西漢時代271 成帝(二十九) 天変 前12年(1)
今回は西漢成帝元延元年です。二回に分けます。
西漢成帝元延元年
己酉 前12年
春正月己亥朔、日食がありました。
壬戌(二十四日)、王商が再び大司馬・衛将軍になりました。
王商は昨年、病のため官を辞していました。
三月、成帝が雍を行幸し、五畤を祀りました。
[四] 天変がありました。
「夏四月丁酉(初一日)、雲がないのに雷が鳴り、声光が耀耀(明るく照らす様子)とし、四面に落ちて地に至り、昬(夜。暗くなった時)に止んだ。」
「元延元年四月丁酉日の餔時(晡時。申の時。午後三時から五時)、天が暒晏(雲がない晴天)なのに雷のような音が激しく響いた(殷殷如雷声)。流星があり、頭は缶(瓦器。酒等を入れる壺)のように大きく、長さは十余丈あり、赤白く明瞭に輝き(皎然赤白色)、日(太陽)の下から東南に去った。あるいは盂(水等を入れる容器)のように大きく、あるいは雞子(鶏の卵)くらいの大きさで、四面で燿燿としながら雨のように降り、昏に至って止んだ。」
このように、『成帝紀』では「雷」としか書いていませんが、『天文志』を見ると、本来は「雷のような音」と「流星」という二つの出来事があったことが分かります。
「夏四月丁酉、雲がないのに雷が鳴った。
流星が日の下から東南に移動し、四面で燿燿として雨のように降った。これは晡から始まり、昏に至って止んだ。」
尚、雲がないのに雷が鳴った事に関して、『資治通鑑』胡三省注が劉向の解説を紹介しています。それによると、通常は雷の前に雲が現れ、雷は雲に頼って発生します。これは国君が臣下に頼るのと同じで、陰陽が整合している状態です。しかし人君が天下を慈しまず、万民に怨畔(叛)の心があると、雲がないのに雷が鳴ります。
天下に大赦しました。
成帝が詔を発して言いました「最近、日食があり、星が落ち(日蝕星隕)、天に謫(罰。譴責)が現れて、大異(大きな変異)が重ねて頻発しているのに、在位(の官員)は默然とし(暗黙し)、忠言がほとんどない。今、孛星が東井に現れたので、朕は甚だ懼れている。公卿大夫、博士、議郎はそれぞれ心を尽くし、変意(変異の意図。原因)について惟思(考慮)せよ。道理を明らかにして発言し(明以経対)、避けることがあってはならない(無有所諱)。内郡国と共に方正で直言極諫できる者を各一人挙げ、北辺二十二郡と共に勇猛で兵法を知る者を各一人挙げよ。」
成帝が災変について広く群臣に意見を求めたたため、北地太守・谷永と中塁校尉・劉向が成帝を諫める進言をしました。
成帝は劉向を召して意見を聞きましたが、実行はできませんでした。
谷永と劉向の進言は別の場所で書きます。
西漢時代 谷永・劉向の進言
紅陽侯・王立が陳咸を方正(正直で阿らない人材)として推挙しました。
陳咸は対策(皇帝の質問に答える試験)を通して光禄大夫・給事中に任命されます。
しかし丞相・翟方進が上奏しました「陳咸は以前、九卿になりましたが、貪邪に坐して免じられました(成帝永始二年・前15年参照)。方正を蒙って挙げられ、内朝の臣の備えとするべきではありません(方正の資格で内朝の臣に任命するべきではありません)。」
更に翟方進は王立を弾劾してこう言いました「紅陽侯・立の選挙は、わざと実(真実。実情)に則りませんでした。」
『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では、列侯の選挙が実に則らなかった場合、封戸が削られることになっていました。
成帝は詔を発して陳咸を罷免しましたが、王立は譴責しませんでした。
十二月乙未(初二日)、大司馬・衛将軍・王商が大将軍に任命されました。
辛亥(十八日)、大司馬・大将軍・王商が死にました。
以下、『資治通鑑』からです。
王商が死んだので、弟の紅陽侯・王立が王商を継いで大司馬となり、輔政の地位を得るべき立場にいます。
しかし王立はこれ以前に罪を犯していました。
かつて、王立は客(門客。賓客)を派遣し、南郡太守・李尚を通して数百頃の草田を占墾(占拠・開墾)しました。
王立が占拠して開墾した数百頃の草田(荒田)は、民が少府から借りて既に開墾した陂沢(湖沢)が広い範囲を占めていました。
顔師古はこう解説しています「以前は陂沢の地で本来、少府が管轄していたが、後にその地を百姓に貸し出し、百姓が皆、既に墾田していた。しかし王立はそれらを草田と称し、占拠して自分が始めて開墾したと宣言した。」
しかし丞相司直・孫宝がこれを告発したため、成帝は王立を大司馬の人選から外しました。
代わりに王立の弟に当たる光禄勳・曲陽侯・王根が用いられることになります。
庚申(二十七日)、王根を大司馬・驃騎将軍に任命しました。
次回に続きます。