西漢時代 梅福の上書

成帝永始三年(前14年)、元南昌尉で九江の人梅福が上書しました。

西漢時代269 成帝(二十七) 祭祀の恢復 前14年

 
以下、『資治通鑑』を元に上書の内容を書きます。
「昔、高祖は、善言を採用する様子がまだ及ばないようであり(いくら善言を採用してもまだ足りないようであり。原文「納善若不及」)、諫言に従う様子は転圜(円形の物を転がすこと。従順な様子です)のようであり、言を聴いてその能を求めず(発言者の能力に関わらず善言なら採用し)、功を挙げてその素を考慮しませんでした(本人の素行に関係なく功績を認めました)。だから陳平は亡命の身から起きて謀主(重要な謀臣)となり、韓信は行陳(行陣。軍旅。兵卒)の中から抜擢されて上将に立てられ、そのおかげで天下の士が雲合して漢に帰し、争って奇異(奇策異能)を進め、知者はその策を尽くし、愚者もその慮(考え)を尽くし、勇士はその節を極め、怯夫もその死に勉めました(命をかけました)。天下の知を合わせ、天下の威を併せ、それによって鴻毛(羽毛。軽いこと、容易なことの喩えです)のように秦を挙げ(転覆させ)、拾遺(人が失った物を取ること。落ちている物を拾うこと)するように楚を取りました。これが高祖が天下において無敵だった理由です。

孝武皇帝は忠諫を好んで至言を喜び、爵を与える際は廉(孝廉、秀才)を待たず、慶賜(賞賜)も顕功を必要としませんでした(諫言が相応しかったら、孝廉や秀才でなくても爵位を与え、明らかな功績がなくても賞賜を与えました)。そのため、天下の布衣はそれぞれ厲志竭精(志を磨いて精力を尽くすこと)して闕庭(朝廷)に赴き、自ら衒鬻する者(自分を売り込む者)が数え切れないほどになりました。漢家が賢才を得たのは、この時が最盛になりました。もし孝武皇帝がこれらの計を聴いて用いていたら、升平(『資治通鑑』胡三省注によると、民に三年の蓄えがあることを「升平」といいます。泰平の世を指します)が至ったでしょう。しかし当時は(連年の戦争のため)屍が積まれて骨が曝され(積尸暴骨)武帝が)匈奴越を撃つことに喜んだため(快心胡越)、淮南王安が隙に乗じて起こりました。それでも(淮南王の)計慮が成功せず謀議が漏れたのは、衆賢が本朝(朝廷)に集まっており、その大臣(淮南王の大臣)の勢力が(淮南王を)凌駕して和従しようとしなかったからです。

しかし今は布衣が国家の隙を窺っており、隙を見て起きた者には蜀郡があてはまります(『資治通鑑』胡三省注によると、鴻嘉年間に挙兵した広漢の男子鄭躬等を指します)。山陽の亡徒蘇令の群に及んでは、名都、大郡(十二万戸以上を大郡といいます)を蹈藉(蹂躙)し、党與を求めて隨和(協力)する者を探し、逃匿(逃げ隠れすること)の意思がありませんでした。これらは全て大臣を軽量(軽視)して畏忌(畏れて避けること)することがないからです。国家の権が軽くなったので、匹夫が上(陛下。朝廷)と争衡(闘争)しようとしているのです。

士とは国の重器です、士を得たら重くなり、士を失ったら軽くなります。『詩(大雅文王)』にはこうあります『多数の士が集まり、文王は安寧を得た(済済多士,文王以寧)。』廟堂の議は草茅(平民。私)が言うことではありませんが、臣はこの身に野草を塗り野垂れ死にし)、尸(屍)を卒伍(士卒)に並べることを誠に恐れるので、しばしば上書して謁見を求めました。しかしいつも報罷(却下)されました(『漢書楊胡朱梅云伝(巻六十七)』によると、梅福は南昌尉になりましたが、後に官を去って故郷の寿春に帰りました。その際、しばしば県や道を通して変事について上書しましたが、全て却下されました)。臣が聞いたところでは、斉桓公の時、九九(掛け算)をもって謁見に来た者がいましたが、桓公は拒否しませんでした(九九のような小事を述べるために来た者も拒否しませんでした)。大(大才。大賢)が至ることを欲したからです。今、臣が述べているのは、単なる九九のようなことではありません。しかし陛下が臣を拒否したのは三回になります。これが天下の士が至らない原因です。昔、秦武王が力を好んだので、任鄙が関を叩いて自分を売り込みました。繆公が霸を行ったので、由余が徳に帰しました。今、天下の士が至るように欲するなら、民の中に上書して謁見を求める者がいたら全て尚書を訪ねさせ、尚書が)その言の内容を問い、言を採用できる者は、升斗の禄を秩として与え(「升斗之禄」はささやかな俸禄です。小官に就けるという意味です)、一束の帛を下賜するべきです。こうすれば天下の士が憤懣を発表し、忠言を吐き、嘉謀(優れた計策)が日々上に聞こえ、天下の條貫(条理。体系)、国家の表裏(真相。形勢)が明らかに観えるようになります(爛然可睹矣)

