西漢時代267 成帝(二十五) 翟方進と孔光 前15年(2)

今回は西漢成帝永始二年の続きです。
 
[(続き)] 成帝が張放等と宴を開いた時、長信庭林表がちょうど使いに来ており、班伯と成帝のやり取りを見ました。
資治通鑑』胡三省注によると、「長信庭林表」は「長信宮庭の林表」を指します。長信宮は王太后が住んでいる宮殿です。「林表」は宮中の婦人の官名です。
 
後に成帝が東宮(長信宮)に朝見した時、王太后が泣いて言いました「帝は最近、顔の様子が痩せて黒くなっています(顔色が悪く、やつれています)。班侍中(班伯)は元々大将軍(王鳳)に推挙されたので、特別に寵用するべきです。また、彼のような者を更に求めて聖徳を輔佐させなさい。富平侯(張放)は就国させるべきです(封国に赴かせるべきです)。」
成帝は「分かりました(諾)」と答えました。
 
成帝の諸舅(母の兄弟。外戚王氏)がこれを聞き、丞相や御史に張放の過失を探すように促しました。
 
漢書張湯伝(巻五十九)』によると、この時の丞相は薛宣で、御史大夫は翟方進です。翟方進が御史大夫になったのは本年三月の事です。
漢書敍伝上』は「王音が丞相や御史に促した」と書いていますが、王音は本年正月に死んでいます。
『張湯伝』には「上(成帝)の諸舅(母の兄弟)が皆、張放の寵に嫉妬した(上諸舅皆害其寵)」とあるので、『資治通鑑』も「王音」ではなく「上諸舅」としています(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
丞相薛宣と御史大夫翟方進が上奏しました「張放は驕蹇縦恣(驕慢放縦)で奢淫を制せず、門を閉ざして使者を拒み(『漢書張湯伝』によると、侍御史脩等四人が賊を捕えるために張放の家を訪ねましたが、奴僕や従者が門を閉ざして弓弩を構え、使者の進入を拒みました。この時、張放はその場にいました、)、無辜(無罪の者)を賊傷し(張放は李游君が娘を後宮に献じようとしていると知り、娘を求めましたが得られませんでした。そこで奴僕の康等を李游君の家に送って三人を傷つけました。更に県官(官府)の事で楽府の游徼(盗賊を取り締まる下級官吏)莽を怨んだため、大奴駿等四十余人の群党に楽府の官署を襲わせました)、従者や支属まで権勢に乗じて暴虐を為しているので、張放を罷免して就国させることを請います。」
成帝はやむなく張放を北地都尉に左遷しました。封地の富平県は北地郡にあります。
 
その後、連年多数の災変不作が続いたため、張放が長安に戻る機会はありませんでした。それでも成帝は璽書(皇帝の書)を絶えず送って張放を慰労します。
敬武公主(張放の母)が病を患った時、成帝は詔を発して張放を招き、家に帰って母の見舞いをさせました。
しかし数カ月後に公主が快癒したため、また長安から出して河東都尉に任命しました。
成帝は張放を寵愛していましたが、上は王太后に迫られており、下は大臣の意見を聞いていたため、いつも涙を流して送り出しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
前年、邛成太后が死にました。邛成太后は宣帝の皇后だった王氏です。元帝の皇后王政君と区別するために邛成太后といいます。邛成は父王奉光の封地です。
 
当時は緊急で喪事が行われ、官吏が賦税を徴収して急いで処理しました。それを聞いた成帝は丞相と御史の責任とみなします。
冬十一月己丑(中華書局『白話資治通鑑』は「己丑」を恐らく誤りとしています。下述します)、成帝が策書を発して丞相薛宣を罷免し、庶人に落としました。
また、御史大夫翟方進を左遷して執金吾にしました。
 
漢書薛宣朱博伝(巻八十三)』に成帝が薛宣を罷免した時の策書が記載されています。それによると、薛宣の罪は「広漢で群盗が横恣(横行放縦)し、吏民を残賊(殺害。迫害)しているので、朕は憐憫してこれを痛み(惻然傷之)、しばしば君(薛宣)に意見を求めた。しかし君の答えはいつもその実に符合していなかった(真実ではなかった。原文「不如其実」)」。「三輔(近畿)が賦斂(税を徴収すること)して限度がなく、酷吏がそれを利用して姦を為し(並縁為姦)、百姓を侵擾したので、詔を発して君に案験(調査)させたが、事実を得ようという意がなかった」と書かれています。
また、『漢書翟方進伝(巻八十四)』にはこうあります「丞相薛宣が、広漢の盗賊が起きた事、および太皇太后の喪時に三輔の吏(官吏)が並んで徴発して姦を為した事に坐し、罷免されて庶人になった。翟方進も京兆尹の時(前年)(王太后の)喪事を奉じて百姓を煩擾(侵犯すること。混乱させること)した罪に坐して、執金吾に左遷された。」
これらの記述を見ると、邛成太后の葬礼のために民衆から緊急で賦税を徴収し、その過程で不正が行われていたようです。
 
