西漢時代276 成帝(三十四) 殷周の子孫 前8年(2)
今回は西漢成帝綏和元年の続きです。
各地の郡国が殷と関係ある大家を得て、遡って殷王の子孫を求めましたが、何代目に当たるかが分からなくなっていました。
当時(元帝時代)、匡衡が建議してこう言いました「王者が二王(商・周二王)の後を存続させるのは、その先王(商・周の建国の聖王)を尊重して三統(夏・商・周の正朔。正統な暦法。正統な統治者の象徴です。または天・地・人を三統といいます)に通じるためです。誅絶の罪を犯した者は絶ち、改めて他の親(親族)を封じて始封君(始めて国を封じられた者)とし、上はその王者の始祖を継承させます。『春秋』の義では、諸侯でその社稷を守ることができない者は絶たれます。今、宋国(西周時代に商王の子孫が封じられた国です。戦国時代に滅びました)は既にその統を守らず、国を失いました。よって改めて殷の後代を立てて始封君とし、上は湯の統(成湯の系統)を継がせるべきです。宋の絶侯(断絶した侯位)を継ぐのではありません。殷の後代を得たことを明らかにするのです。今の故宋(旧宋)は、遡ってその嫡(直系の子孫)を求めても久遠なので得られません。また、たとえその嫡を得たとしても、嫡の先祖は既に絶たれているので、立てられるべきではありません(宋は既に滅んだ国なので、宋の直系の子孫を得たとしても、成湯の祭祀を継承させるべきではありません)。『礼記』は孔子について『丘(孔子の名)は殷人である』と言っており、先師(先代の師)も共にそれを伝えてきました。よって、孔子の世系を湯の後とするべきです。」
元帝はこの言が経義に符合しないと考えて採用しませんでした。
成帝の時代になって、梅福が再び「孔子の後代を封じて成湯の祀を奉じさせるべきです」と進言しました。
二月、成帝が詔を発しました「王者が必ず二王の後を存続させるのは、三統に通じるためであると聞く。昔、成湯は命を受けて三代(夏・商・周)に列したが、祭祀が廃絶した。その後代を考求(探求)したところ、孔吉より正しい(相応しい)者はいない。よって孔吉を封じて殷紹嘉侯とする。」
こうして孔子の子孫・孔吉が殷紹嘉侯に封じられました。
三月には殷紹嘉侯の爵を進めて公にしました。周承休侯も公となります。領地はそれぞれ百里です。
また、封侯された時間は綏和元年(本年)二月甲子で、六月に公爵に進められたとしています。
孔子の子孫は伯魚・鯉(鯉が名、伯魚は字)、子思・伋(伋が名)、子上・帛(帛が名。または「孔白」)、子家・求(求が名)、子真・箕(箕が名)、子高・穿(穿が名)、孔順(子慎)、孔鮒と続き、孔鮒は陳渉の博士を勤めて陳で死にました。
孔鮒の弟・子襄は恵帝に仕えました。
『漢書・匡張孔馬伝(巻八十一)』によると、かつて褒成君・孔霸が元帝に上書して孔子の祭祀を奉じることを請いました。元帝は詔を下し、襃成君・関内侯・孔霸に食邑八百戸で孔子の祭祀を奉じるように命じています。
以下、『外戚恩沢侯表』からです。
姫嘉の後、姫置を経て姫当が継ぎましたが、宣帝時代、姫当は奴僕に家丞を殺させた罪で棄市に処されました。
宣帝は後に姫当の弟・姫延年を周子南君に立てました。
姫延年は死後に考侯という諡号を贈られました。
姫延年の後、質侯・姫安と釐侯・姫世を経由し、姫党が周承休侯を継いでいました。姫党は今回、公爵の地位を与えられて周承休公になりました。成帝が雍を行幸して五畤を祀りました。
以前、何武が廷尉だった頃(何武は本年春に廷尉から御史大夫になりました)、建議してこう言いました「末俗の敝(末世の風俗の弊害)は政事が煩多(複雑で多忙)なことであり、しかも宰相の材(才能)は古に及ぶことができません。それなのに丞相が独りで三公の事を兼ねているので、(正しい政事が)久しく廃されて治まらないのです。三公の官を置くべきです。」
成帝はこれに同意しました。
夏四月、曲陽侯・王根に大司馬の印を下賜し、官属を置きました。票騎将軍(驃騎将軍。または「票騎大将軍」)の官を廃します。
それぞれ奉(俸禄)を増やして丞相(翟方進)と同等にし、三公の官を構成します。
今回、大司馬に金印、紫綬を与えて官属を置くことにしました。大司馬が加官ではなく専官になったので、王根の票騎将軍の官を免じました。
漢の制度では丞相になったら封侯されることになっていましたが、大司馬と大司空を丞相と対等にするため、何武も封侯されました。御史大夫は廃されます。
次回に続きます。