西漢時代266 成帝(二十四) 班伯 前15年(1)

今回は西漢成帝永始二年です。三回に分けます。
 
西漢成帝永始二年
丙午 前15
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月己丑(初三日)、大司馬車騎将軍安陽侯王音(敬侯)が死にました。
王氏では王音だけが身を修めて整えており、しばしば諫正して忠直の節がありました。
 
漢書元后伝(巻九十八)』『漢書外戚恩沢表』によると、王音の死後、子の王舜が安陽侯を継ぎました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月癸未(二十八日)夜、雨のように星が落ち、光彩を放ちました(原文「繹繹」。『資治通鑑』胡三省注が「光彩の様子」と解説しています)
星は地に至る前に消滅しました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙酉晦、日食がありました。
 
成帝が詔を発しました「最近、龍が東莱に現れ(前年参照)日蝕があった。天が変異を著しくして朕の郵(過失)を明らかにした。朕は甚だ懼れている。公卿は百寮(百僚。百官)に申敕(訓戒)し、天誡を深く思い、省減(削減)して百姓の便安(便宜)となることがあったら條奏(一つ一つ詳しく上奏すること)せよ。貧民に振貸(救済のために貸し与えること)したものは回収しないことにする。」
 
また、こう言いました「関東で連年不作が続いている(比年不登)。吏民で義によって貧民を收食(収容して養うこと)したり、穀物を納めて県官の振贍(救済)を助けた者には、その値を下賜した(貧民を養ったり政府を助けて金銭食物を提供した者には、朝廷が同額を返済しました。原文「已賜直」)(提供した額が)百万以上の者には右更の爵(第十四爵です)を加えて下賜し、吏にして三百石を補わせる(百万銭以上を提供した民は、右更の爵を与えて三百石の官吏に任命することにしました。原文「加賜爵右更,欲為吏補三百石」)。その吏は二等を遷す(これ以前に官吏になっていた者は爵二等を進めました。原文「其吏也遷二等」)。三十万以上の者には五大夫の爵(第九爵です)を下賜し、吏は同じく二等を遷す。民は郎を補う(三十万銭以上を提供した者は、官吏は爵二等を進め、民は郎官にして仕官の機会を与えました)。十万以上の者は、その家は三歳(年)にわたって租賦を出す必要がない。一万銭以上の者は(租賦の免除を)一年とする。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月丁酉(十二日)成都王商を大司馬衛将軍に任命しました。
紅陽侯王立を特進(特進侯)とし、城門の兵を指揮させました(領城門兵)
王商、王立とも王政君の弟です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
京兆尹翟方進を御史大夫に任命しました。
 
翟方進の前の御史大夫は王駿(王吉の子)です。
王駿は成帝鴻嘉元年(前20年)御史大夫になりました。『漢書公卿百官表下』を見ると、任官して「五年で死んだ」と書かれています。
漢書王貢両龔鮑伝(巻七十二)』では、王駿は御史大夫になって六年で病死し、翟方進が代わって御史大夫になっています。
漢書・成帝紀』は本年に「王駿が死んだ」と書いています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
谷永が涼州刺史になり、報告のために京師に来ました。
資治通鑑』胡三省注によると、諸州の刺史は通常、八月に管轄する地域を巡行し、囚徒を記録したり官員の成績を考査しました(考殿最)。年の終わりに京師を訪ねてこれらを報告します。
 
報告が終わって涼州刺史部に帰ろうとした時、成帝が尚書を送り、谷永に話したいことがあったら自由に述べるように命じました。
谷永はこれに応えて成帝を厳しく批判しました。詳細は別の場所で書きます。
 
成帝の性格は寛大で、文辞を好みましたが、宴楽に溺れていたため、皇太后や諸舅(母の兄弟。外戚王氏)が朝から夜まで常に憂いていました。
しかし関係が親しすぎるため、しばしば諫言するには難しい立場にいます。そこで谷永等を使って天変のおりに厳しく諫言させ、成帝に採用するように勧めました。
谷永は内応外戚の後ろ盾)がいるのを知っているので、遠慮せずに意見を述べました。今までは、谷永が進言する度に、成帝は礼を加えて応じました。
ところが今回の意見が提出されると、成帝は激怒しました。
 
