西漢時代276 成帝(三十四) 殷周の子孫 前8年(2)

今回は西漢成帝綏和元年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』『漢書楊胡朱梅云伝(巻六十七)』と『資治通鑑』からです。
武帝時代に周の後代姫嘉を周子南君に封じました武帝元鼎四年113年参照)
元帝時代、周子南君を尊重して周承休侯に改め、位を諸侯王の下にしました元帝初元五年44年参照)
元帝は諸大夫や博士を派遣して殷(商)の後代も探しました。殷の後代は十余姓に分散しています。
資治通鑑』胡三省注によると、殷(商)は子姓の国で、その後代は宋氏、孔氏、華氏、戴氏、桓氏、向氏、楽氏等になりました。
 
各地の郡国が殷と関係ある大家を得て、遡って殷王の子孫を求めましたが、何代目に当たるかが分からなくなっていました。
当時(元帝時代)、匡衡が建議してこう言いました「王者が二王(商周二王)の後を存続させるのは、その先王(商周の建国の聖王)を尊重して三統(夏周の正朔。正統な暦法。正統な統治者の象徴です。または天人を三統といいます)に通じるためです。誅絶の罪を犯した者は絶ち、改めて他の親(親族)を封じて始封君(始めて国を封じられた者)とし、上はその王者の始祖を継承させます。『春秋』の義では、諸侯でその社稷を守ることができない者は絶たれます。今、宋国西周時代に商王の子孫が封じられた国です。戦国時代に滅びました)は既にその統を守らず、国を失いました。よって改めて殷の後代を立てて始封君とし、上は湯の統(成湯の系統)を継がせるべきです。宋の絶侯(断絶した侯位)を継ぐのではありません。殷の後代を得たことを明らかにするのです。今の故宋(旧宋)は、遡ってその嫡(直系の子孫)を求めても久遠なので得られません。また、たとえその嫡を得たとしても、嫡の先祖は既に絶たれているので、立てられるべきではありません(宋は既に滅んだ国なので、宋の直系の子孫を得たとしても、成湯の祭祀を継承させるべきではありません)。『礼記』は孔子について『丘孔子の名)は殷人である』と言っており、先師(先代の師)も共にそれを伝えてきました。よって、孔子の世系を湯の後とするべきです。」
元帝はこの言が経義に符合しないと考えて採用しませんでした。
 
成帝の時代になって、梅福が再び「孔子の後代を封じて成湯の祀を奉じさせるべきです」と進言しました。
綏和元年(本年)、成帝が二王の後代を立てることにしました。古文を探求し、『左氏(春秋左氏伝)』『穀梁(春秋穀梁伝)』『世本』『礼記』と照らし合わせて研究します。
 
二月、成帝が詔を発しました「王者が必ず二王の後を存続させるのは、三統に通じるためであると聞く。昔、成湯は命を受けて三代(夏周)に列したが、祭祀が廃絶した。その後代を考求(探求)したところ、孔吉より正しい(相応しい)者はいない。よって孔吉を封じて殷紹嘉侯とする。」
こうして孔子の子孫・孔吉が殷紹嘉侯に封じられました。
 
三月には殷紹嘉侯の爵を進めて公にしました。周承休侯も公となります。領地はそれぞれ百里です。
 
以上は『漢書帝紀』『漢書楊胡朱梅云伝(巻六十七)』『資治通鑑』の記述です。
漢書外戚恩沢表』では、殷紹嘉侯は孔何斉が封じられており、孔何斉について「殷の後代、孔子の世系孔吉の適子(嫡子)」と書かれています。
また、封侯された時間は綏和元年(本年)二月甲子で、六月に公爵に進められたとしています。
 
