西漢時代273 成帝(三十一) 烏孫 康居 前11年

今回は西漢成帝元延二年です。
 
西漢成帝元延二年
庚戌 前11
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、成帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祭を行いました。
 
三月、河東を行幸して后土を祀りました。
成帝は祭祀が終わってから龍門に行遊し、歴観に登り、西岳(華山)に登ってから還りました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、広陵孝王・劉覇の子・劉守を王に立てました。
 
広陵王は武帝の子・劉胥(厲王)から始まります。
劉胥は宣帝を呪詛した罪が発覚して自殺しました。広陵国が一時断絶します(宣帝五鳳四年・前54年)
しかし元帝が劉胥(武帝の子)の子・劉霸を再び広陵王に立てました元帝初元二年・前47年)
漢書・諸侯王表』『漢書・武五子伝(巻六十三)』によると、孝王・劉覇の後、共王・劉意、哀王・劉護と継ぎましたが、劉護に後嗣がいなかったため再び断絶しました。
この年、改めて劉覇の子・劉守が広陵王に封じられました。諡号は靖王です。
 
尚、荀悦の『前漢紀・孝成皇帝紀(巻第二十七)』は「劉守」の名を「劉憲」としています。『資治通鑑』は『漢書』に従っています(胡三省注参照)
 
[] 『資治通鑑』からです。
烏孫には大昆弥と小昆弥がいました。昆弥は国王の意味です。
以前、烏孫小昆彌・安日が投降した民に殺され、諸侯が大乱に陥りました。
成帝は詔を発して元金城太守・段会宗を召し、左曹・中郎将・光禄大夫に任命して烏孫を安定させました。
 
段会宗について簡単に書きます。
段会宗は成帝陽朔年間に西域都護に再任しました(成帝陽朔四年・前21年参照)
漢書・傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』によると、段会宗が西域都護の時、康居太子・保蘇匿が一万余人の衆を率いて投降を欲しました。段会宗がこの状況を朝廷に報告したため、漢は衛司馬を派遣して保蘇匿を迎え入れることにしました。
段会宗は戊己校尉の兵を動員し、司馬に従って保蘇匿の投降を受け入れました。
ところがこの時、保蘇匿の衆が多かったため、司馬が恐れを抱きました。そこで司馬は投降する者に自分を縛ってから帰順するように命令しようとしました。
保蘇匿はこれを怨み、衆を挙げて去ってしまいます。
後に段会宗が任期を終えて帰還すると、成帝は段会宗が勝手に戊己校尉の兵を動員して乏興(乏軍興。軍事行為を妨害する等の罪を犯すこと。軍律に背くこと)したとし、詔を発して金銭で贖罪させました(有詔贖論)
その後、段会宗は金城太守になりましたが、病のため免官されました。
烏孫が混乱に陥ったのはそれから一年余後の事です。
 
資治通鑑』に戻ります。
段会宗は安日の弟・末振将を小昆彌に立て、烏孫国を安定させて還りました。
漢書・傅常鄭甘陳段伝』は「小昆彌の兄」としていますが、『漢書・西域伝下(巻九十六下)』は「弟」と書いています。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は『傅常鄭甘陳段伝』の「兄」が誤りとしています。
 
当時、烏孫の大昆彌・雌栗靡が勇健だったため、末振将は併合されることを恐れました。そこで貴人・烏日領に偽って投降させ、隙を見て雌栗靡を刺殺させました。
漢は兵を発して末振将を討伐しようとしましたが、実現できませんでした。
再び中郎将・段会宗を派遣して公主の孫・伊秩靡を大昆彌に立てさせます。
資治通鑑』胡三省注によると、この公主は楚主・劉解憂西漢宣帝本始二年・前72年参照)を指します。公主の孫は雌栗靡の季父(叔父)に当たります。
 
久しくして大昆彌と侯・難栖が末振将を殺しました。
安日の子・安犂靡が代わって小昆彌に立ちました。
 
漢は自ら末振将を誅殺しなかったことを後悔し、また段会宗を派遣しました。戊己校尉と諸国の兵を動員して末振将の太子・番丘を誅殺させます。
段会宗は、大軍が烏孫に入って番丘を驚かし、番丘が逃亡して捕まえられなくなることを恐れました。そこで動員した兵を墊婁(地名)の地に留め、精兵三十弩を選んで昆彌が住んでいる場所に直接向かいました。番丘を招いて末振将の罪を譴責してから、手に剣を持って番丘を撃殺します。
官属以下は驚恐して馳せ帰りました。
 
