西漢時代275 成帝(三十三) 皇太子 前8年(1)
今回は西漢成帝綏和元年です。五回に分けます。
西漢成帝綏和元年
癸丑 前8年
春正月、天下に大赦しました。
『漢書‧匡張孔馬伝(巻八十一)』を見ると、趙皇后、趙昭儀および大司馬・驃騎将軍・王根が成帝に定陶王・劉欣を後継者に立てるように勧めたため、成帝は丞相・翟方進、御史大夫・孔光、右将軍・廉襃(廉褒)、後将軍・朱博を禁中に招きました。
『資治通鑑』はこの記述に従っています。しかし下の文には王根も登場するので、王根も招かれたはずです。
成帝が問いました「中山王(劉興)と定陶王(劉欣)では誰が嗣(後嗣)とするにふさわしいか?」
翟方進、王根、廉褒、朱博がそろって言いました「定陶王は帝の弟の子です。『礼』はこう言っています『昆弟(兄弟)の子は自分の子のようなものである。後嗣になった者が、その子となる(原文「昆弟之子,猶子也。為其後者,為之子也」。兄弟の子が自分の後継者になったら、自分の子になったのと同じだという意味です)。』定陶王を嗣とするべきです。」
孔光だけはこう言いました「礼においては、親をもって嗣に立てるものです(原文「立嗣以親」。血縁関係が最も親しい者を後嗣に立てるという意味です。兄弟の子よりも兄弟の方が親しい関係にあります)。『尚書‧盤庚』に記載されている殷の及王(王位継承)を比(参考)にするなら、兄が終わったら弟に位が及びます(兄終弟及)。中山王は先帝の子で、帝(陛下)の親弟なので、嗣とするべきです。」
成帝は「中山王は不材(不才)である。また、礼においては、兄弟が互いに廟に入ることはできない」と考えて、孔光の意見に従いませんでした。
当時の廟制では、父を「昭」、子を「穆」といい、交互に廟に入りました。これを「昭穆制」といいます。
もし成帝の死後、弟の劉興が帝位に即いたら、劉興は兄・成帝ではなく、父(廟制では「穆」に当たります)・元帝を継いだことになります。将来、劉興が死んだら劉興が「昭」として廟に入れられるので、成帝の牌位が外されることになります。
二月癸丑(初九日)、成帝が詔を発しました「朕は太祖の鴻業(大業)を継承し、宗廟を奉じて二十五年になるが、徳は宇内(天下)を綏理(統治して安寧にすること)できず、百姓で怨恨している者が多い。天祐を蒙ることなく、今に至るまで継嗣(後継者)がいないため、天下が係心(心を寄せること)するところがない(皇太子ができないので天下がより所とする者がいない)。往古近事の戒を観ると、禍乱の萌は皆ここ(後継者問題)から始まる。定陶王・欣は朕に対して子となり、慈仁孝順なので、天序を継承して祭祀を継ぐことができる。よって欣を皇太子に立てる。中山王の舅(母・馮氏の兄弟。『漢書・外戚伝下(巻九十七下)』によると馮氏の弟です)に当たる諫大夫・馮参を宜郷侯に封じ、中山国に三万戸を増やしてその意を慰める。諸侯王、列侯に金(黄金)を、天下で父の後を継ぐ立場にいる者に爵位を、三老、孝弟(悌)、力田の者に帛を、それぞれ(地位・立場に応じて)差をつけて下賜する。」
こうして定陶王・劉欣が皇太子に立てられました。
また、中山王・劉興に対しては、舅(母の兄弟)に当たる諫大夫・馮参を宜郷侯に封じ、中山国に三万戸を増やしました。皇太子に選ばれなかった中山王を慰めるためです。
成帝が執金吾・任宏に大鴻臚の職務を行わせ(守大鴻臚。大鴻臚は諸侯を管理する官です)、符節を持って定陶王・劉欣を招かせました。
しかし定陶王は謝意を示してこう言いました「臣の材質(才能資質)は、太子の宮を仮に充たすには足りません(不足以假充太子之宮)。臣は暫く国邸(長安の王邸)に留まり、旦夕に起居を奉問できることを願います。聖嗣(後継者。成帝の子)ができるのを待って、国に帰って藩を守ります。」
劉欣の言葉が報告されると、成帝は「聞」と報せました。
「聞」というのは「報告は既に聞いた」「上書には目を通した」という意味です。
但し、請願に同意したわけではありません。劉欣は予定通り成帝の太子になります。
『資治通鑑』胡三省注が旦夕に起居を問う礼について解説しています。
内豎が「安」と答えると、文王は喜びました。
日中にまた季王を訪ねて同じように問い、暮れにも同じように問います。
もし不安な節(部分。兆し)があったら内豎が文王に報告しました。その時の文王は憂色を表し、歩けば歩調を乱すほどでした。
ここから旦夕に起居を問う礼ができました。
成帝の子に関してですが、全く子ができなかったわけではありません。成帝鴻嘉三年(前18年)には「許皇后の姉・許謁等が後宮で妊娠していた王美人等に対して呪術を行った」という記述がありました(王美人がどうなったのかは分かりません)。
『資治通鑑』に戻ります。
何武が御史大夫になります。
元延三年(前10年)、再び朝廷に入って廷尉になりました。
次回に続きます。