西漢時代274 成帝(三十二) 劉欣と劉興 前10~9年
今回は西漢成帝元延三年と四年です。
西漢成帝元延三年
辛亥 前10年
春正月丙寅(初十日)、蜀郡の岷山が崩れました。江(恐らく「岷江」。長江上流の支流です)が三日に渡って塞がれ、江水が涸れてしまいます。
劉向はこの現象を非常に嫌ってこう言いました「昔、周は岐山が崩れて三川(涇水、渭水、洛水)が涸れてから(三川竭)、幽王が亡んだ。岐山は周が興隆した地だ。漢家は元々蜀・漢で起きた。今、興起した地で山が崩れて川が涸れ(山崩川竭)、また、星孛(異星。彗星の一種)も攝提、大角に及び、参から辰に至った。恐らく(漢朝は)滅亡することになるだろう(殆必亡矣)。」
孛星の長い尾が攝提と大角にかかり、この孛星は参宿から大辰にかけて移動したようです。
二月丙午(二十日)、成帝が侍中・衛尉・淳于長を定陵侯に封じました。
三月、成帝が雍を行幸し、五畤を祀りました。
成帝が多数の禽獣を飼っていることを胡人に誇示することにしました。
秋、右扶風に命じて民を動員させ、南山に入れました。西は褒・斜(『資治通鑑』胡三省注によると、褒と斜は南山の二つの谷です。秦川が南山を経由して漢中に通っており、山の南の谷を褒、北の谷を斜といいました)から東は弘農に至る広い範囲で南の漢中に向かって駆け(動物を逐い)、羅罔・罝罘(どちらも動物を捕まえる大きな網です)を張って熊・羆・禽獣を捕まえました。獲物は檻車に載せて長楊宮の射熊館に運びます。
成帝自らその様子を観覧しました。
「正月、揚雄が成帝に従って甘泉に行った。」「その年の三月、后土を祭ることになった。」
正月に甘泉を祀り、三月に后土を祀ったのは前年(元延二年・前11年)の事です。
その後の記述はこうです。
「その年(元延二年)の十二月、羽猟(皇帝が主催する狩猟)を行い、揚雄も従った。」「揚雄が『校猟賦』を献上した。」
「明年(元延三年。本年。この後の内容は『資治通鑑』が引用しています)、成帝が胡人に禽獣が多いことを誇示しようと欲し、秋、右扶風に命じて民を動員させ、南山に入れた。西は褒・斜から東は弘農に至るまで、南の漢中に向かって駆け、羅罔・罝罘を張り、熊羆・豪豬・虎豹・狖玃・狐菟・麋鹿を捕まえて檻車に載せ、長楊宮の射熊館に運んだ。罔で周阹を造り、その中に禽獣を放ち、胡人に素手で闘って獲物を獲らせた。成帝自らその様子を観覧した。この時、農民は收斂(作物の収穫)ができなかった。揚雄は成帝に従って射熊館に至り、帰ってから『長楊賦』を献上した。」
西漢成帝元延四年
壬子 前9年
春正月、成帝が甘泉を行幸して泰畤で郊祭を行いました。
中山王・劉興と定陶王・劉欣が来朝しました。
劉興は成帝の少弟で、劉欣は成帝の弟・定陶共王・劉康の子です。
中山王・劉興は傅だけを連れてきましたが、定陶王・劉欣は傅・相・中尉の三官を連れて入朝しました。
成帝が不思議に思って理由を問うと、劉欣はこう答えました「令では、諸侯王が入朝する時は、その国の二千石を従えることになっています。傅・相・中尉は皆、国の二千石なので全て従えました。」
成帝が劉欣に『詩』を暗唱させると、劉欣は習熟して諳んじるだけでなく、解説もできました。
他の日に成帝が劉興に問いました「傅だけを従えたのは何の法令を根拠にしたのだ?」
劉興は答えられません。
成帝が『尚書』を諳んじさせても暗記していませんでした。
成帝が二人に食事を下賜したことがありました。劉興は食事をするのが遅く、しかも満腹になるまで食べ続けます(原文「後飽」。成帝が食事を終えても劉興はまだ食事を続けており、しかも満腹になるまで止めませんでした)。
また、立ち上がって席を下りた時、韈係(足袋の紐)が解けていました(足袋の紐が解けていることにも気がつきませんでした)。
これらの事があったため、成帝は劉興には能力がないと考え、劉欣を賢才とみなしてしばしばその才能を称賛しました。
当時、諸侯王の中でこの二人だけが成帝と最も近い関係にありました。
定陶王・劉欣の祖母・傅太后(元帝の傅昭儀で定陶共王の母です。共王に従って封国に遷りました。定陶太后とよばれます)が王に附いて来朝しており、秘かに趙皇后、趙昭儀および票騎将軍(驃騎将軍)・王根に賄賂を贈りました。
成帝に子ができないため、三人もあらかじめ定陶王と結んで長久の計にしようとし、皆、代わる代わる劉欣を称賛しました。成帝に劉欣を後嗣に立てるように勧めます。
成帝もその才能を嘉していたため、劉欣のために元服の礼を主宰してから封国に送り出しました。劉欣はこの時十七歳です。
司隷校尉の官を廃しました。
三月、成帝が河東を行幸して后土を祀りました。
甘露が京師に降りました。
長安の民に牛酒を下賜しました。
関東に隕石が二つ落ちました。
王根が谷永を推挙したため、谷永が朝廷に招かれて北地太守から大司農になりました。
谷永は前後四十余回にわたって成帝に諫言しました。その主な内容はほぼ重複しており、成帝の身や後宮について批判しただけでした。
谷永は王氏に与しており、成帝もそれを知っていたため、あまり信任されませんでした。
谷永は大司農になって一年ほどで病になり、休養期間の三カ月を満たしました。
成帝は賜告(三カ月以上の休暇を与えること)をせず、すぐに谷永を罷免しました。
『資治通鑑』胡三省注は「前例では公卿が病を患った場合、いつも賜告したが、成帝は谷永が王氏の党だったため、すぐ罷免した」と解説しています。
谷永は数カ月後に死にました。
次回に続きます。