資治通鑑』に戻ります。
二十余日の間、丞相の官が欠員となりました。群臣の多くが翟方進を丞相に推挙します。
成帝も翟方進の能力を重視していました。
 
十一月壬子(初二日)、翟方進を抜擢して丞相に任命し、高陵侯に封じました。
 
荀悦の『前漢孝成皇帝紀(巻第二十六)』は「秋八月、翟方進を執金吾に左遷した」と書いています。これは『漢書百官公卿表下』に「三月丁酉(十二日)、京兆尹翟方進が御史大夫になった。八月、執金吾に落とされた(八月貶為執金吾)」とあるからです。
しかし『漢書翟方進伝』には、「丞相薛宣が罷免されて翟方進も執金吾に左遷された」と書かれているので、『資治通鑑』は翟方進の左遷を薛宣が罷免された十一月に並べて書き、『百官公卿表』の「八月」を「八カ月後(三月に御史大夫になり、その八カ月後)」と解釈しています。
但し、『資治通鑑』が「十一月己丑」に薛宣の免官を書いているのは恐らく誤りです。『漢書百官公卿表下』では「十月己丑」に薛宣が免官されています。
翟方進が丞相になるのは十一月壬子(初二日)で、その前に「丞相の位が二十余日に渡って欠員になった」と書かれているので、薛宣が罷免されたのは十月のはずです。その場合、『漢書百官公卿表下』の「三月丁酉、京兆尹翟方進が御史大夫になった。八月に執金吾に落とされた」の「八月」は「足掛け八カ月」という意味になります。
 
資治通鑑』本文に戻ります。
翟方進は経術によって昇進しました。
漢書翟方進伝』によると、翟方進は射策甲科によって郎になり、二三年後、明経(経典に精通している者)として推挙されて議郎に遷されました。
「射策」というのは経書に関する質問に回答する試験の一種です。
「甲科」は試験の種類で、漢代は甲乙丙の三科がありました。例えば西漢平帝時代の歳課(一年に一回の試験)では、甲科四十人が郎中に、乙科二十人が太子舍人に任命され、丙科四十人が文学掌故(官名)を補いました(漢書儒林伝(巻八十八)』参照)
 
翟方進は儒学によって官途に就きましたが、官吏になってからは法が厳酷で、官勢に頼って威を立て、嫌った者がいたら峻文(苛酷で細かい法律)を使って徹底的に誹謗しました。多くの者が中傷を受けます。
ある人が「翟方進は私情を挟んで詆欺(誹謗)しており、公平ではない」と言いましたが、成帝は翟方進の行為が全て科(法律)に基いていると考えて非難しませんでした。
 
御史大夫だった翟方進が丞相になったので、諸吏散騎光禄勳孔光を御史大夫に任命しました。
 
孔光は関内侯・褒成君孔霸元帝永光元年43年参照)の少子で、孔子十四代後の子孫です武帝元朔二年127年参照)
漢書匡張孔馬伝(巻八十一)』によると、孔霸には四子がおり、長子孔福が関内侯を継ぎました。次子を孔捷、その弟を孔喜といい、それぞれ校尉諸曹に列しました。孔光は最少の子ですが、経学に最も通じていました。
 
資治通鑑』に戻ります。
孔光は尚書の職務を行い(領尚書、政事の中枢を管理して(典枢機)十余年になりました。法度を守り、故事を修め(前例に則り)、成帝が質問したら経法を根拠とし、心中で納得していることだけを答えて天子の意思には迎合しませんでしたが、もし成帝が従わなくても敢えて無理に諫争しなかったため、久しく安全を保ちました。
進言したいことがあって上書を準備しても、いつも草藳(草稿)を削り(当時は竹簡や木簡を使っているので、削って破棄します)、主の過失を明らかにすることで忠直の名声を求めるのは人臣における大罪であると考えました。
また、ある人を推挙したとしても、その人に自分が推挙したと知られることを恐れました。
沐日(休日)に家に帰って休み、兄弟妻子と燕語(宴飲談笑)した時も、話題が朝省(朝廷・禁中)や政事に及ぶことはありませんでした。
ある人が孔光に「温室省中(温室殿や禁中)の樹は、それぞれ何の木ですか?」と聞いても、孔光は黙ったまま応えず、他のことに話題を移しました。孔光が宮中の事を漏らさない様子はこのようでした。
 
 
 
次回に続きます。