成帝の怒りを知った衛将軍王商が秘かに谷永を京師から出発させます。
成帝は谷永を逮捕するために侍御史を派遣しましたが、交道厩を越えたら跡を追わないように命じました。
資治通鑑』胡三省注によると、交道厩は長安から六十里離れており、延陵(成帝陵)が近くにあります。
 
結局、御史は谷永に追いつけず、帰還しました。
成帝も怒りが静まって谷永を逮捕しようとしたことを後悔しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
成帝が張放や趙、李、諸侍中と共に禁中で宴飲しました。
張放は張安世の四代後の子孫です。その父張臨は元帝の妹敬武公主を娶り、張放自身も成帝の元皇后許氏の妹と結婚したため、成帝と深い関係にありました。
恐らく「趙」は趙飛燕姉妹、「李」は李平を指すと思われます。李平は倢伃です(成帝鴻嘉三年18年参照)
 
成帝や張放等は皆、杯に酒を満たして全て飲み干し(引満挙白)、談笑大噱(大笑、大呼)しました。
当時、乗輿(皇帝の車)の帳が張られた座席に屛風があり、商王紂が酔って妲己に寄りかかり、長夜の楽しみを為す姿が描かれていました。
 
この頃、侍中光禄大夫班伯は久しく病を患っており、復帰したばかりでした。
漢書敍伝上(巻百上)』によると、班氏の先祖は楚と同姓で、令尹子文の子孫です。子文は生まれてすぐに棄てられて虎に育てられたといわれています(虎乳之)。楚人は「乳」を「穀」といい、「虎」を「於檡(または「於菟」)」といったため、名を穀於檡、字を子文としました。
楚人は虎を「班」ともいったため、その子が「班」を号にしました。
秦が楚を滅ぼしてから、子孫が晋代一帯に移住し、班を氏にしました。
 
成帝鴻嘉三年(前18年)に書きましたが、かつて成帝に寵愛された班倢伃の父を班況といいます。
班況には班穉(または「班稚」)という子がおり、班穉の子が班彪、孫が班固です。『漢書』は主に班固によって編纂されました。
 
班況には班穉の他に班伯と班斿という子がいました。二人は班穉の兄に当たります。
ここに登場する班伯は、班況の子、班穉の兄に当たる班伯です。
 
資治通鑑』に戻ります。
成帝が振り返って紂と妲己の絵を指さし、班伯に問いました「紂は無道を為したが、これほどだっただろうか?」
班伯が答えました「『書尚書泰誓)』にはこうあります『(紂は)婦人の言を用いている(乃用婦人之言)。』しかしどうして朝廷でこのように踞肆(放縦驕慢)なことができたでしょう(紂の過ちは婦人の言を用いたことですが、朝廷で酔って妲己に寄りかかるようなことはできません)。これは衆悪が帰すというものです(悪名を得たら全ての悪がその人に帰されるものです)。これほど甚だしくはありませんでした。」
この部分の原文は「所謂衆悪帰之,不如是之甚者也」です。『論語』に「紂の不善はそれほど甚だしくありませんでした。だから君子は下流にいることを嫌うのです。下流に居ることになったら)天下の悪が全て帰すことになってしまいます(紂之不善,不如是之甚也。是以君子悪居下流,天下之悪皆帰焉)」とあるのが元になっています。
 
成帝が問いました「このようでなかったのなら、この図は何を戒めているのだ?」
班伯が答えました「(紂が)『酒に溺れた(沈湎于酒)』、これが微子が別れを告げて去った理由です(『尚書微子』に記述があります)(紂が)『大声で騒いで叫んだ(式号式謼)』、だから『大雅』は流連(涙を流すこと)しているのです(紂が酒を飲んで大騒ぎをしたから、詩を作った人は嘆いて涙を流しているのです。『詩経大雅蕩』の一節です)。『詩』『書』は淫乱を戒めており、その根源は全て酒にあります。」
成帝が嘆息して言いました「わしは久しく班生に会わなかったが、今日また讜言(正言。善言)を聞くことができた。」
班伯の言葉を聞いて張放等は不快になりました。
やがてそれぞれ席を離れて更衣(厠に行くこと。または着替え)に行き、それまま退出しました。
 
 
 
次回に続きます。