孔子の子孫は伯魚(鯉が名、伯魚は字)、子思(伋が名)、子上(帛が名。または「孔白」)、子家(求が名)、子真(箕が名)、子高穿(穿が名)、孔順(子慎)、孔鮒と続き、孔鮒は陳渉の博士を勤めて陳で死にました。
孔鮒の弟・子襄は恵帝に仕えました。
元帝時代、子襄の子孫に当たる孔霸を関内侯に封じて褒成君と号しました武帝元朔二年127年、成帝永始二年15年参照)
孔覇には孔福、孔捷、孔喜、孔光という四子がおり、長子孔福が関内侯褒成君を継ぎました。弟の孔光は御史大夫から廷尉になったばかりです。
 
明代に書かれた『闕里誌』という書に孔子の家系が詳しく書かれており(巻二世家)、それによると、孔鮒の弟・子襄の名は、孔騰といいます。
また、孔鮒には孔随(字は元路)という子もいました。孔随が孔鮒を継ぎ、その四世後が孔吉に当たります。孔吉の子は孔何斉です(孔鮒、孔随から孔吉、孔何斉が孔子の直系の子孫になります)
 
漢書匡張孔馬伝(巻八十一)』によると、かつて褒成君孔霸が元帝に上書して孔子の祭祀を奉じることを請いました。元帝は詔を下し、襃成君関内侯孔霸に食邑八百戸で孔子の祭祀を奉じるように命じています。
孔霸の死後も長子孔福が跡を継いで孔子の祭祀を続けました。
 
これらの記述を見ると、孔覇、孔福の家系(孔鮒の弟孔騰の子孫)孔子の祭祀を受け継ぎ、孔吉、孔何斉の家系(孔鮒の直系の子孫)は殷(商)の祭祀を受け継いだようです。
 
周承休侯の名は「姫党」といいます。『漢書王莽伝中(巻九十九中)』『漢書外戚恩沢侯表』に記述があります。
以下、『外戚恩沢侯表』からです。
武帝元鼎四年(前113年)、周の後代として姫嘉が周子南君に封じられました。
姫嘉の後、姫置を経て姫当が継ぎましたが、宣帝時代、姫当は奴僕に家丞を殺させた罪で棄市に処されました。
宣帝は後に姫当の弟姫延年を周子南君に立てました。
元帝初元五年(前44年)、周子南君姫延年を周承休侯に改めました。諸侯王に次ぐ地位とされます。
姫延年は死後に考侯という諡号を贈られました。
姫延年の後、質侯・姫安と釐侯・姫世を経由し、姫党が周承休侯を継いでいました。姫党は今回、公爵の地位を与えられて周承休公になりました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
成帝が雍を行幸して五畤を祀りました。
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
以前、何武が廷尉だった頃(何武は本年春に廷尉から御史大夫になりました)、建議してこう言いました「末俗の敝(末世の風俗の弊害)は政事が煩多(複雑で多忙)なことであり、しかも宰相の材(才能)は古に及ぶことができません。それなのに丞相が独りで三公の事を兼ねているので、(正しい政事が)久しく廃されて治まらないのです。三公の官を置くべきです。」
成帝はこれに同意しました。
 
夏四月、曲陽侯王根に大司馬の印を下賜し、官属を置きました。票騎将軍(驃騎将軍。または「票騎大将軍」)の官を廃します。
また、御史大夫何武を大司空に任命し、氾郷侯に封じました。
それぞれ奉(俸禄)を増やして丞相(翟方進)と同等にし、三公の官を構成します。
 
大司馬は武帝時代に置かれました。但し、大将軍等の加官という存在で、大司馬としての印綬や官属はありませんでした。
今回、大司馬に金印、紫綬を与えて官属を置くことにしました。大司馬が加官ではなく専官になったので、王根の票騎将軍の官を免じました。
漢の制度では丞相になったら封侯されることになっていましたが、大司馬と大司空を丞相と対等にするため、何武も封侯されました。御史大夫は廃されます。
資治通鑑』胡三省注によると、大司馬、大将軍と丞相の俸禄は月に銭六万で、御史大夫は月四万でした。
成帝の次の哀帝の時代に丞相が大司徒に改名され、大司徒大司馬大司空という三公職がそろいます。
 
 
 
次回に続きます。