小昆彌・安犂靡が兵数千騎で段会宗を包囲しました。
段会宗は番丘を誅殺するために来たことを伝えてこう言いました「今、私を囲守(包囲)して殺しても、漢牛から一毛を取るようなものだ。宛王(大宛王。武帝時代)と郅支(郅支単于元帝時代)の頭が槀街長安の街の名)に掲げられたのは、烏孫も知っていることだ。」
小昆彌以下が服して言いました「末振将は漢に背いたので、その子を誅すのは可です(当然です)。しかし事前に我々に告げて飲食させることもできなかったのですか(我々が番丘と最後の食事をすることも許されなかったのですか)。」
段会宗が言いました「事前に昆彌(小昆彌)に告げてこれを逃匿させたら(匿って逃走させたら)(小昆彌の)大罪となってしまう。また、もし飲食してから我々に引き渡したとしたら、骨肉の恩を傷つけることになる。だから事前には告げなかったのだ。」
小昆彌以下の者達は号泣して去りました。
 
段会宗が帰還して朝廷に報告しました。
成帝は段会宗に関内侯の爵位と黄金百斤を下賜します。
段会宗は難栖が末振将を殺したので、堅守都尉に任命するように上奏しました。
資治通鑑』胡三省注によると、烏孫には大将と都尉が各一人いました。難栖は雌栗靡の仇に報いて臣節を堅守したため、諸侯と区別するために「堅守都尉」と命名しました。
 
また、大禄と大監は雌栗靡が殺害されるのを防げなかったため、金印と紫綬を回収され、銅印と墨綬が与えられました。
大禄、大監は宣帝甘露三年(前51年)から金印と紫綬が下賜されることになっていました。
 
末振将の弟卑爰疐も大昆彌の殺害に共謀したため、衆八万を率いて北の康居に頼り、兵を借りて両昆彌を兼併しようと謀りました。
漢は再び段会宗を派遣し、西域都護孫建(『資治通鑑』胡三省注によると、孫建が西域都護になるのは平帝元始年間の事です。当時の都護は郭舜です)と協力して卑爰疐に備えさせました。
漢書西域伝下』によると、平帝元始年間に卑爰疐は漢のために烏日領(雌栗靡を殺しました)を殺しました。漢は卑爰疐を帰義侯に封じます。しかし大小両昆彌が弱くなっていたため、卑爰疐はこれを侵陵しました。
そこで西域都護孫建が卑爰疐を襲って殺しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
烏孫が分かれて両昆彌が立ってから、漢は憂労(憂患労苦)によって安寧な年がありませんでした。
当時、康居がまた子を派遣して漢に入侍させ、貢物を献上しました。
康居は元帝の晩年か成帝が即位したばかりの頃、王子を入侍させました。陳湯が「本物の王子ではない」と発言して罪を問われたことがあります(成帝建始四年29年参照)
今回、改めて王の子を入侍させたようです。
 
西域都護郭舜が上書しました「かつて匈奴が強盛だった時がありましたが、烏孫と康居を兼有していたからではありません。匈奴が)臣妾を称するに及んだのも、二国を失ったからではありません匈奴の強盛や弱体は二国と関係がありません)。漢はこれらの国の質子(人質)を全て受け入れていますが、三国匈奴烏孫、康居)は内部で互いに輸遺(物資の輸送。交易贈答)し、以前と同じように交通しています。また、互いに窺い合っており、便を見たら発しています(機会を見つけたら相手を攻撃しています)。合しても互いに親しんで信用することができず、離れても互いに臣属として使役することができません。今の状況で言うなら、烏孫と結配(同盟。婚姻。武帝以来、烏孫に公主を送っています)しても、結局は益がなく、逆に中国に事を起こしています。しかし烏孫とは結が前にあり(最初に同盟を結び)、今は匈奴と共に臣を称しているので、義によって拒絶するわけにはいきません。これに対して康居は驕黠(驕慢狡猾)で、今まで(漢の)使者を拝そうとしたことがありません。都護の吏(西域都護の官吏、使者)がその国に至っても、烏孫の諸使(使者)の下に坐らせ、王や貴人が先に飲食を終えてから都護の吏に飲啗(飲食)させ、故意に(漢の使者を)省みない(相手にしない)ことで旁国(隣国)に誇っています。ここから推測するに、(康居は)なぜ子を派遣して入侍させているのでしょうか。賈市(市場。交易)を欲しているので、好辞の詐を為しているのです(交易をしたいから服従するふりをして騙しているのです)匈奴は百蛮の大国ですが、今は漢に仕えて非常に周到です(甚備)。しかし康居が(漢の使者を)拝さないと聞いたら、単于に後悔と自卑の意を抱かせることになるでしょう。その侍子を帰らせ、関係を絶って二度と使者を往来させないようにし、こうして漢家が無礼な国と通じないことを明らかにするべきです。」
しかし朝廷は康居と通じたばかりであり、また、遠人を招くことを重視したため、結局、羈縻(籠絡)を続けて関係を絶ちませんでした。
 
[] 『漢書帝紀は本年の冬に「成帝が長楊宮に行幸し、胡客を従えて大校猟(木の柵で囲って行う狩猟)をした。萯陽宮に宿泊し、従官に賞賜を与えた」と書いています。
翌年に述べます。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代274 成帝(三十二) 劉欣と劉興 前10~9年