西漢時代268 成帝(二十六) 昌陵事件 前15年(3)

今回で西漢成帝永始二年が終わります。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
成帝が雍を行幸して五畤を祀りました。
 
資治通鑑』胡三省注は「成帝建始二年(前31年)、雍の五畤を廃止した。今回、久しく継嗣(後継者)がいなかったため、甘泉泰畤と併せて全て復した」と解説しています。
但し、雍五畤の恢復は翌年のはずです。本年の記述は翌年の誤りかもしれません。
 
[] 『資治通鑑』からです。
衛将軍王商が陳湯を嫌っていたため、上奏しました「陳湯は、暫くしたらまた昌陵に発徙(民を移住させること)すると妄言しました。また、黒龍が冬に現れたのは(前年)、微行(皇帝のおしのび)によってしばしば外出していることの応(反応)だと言いました。」
 
陳湯は昌陵建設が始まると率先して移住を願い出ました(成帝鴻嘉二年19年参照)
漢書傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』によると、成帝が昌陵建設を中止した時(成帝永始元年16年)、丞相や御史が昌陵邑に建てた吏民の住居も除くように請いましたが、成帝は同意しませんでした。
そこである人が陳湯に問いました「第宅(邸宅)を撤去しないのは、今後また発徙するためでしょうか(昌陵に吏民を遷すつもりでしょうか)?」
陳湯が言いました「県官(陛下)はとりあえず群臣の言を聞いて従っているだけなので、また発徙するはずだ。」
また、昨年、東莱郡に黒龍が現れた時、ある人が陳湯に意見を求めると、陳湯はこう言いました「これはいわゆる『玄門が開く(玄門開)』というものだ。(陛下が)微行してしばしば外出し、出入の時が相応しくないので、龍も相応しくない時に現れたのだ。」
今回、これらの事が弾劾されました。
 
資治通鑑』に戻ります。
廷尉が上奏しました「陳湯の言は相応しくなく、大不敬の罪に当たります。」
しかし陳湯には郅支単于を斬った功があるため、成帝は詔を発して死罪を免じ、庶人に落として辺境(敦煌)に遷すことにしました。
 
成帝が趙皇后(趙飛燕)を立てる時、淳于長が協力したため、成帝は感謝していました。
そこでかつて昌陵建設の廃止を進言した功績を宣揚し、公卿に命じて淳于長の封侯について議論させました。
しかし高帝が定めた決まりでは、功がなければ封侯してはならなかったため、光禄勳平当がこう言いました「淳于長には確かに善言がありますが、封爵の科(規定)には符合しません。」
平当は鉅鹿太守に左遷されました。
資治通鑑』胡三省注によると、平氏は斉相晏平仲晏子の子孫といわれています。または、韓哀侯の少子の食邑が平邑だったため、邑名が氏になったともいいます。
 
十二月、成帝が詔を発しました「以前、将作大匠万年(解万年)は、昌陵の地形が低くて万歳の居(死後の住居。陵墓)とすることができないと知っていながら、上奏して営作(建設)を請い、郭邑を建置し、妄りに巧詐を為し、土を積んで高さを増し、賦斂徭役を多くし、卒暴の作(緊急、緊迫の労働)を興した。卒徒は辜(罪。禍)を蒙り、死者が連属し(死ぬ者が相次ぎ)、百姓が疲弊を極め、天下が匱竭(欠乏)した。常侍(顔師古注によると「王閎」)はかつて大司農中丞として、しばしば昌陵が完成できないことを上奏した。侍中(淳于長)は早く中止して遷した家を元に戻すようにしばしば進言した。朕は長(淳于長)の言を受けたので、閎(王閎)の章(上奏文)を下した(群臣に下して議論させた)。その結果、公卿の議者は皆、長(淳于長)の計に同意した。(二人は)初めに至策(最上の策)を建議し、閎(王閎)は典主(主管)して大費を省き(大司農中丞は金銭食糧や人夫の雇用を管理します)、民はこれによって康寧となった。閎(王閎)は前に関内侯の爵と黄金百斤を下賜した。よって長(淳于長)に関内侯の爵を下賜し、食邑を千戸とし、閎(王閎)を五百戸とする。万年は佞邪不忠で衆庶(民衆)に害を及ぼしたので(毒流衆庶)、海内が怨望して今に至っても止んでいない。赦令を蒙ったとはいえ、京師に住むべきではないので、万年を敦煌郡に遷す。」
 
こうして衛尉淳于長は関内侯の爵位を与えられ、将作大匠解万年は陳湯と共に敦煌に遷されました。
尚、『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』は淳于長を「衛尉」としていますが、『漢書百官公卿表下』によると淳于長が衛尉になるのは成帝永始四年(前13年)のことで、この時は「侍中水衡都尉」のはずです。
 
以前、少府陳咸と衛尉逢信(逢が姓氏です。『資治通鑑』胡三省注は古の逢蒙という名を挙げています)は官簿(官員としての経歴)が翟方進の上にありました。
翟方進は遅れて官途に就き、京兆尹になってから陳咸と厚く交わりました。
御史大夫が欠員になった時、三人とも名卿として選択肢に入りましたが、最後は翟方進がその地位を得ました。
しかし丞相薛宣が罪を得ると、翟方進にも影響を及ぼしました(前回参照)。成帝は二千石の官吏五人を送り、丞相と御史をまとめて問い正します。
この時、陳咸が翟方進を詰問してその地位を奪おうとしたため、翟方進は心中で恨みました。
陳湯はかねてからその才能によって王鳳と王音に寵用されていました。陳咸と逢信は陳湯と仲が善かったため、陳湯はしばしば王鳳と王音の前で二人を称えました。そのおかげで二人は九卿になりました。
しかし今回、王商が陳湯を放逐したため、翟方進がこの機を利用して上奏しました「陳咸と逢信は陳湯に附会して薦挙を求め、目先の利を得るために恥を忘れました(苟得無恥)。」
二人とも罷免されました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「陳咸と逢信の免官は翌年以後の事だが、陳湯の事にちなんで続けて述べた」と解説しています。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
この年、琅邪太守朱博が左馮翊になりました。
 
朱博が郡を治めた時は、常に属県に命じてそれぞれその地の豪桀を大吏(大官)にさせ、文官も武官も能力に応じて任命しました。
県で劇賊(大盗)が現れたり他の非常事態が起きたら、朱博はいつも書を送って彼等を譴責し、尽力して成果があった者には必ず厚賞を加え、奸詐を抱いて職責を全うしなかった者にはすぐに誅罰を行いました。
そのため豪強が懼れて服従し、成功しない事はありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代269 成帝(二十七) 祭祀の恢復 前14年