西漢時代 谷永の諫言

成帝永始二年(前15年)、谷永が涼州刺史になり、報告のために京師に来ました。

西漢時代266 成帝(二十四) 班伯 前15年(1)

 
報告が終わって涼州刺史部に帰ろうとした時、成帝が尚書を送り、谷永に話したいことがあったら自由に述べるように命じました。
谷永はこれに応えて成帝を厳しく批判しました。以下、『資治通鑑』からです。

「臣が聞くに、天下の王となり国家を有す者は、上に危亡の事があるのに、危亡の言を上が聞けない状況を憂いとするといいます。もしも危亡の言を常に上に報告させていれば、商、周が易姓(統治者の姓を変えること。王朝が交代するという意味です)して迭興(前後して興隆すること)する必要はなく、三正(夏周の暦)も変改して更用する(新しくする)必要がありませんでした。夏、商が亡ぼうとした時、道を行く人も皆それを知っていたのに、(統治者は)晏然(安寧)として天に日(太陽)があるように誰も危害を加えられないと信じていました。だから悪が日に日に広くなっても自分だけは知らず、大命が傾いてもまだ悟りませんでした。『易』にこうあります『危うくなる者は安全だと思っている者である。亡ぶ者は存続を保てると思っている者である(『資治通鑑』は『漢書谷永杜鄴伝(巻八十五)』を元に「危者有其安者也,亡者保其存者也」と書いていますが、『易』の原文は「危者,安其位者也。亡者,保其存者也」です)。陛下が誠に寬明の聴を垂れて(寛大英明な態度で下の意見に耳を傾けて)、忌諱の誅(失言による誅殺)をなくし、芻蕘の臣(草や芝を刈るような下級の臣)でも(陛下の)前でことごとく報告できるようにすれば、それは群臣の上願(最大の願い)であり、社稷の長福となります。

元年(成帝永始元年16年)九月に黒龍が現れ、その晦(月の末日)に日食がありました。今年二月己未(「癸未(二十八日)」の誤りです。『漢書谷永杜鄴伝』が間違えており、『資治通鑑』はそのまま「己未」と書いています)の夜には星が落ち(星隕)、乙酉(三十日)には日食がありました。六カ月の間に大異が四回も発生し、しかも二つずつが同月に起きました。三代(夏周)末でも、春秋の乱世でもなかったことです。臣が聞くに、三代が社稷を滅ぼして宗廟を失ったのは(隕社稷喪宗廟)、全て婦人と群悪が酒に沈湎(溺れること)したからです。秦が二世十六年で亡んだのは、生を養って(生前の皇帝を養って)過度に奢侈であり、終を奉じて(死者を埋葬して)過度に厚かったからです。この二者(三代と秦が滅んだ原因)を陛下は兼ね備えています。臣はその效(結果。因果関係)を簡単に述べることを請います。

建始、河平の際、許(許皇后と班倢伃の家族)の貴が前朝(以前の朝廷)を傾動して四方を熏灼し(炎のように権勢が四方を圧倒し)、女寵が極みに至ってそれ以上にはできないほどになりました。しかし今は、後から起きた者(趙皇后や李平等)が以前の什倍(十倍)にもなっており、(陛下は)先帝の法度を廃し、その言を聴いて用い、官秩は相応しくなく、王法に則ったら誅殺されるべき者でも罪を赦し(縦釈王誅)、その親属を驕慢にし、(彼等は)威権を借り、従横(横行、専横)して政を乱し、刺挙の吏(監察検挙の官)も敢えて憲(法令)に則ろうとしません。また、掖庭獄を大いに乱阱(陥穽。わな)となし、榜箠(鞭や棒)は炮烙(古代の酷刑)より苦痛で、人命を絶滅させ、主に趙李のために徳に報いて怨みを晴らしています(報徳復怨)(彼等は)罪が明白な者は逆に除き(趙氏や李氏の党人なら罪があっても刑を与えず)、正吏を治めるように建議しています(趙氏や李氏に反対している正しい官吏を裁くように建議しています)。多くが無辜(無罪)なのに繋がれ、拷問脅迫によって罪を認めさせられています(原文「掠立迫恐」。「掠立」は拷問して罪を認めさせること、「迫恐」は脅迫の意味です)。更に人に起責し(「起責」は人に金を貸して利子を得ることです。保釈金を貸したという意味だと思います。原文「至為人起責,分利受謝」)、利(利子)を分けて謝(謝礼。財物)を受け取っています。生きて(獄に)入り、死んで出て来た者は数え切れません。だから日食が再度現れて(日食再既)、その辜(罪)を明らかにしたのです。

