めて鄼侯に封じました(四回目)
蕭慶の死後、蕭寿成が継ぎましたが、罪に坐して廃されました。
宣帝時代、蕭何の子孫を探して玄孫に当たる蕭建世を鄼侯に封じました(五回目)
漢書高恵高后文功臣表』によると、蕭建世の諡号は安侯です。
その後、蕭建世の子蕭輔(思侯)が継ぎ、更にその子蕭獲が継ぎました。蕭獲は蕭何の七世孫に当たります。
 
この年、酇侯蕭獲が奴僕を使って人を殺すという罪を犯しました。死刑は免じられましたが、城旦(城壁の修築や警護をする苦役の刑)に処されました(原文「完為城旦」。「完」は体の完全を保つという意味で、髪や髭を剃る刑や肉刑を受けないことを指します)
 
これ以前に成帝が詔を発して、有司(官員)に漢初の功臣の子孫を求めさせましたが、久しく探し出して用いることができませんでした。
酇侯蕭獲が廃されてから、杜業が成帝に言いました「唐(堯)、虞(舜)、三代(夏西周は皆、諸侯を封建して太平の美を成し、そうすることで燕、斉の祀を周と並んで伝えさせ、あるいは子が位を継ぎ、あるいは弟に位が及び(子継弟及)、歳を重ねて絶えることがありませんでした(歴載不墮)。刑辟(刑法。刑律)がなかったのではありません。祖先の竭力(尽力)があったから、支庶(傍系の子孫)がそれに頼ることができたのです(祖先が功臣として尽力したから、直系が途絶えても傍系が跡を継いで家系を継承させることができたのです)。遡って漢の功臣を見ると、(虞三代と同じように)皆、符を裂いて世襲の爵を与えられ(剖符世爵)、山河の誓(『資治通鑑』胡三省注によると、高帝による封爵の誓いです。「黄河が帯のように細くなり、泰山が厲(研ぎ石)のように小さくなっても、国を永存して苗裔に継承させる」というのが誓いの言葉です)を受けています。しかし百余年の間に、封を襲った者(継承した者)は尽き、朽骨が墓で孤独になり、苗裔が道に流亡し、生きているうちは愍隸(苦役に服す奴隷)となり、死んでからは転屍(墓に埋葬されない死体)となっています。往事をもって今と較べるなら、甚だしく悲傷するべきです。聖朝(陛下)が憐閔(憐憫)によって詔を発し、その後代を求めたので、四方が忻忻(喜ぶ様子)として帰心しない者はいません。ところが出入して(朝廷の使者が行き来して)数年になるのに省察できません(功臣の後代を捜し出せません)。恐らく議者は大義を思わず、いたずらに虚言を設けており、その結果、(陛下の)厚徳を掩息(覆い隠して消滅すること)し、吝簡(吝嗇)(天下に)報せて明らかにしています(原文「吝簡布章」。功臣の後代を封侯すると言いながら実際には何もしないので、朝廷は爵位や土地を惜しんで封侯せず、元々そうするつもりもないという態度を天下に広く示しています)。これでは教化を示して後人を奨励することになりません。全てを継承させることは困難ですが、特に功績が顕著な者から始めるべきです。」
成帝はこの進言を採用しました。
 
癸卯(十五日)、蕭何の六世孫に当たる南䜌長(県長)蕭喜を酇侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、南䜌県は鉅鹿郡に属します。
県には県令か県長が置かれていました。どちらも秦代に始まった官です。一万戸以上の県は県令が治め、秩は千石から六百石でした。一万戸に満たない県は県長が治め、秩は五百石から三百石でした。
 
漢書帝紀は「元延元年(前12年)」に「蕭相国の後代蕭喜を酇侯に封じた」と書いており、荀悦の『前漢孝成皇帝紀(巻第二十七)』も「元延元年」に書いていますが、『漢書高恵高后文功臣表』では「永始元年(前16年。本年)七月癸卯、釐侯蕭喜が蕭何の玄孫の子で南䜌長として封を継ぐ。三年で死ぬ。永始四年(前13年)、質侯蕭尊が継ぐ。五年で死ぬ。綏和元年(前8年)、質侯蕭章が継ぐ」としています。『本紀』は誤って「永始」を「元延」と書いたようです。
但し、『高恵高后文功臣表』も、「質侯」蕭尊の跡を「質侯」蕭章が継いでいるので、誤りがあるはずです。
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
城陽劉雲(哀王)の弟劉俚を王に立てました。
 
城陽王は高祖の子斉王劉肥(悼恵王)の家系です。成帝鴻嘉二年(前19年)に劉雲が死に、子がいなかったため国が廃されました。
今回、劉雲の弟劉俚が改めて封王されましたが、後に王莽によって廃されます。
 
尚、「劉雲の弟劉俚」というのは『漢書諸侯王表』と『資治通鑑』の記述で、『漢書高五王伝(巻三十八)』では「劉雲の兄」としています。
漢書帝紀』は「城陽孝王(劉景)の子劉俚を王にした」と書いており、劉雲の兄か弟かは分かりません。
また、荀悦の『前漢孝成皇帝紀(巻第二十六)』は「城陽孝王の子劉理を王に立てた」としており、「劉俚」が「劉理」になっています。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月丁丑(十九日)太皇太后王氏が死にました。
この王氏は宣帝の王皇后で、父王奉光が邛成侯に封じられたため、邛成太后ともいいます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
九月、東莱に黒龍が現れました。
 
荀悦の『前漢孝成皇帝紀(巻第二十六)』は翌年(成帝永始二年)冬に「黒龍が東莱に現れた」と書いています。
しかし『漢書谷永杜鄴伝(巻八十五)』が「(永始)元年九月、黒龍が現れた」と明記しているので、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は『前漢紀』の誤りとしています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
丁巳晦、日食がありました。
 
荀悦の『前漢孝成皇帝紀(巻第二十六)』は「九月乙巳晦」としていますが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「長暦」では「丁巳晦」なので荀悦が誤りとしています。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
この年、南陽太守陳咸が少府に、侍中淳于長が水衡都尉になりました。
淳于長は王太后(王政君)の姉の子です。
 
 
 
次回に続きます。