四海の広さと士民の数をもってすれば、能言の類は衆多に至ります(天下は広く人口も多いので、弁舌を得意とする者は多数います)。しかし雋桀(俊傑)の士で、世情を指摘して政事を述べ(指世陳政)、発言したら文章となり(弁才に優れているという意味です。原文「言成文章」)、先世(または「先聖」)と対比しても誤りがなく(原文「質之先世不繆」。『漢書楊胡朱梅云伝』では「先世」を「先聖」としています)、当世に施せば時務に符合する、このような者は幾人もいません。だから爵禄や束帛は天下の砥石であり、高祖はそれを使って世の人を奨励して愚鈍の者を磨いたのです(厲世摩鈍)

孔子はこう言いました『工匠が事をうまく完成させたいと欲したら、必ず先に器具を鋭利にする(原文「工欲善其事,必先利其器」。『論語』の言葉です)。』しかし秦に至ったらそうではありませんでした。誹謗の罔(網)を張って漢のために駆除し(秦が言論に対して厳しい法を用いたため、人材が漢に走り、漢のために道を開きました)、泰阿(または「太阿」。名剣の名です)を逆にもって楚に柄を授けました(秦が無道だったため、陳渉や項羽等、楚の勢力に隙を与えました)。逆に、もしも剣柄を失わずにいられれば、天下に不順の者がいたとしても、敢えてその鋒(刃)に触れようとする者はいません。これが、孝武皇帝が地を開いて功を建て、漢の世宗となった理由です。
今、陛下は天下の言を採用せず、しかも戮(殺戮。迫害)を加えています。鳶鵲(トビやカササギが害に遭ったら、去って行く仁鳥(鸞鳥や鳳凰。神鳥)が増えます。愚者が戮を蒙ったら、智士が深く退きます。最近、愚民が上書して多くが不急の法に触れ(発言した内容が重要ではなかったため罪とみなされ)、あるいは廷尉に下されて死んだ者も多数います。陽朔(成帝の年号)以来、天下は言を諱(忌避)とし、朝廷が最もひどい状況ですが、群臣は皆、上指(陛下の意思)に承順(恭順)して誰も正しい意見を堅持しようとしません。何をもってこのような状況が分かるのでしょうか。民の上書を取って、陛下が善としたものを試しに廷尉に下せば、廷尉は必ず『相応しい発言ではないので、大不敬の罪に当たります』と言うでしょう。このようにして試すのが一つの方法となります。

故京兆尹王章は資質(性格)が忠直で、敢えて朝廷で直言諫争(面引廷争)したので、孝元皇帝がこれを抜擢し、そうすることで具臣(官位をもつ臣下)を奨励して曲朝(朝廷の歪み)を矯正しました。しかし陛下に至ったら、戮(刑罰)(王章の)妻子に及びました。悪を憎んでもその身で留めるべきです(原文「悪悪止其身」。『春秋公羊伝昭公二十年』に「悪悪止其身,善善及子孫」とあります。「悪を憎んでも本人の身に留め、善を嘉したらその子孫に及ぼせ」という意味です)。王章には反畔(謀反)の辜(罪)があったわけではないのに、殃(禍)が室家(家族)に及び、その結果、直士の節を折り、諫臣の舌を結ぶことになりました。群臣は皆、その非を知っていますが、敢えて争おうとせず、天下が進言を警戒しています。これは国家が最も大患(憂患。害病)とすることです。

陛下が高祖の軌(軌道。軌跡)に則り、亡秦の路を塞ぎ、不急の法(重要ではないことを進言したら刑を与えるという法)を除き、無諱の詔(発言を忌避する必要がないことを宣言する詔)を下し、博覧兼聴し(広く見聞し)、謀を疎賎に及ぼし(関係が薄い者や身分が低い者とも謀を計り)、深者(遠謀がある者)を隠れさせず、遠者(の道)を塞がないことを願います。これがいわゆる『四門を開けて四目を明らかにする(原文「辟四門,明四目」。『尚書舜典』の言葉です。四方の門を開いて人材を招き、四方をよく観察するという意味です)』というものです。

往った者には及びませんが、来る者にはまだ追いつけます(過去の事は変えられませんが、未来の事は変えられます)。最近は君命が犯されて主威(主君の威権)が奪われており、外戚の権が日々ますます隆盛しています。陛下にその形(実態)が見えなくても、その景(影)を察することを願います。建始(成帝の最初の年号です)以来、日食や地震の率(頻度)で言えば春秋の三倍となり、水災の数は比べることもできません(亡與比数)。陰が盛んになって陽が衰え(陰盛陽微)、金鉄が(星のようになって)飛びましたが、これは何の景(象)でしょうか。漢が興きて以来、社稷は三危に遭いました。呂、霍、上官は皆、母后の家です。親親の道(親族と親しむ道。親族を大切にする道)保全を右(上)とします。本来、外戚には)賢師良傅を与えて忠孝の道を教えるべきです。しかし今はその位を尊寵なものとし、魁柄(大権)を授け、彼等を驕逆にさせており、最後は夷滅(族滅)に到らせることになります。これは親親(親族を大切にすること)を失った最も大きなものです。霍光の賢があっても子孫のために考慮できませんでした。よって、権臣とは世が換わったら危うくなるものなのです(原文「易世則危」。「易世」は「次の皇帝になったら」または「権臣が次の世代になったら」という意味です)。『書』にはこうあります『火のようになってはならない。始めは勢いが小さい(原文「毋若火,始庸庸」。『尚書洛誥』では「毋若火,始焔焔」となっています。火は時間が経つと大きくなるため、まだ小さい時に手を打たなければならないという意味です)』。外戚の)勢が君を凌駕し、権が主より隆盛し、そうなってからこれを防ごうとしても、すでに間に合いません。」

成帝は諫言を採用しませんでした。