王者は必ず先に自らを絶ち、その後、天がこれを絶つのです(王者自身に滅亡の原因があるから、天がそれを滅ぼすのです)。今、陛下は万乗の至貴(至上の位)を棄てて家人(庶人)の賎事を楽しみ(成帝はしばしば庶人の姿をして微行(おしのび)をしています)、高美の尊号を嫌って匹夫の卑字を好み(成帝は微行の際、臣下と字で呼び合っています。または富平侯張放の家人を自称していたことを指します)、僄軽(軽率、軽薄)無義の小人と集まることを崇めて(重視して)彼等を私客とし、しばしば深宮の固(警護が厳しい深宮)から離れ、晨夜(朝夜)に身を挺して群小と相隨し(一緒になり)、烏が集まるように雑会して吏民の家で酔飽し(飲み食いし)、服装を乱して共に坐り、軽薄な事に溺れ(沈湎媟嫚)、混乱して(身分の)区別がなく(溷淆無別)、快楽に流れることに尽力しています(黽勉遁楽)。昼夜とも路上にいるため、門戸を管理して宿衛を奉じている臣は干戈(武器)を持って空宮を守り、公卿百僚は陛下の所在を知らず、このような状況が繰り返されて数年になります。

王者は民を基(基礎)とし、民は財を本とするので、財が尽きたら下が畔(叛)し、下が畔したら上が亡びます。だから明王は基本(民)を愛して養い、困窮を極めさせることはなく、民を使う様子は大祭を開く時のように慎重だったのです(原文「使民如承大祭」。『論語』の言葉です)。しかし今の陛下は民の財を軽奪し(簡単に奪い)、民力を愛さず、邪臣の計を聴いて高敞(高くて広大)な初陵を去り、改めて昌陵を造り、労役は乾谿(乾谿は春秋時代楚霊王が死んだ場所です。ここでは楚霊王を指します)の百倍となり、費用は驪山秦始皇帝陵と比べられるほどになりました。しかし、天下を靡敝(浪費疲弊。衰退)させながら、五年経っても完成できず、結局反故にしました。百姓の愁恨が天に感応させ、饑饉が頻繁に至り、(民は)流散して各地で食を求め、道中で餧死(餓死)した者は百万を数えます。公家には一年の畜(蓄え)もなく、百姓には旬月(一月未満)の儲(蓄え)もなく、上下とも欠乏し、互いに救うことができません。『詩(大雅蕩)』にはこうあります『殷の鏡は遠くない。夏王の世にある(原文「殷監不遠,在夏后之世」。商王朝が教訓とするべきことは、すぐ前の夏王朝にあったという意味です)。』陛下が夏、商、周、秦の(天下を)失った理由を遡って観察し、それを鏡にして自身の行動を考察することを願います。もし符合しないことがあるようなら(原文「有不合者」。「谷永の言が適切ではなかったら」もしくは「成帝の行動が夏、商、周、秦の末世の国君と同じではないというのなら」)、臣は必ず妄言の誅に伏します。

漢が興って九世・百九十余載(年)になり、その内、継体の主(国体を継承した主)は七人いますが、皆、天意を承って道に順じ(承天順道)、先祖の法度を遵守し、それによってあるいは中興し、あるいは(天下を)治めて安んじました。しかし陛下に至ったら、一人道に違えて欲をほしいままにし、身を軽んじて妄りに行動し、盛壮の隆(精力旺盛な壮年の時期)に当たるのに継嗣(跡継ぎ)の福がなく、逆に危亡の憂があり、君道を繰り返し失って天意に符合しないことも多数あります。人(先祖)の後嗣になりながら、人の功業を守ってこのようであったら、裏切りではありませんか(豈不負哉)。今、社稷宗廟の禍福安危の機(要)は陛下にあります。もし陛下が明白かつ深遠に悟ることができ(昭然遠寤)、專心して道に還り、旧愆(古い過ち)を完全に改め、新徳を明らかにできたら、赫赫とした大異(大きな変異)も消滅できるかもしれず、天命の去就(無徳から去って有徳に就く天命。成帝から既に離れた天命)も回復できるかもしれず、社稷、宗廟も保てるかもしれません。陛下が留神反覆し(留意して繰り返し考え)、臣の言を熟省(熟慮。熟考)することを願います。」