西漢時代277 成帝(三十五) 夏侯藩と匈奴 前8年(3)

今回も西漢成帝綏和元年です。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋八月庚戌(初九日)、中山王劉興(孝王)が死にました。
 
漢書諸侯王表』と『漢書宣元六王伝(巻八十)』によると、劉興の子劉箕子が跡を継ぎました。
劉箕子は成帝の次の哀帝が死んでから皇帝に迎えられ平帝となり、劉衎に改名します。
漢書・平帝紀』によると、劉箕子が王位を継いだ時はわずか三歳でした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴車牙単于が死に、弟の囊知牙斯が立ちました。これを烏珠留若鞮単于といいます。
烏珠留単于は弟の楽を左賢王に、輿を右賢王にしました。
楽は呼韓邪単于の大閼氏が産んだ子です(成帝元延元年12年参照)
資治通鑑』胡三省注によると、輿は第五閼氏が産んだ子です。
 
漢が中郎将夏侯藩と副校尉韓容を使者にして匈奴に送りました。
ある人が王根に言いました「匈奴には漢に斗入している地があり(原文「匈奴有斗入漢地」。『漢書匈奴伝下(巻九十四下)』顔師古注は「斗」を「絶」と解説しています。「斗絶」は峻険な高山を指します。中華書局『白話資治通鑑』は「楔入」と訳しています。「漢の地に食い込んでいる」「入り組んでいる」という意味です。地形が複雑で、匈奴の地と漢の地が入り組んでいたようです)、張掖郡に当たっています。そこでは奇材の箭竿(奇異な木材で作った矢)や鷲羽(矢羽になります)を生んでいます。もしその地を得たら、辺境を甚しく豊饒にでき、国家には広地の実(領地を拡大した実益)があり、将軍の顕功を無窮に伝えられます。」
王根は成帝にこの利について述べました。
成帝はこれらの地を単于から直接求めようとしましたが、もし得られなかったら天子の命を傷つけて威を損なうことになってしまいます。
そこで王根は夏侯藩だけに成帝の意思を諭し、夏侯藩の考えとして単于に要求させました。
 
夏侯藩が匈奴に入ってから、語次(談話)の機会に単于にこう言いました「私が見たところ(竊見)匈奴が漢地に斗入して張掖郡に当たっているので、漢の三都尉が塞上におり、士卒数百人が寒苦し、候望(監視。偵察)を久しく労しています(『資治通鑑』胡三省注によると、張掖には両都尉がいました。一人は日勒の澤索谷を治め、一人は居延を治めます。また、農都尉がおり、番和を治めました。これを三都尉といいます)単于は上書してこの地を献上し、直断してこれを割くべきです(国境を直線にして突出した部分を割譲するべきです)。両都尉と士卒数百人を省かせることで天子の厚恩に復せば(報いれば)、その報いは必ず大きくなります(漢がこの地を得たら必ず厚く単于に報います)。」
単于が問いました「それは天子の詔語か?それとも使者が求めていることか?」
夏侯藩が言いました「詔指(天子の意思)です。しかし藩(私)単于のために善計を画したのです。」
単于が言いました「そこは温偶駼王(『資治通鑑』胡三省注によると、「温偶」は本来「温禺」と書きました)が居る地だ。その形状や産物(原文「所生」。「その地で生まれる物」または「その地で生きている物」という意味です。後者なら産物ではなく、草木や禽獣を指します)に詳しくないから、使者を派遣して問うことを請う。」
 
夏侯藩と韓容が一度漢に帰ってから、また使者として匈奴に行きました(成帝死後、哀帝時代の事です。下述します)
夏侯藩が改めて領地を求めましたが、単于はこう言いました「父兄が五世に渡って伝えたのに(呼韓邪は子の復株に伝え、復株は弟の搜諧に伝え、搜諧は弟の車牙に伝え、車牙は弟の囊知牙斯に伝えました。五世になります)、漢はこの地を求めなかった。知(私。本名は「囊知牙斯」です。『資治通鑑』胡三省注によると、史書は簡略して「知」と書いているようです)に至った時だけ求めるのはなぜだ。既に温偶駼王に尋ねたが、匈奴西辺の諸侯(諸小王)が穹廬(帳。遊牧民族の家)や車を作る時、皆、この山の材木を仰いでいる(頼りにしている)。そもそも先父(呼韓邪単于の地なので失うわけにはいかない。」
夏侯藩は帰還してから太原太守に遷されました。
 
単于が使者を送って漢の朝廷に上書し、夏侯藩が領地を求めたことを報告しました。
成帝は詔を発して単于にこう答えました「夏侯藩は勝手に詔と称して単于から地を求めた。法によるなら死に当たる。しかし繰り返し大赦を二回したので、今、夏侯藩を済南太守に遷し、匈奴に当たらせない接触させない)ことにする。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、本年以後で大赦が行われるのは、翌年、成帝が死んで哀帝が即位した時と、その翌年の哀帝建平元年(前6年)春です。
夏侯藩が二回目に匈奴に行ったのは、哀帝建平元年春以降の事です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十月甲寅(十四日)、大司馬王根が病のため職を免じました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
成帝が定陶王劉欣を太子に立てて大宗を奉じさせたため、劉欣は私親(個人の親。自分の親)を顧みることができなくなりました。
大宗というのは正嫡が継承する本家のようなものです。嫡子以外は他の家系を形成し、その子孫は小宗になります。小宗は分家のようなものです。
定陶王劉欣は成帝の弟劉康(定陶共王)の子なので小宗に当たり、定陶王家の継承者として父の祭祀を行っていました。しかし大宗に入って成帝の後継者になったため、当時の礼では実父劉康を祀ることができなくなりました。
 
十一月、楚孝王の孫劉景を定陶王に遷しました。
楚孝王は劉囂といい、劉囂は宣帝の子で、成帝の叔父に当たります。
劉囂は宣帝甘露二年(前52年)に定陶王になり、宣帝甘露四年(前50年)に楚王に遷され、成帝河平四年(前25年)に死にました。
漢書宣元六王伝(巻八十)』と『漢書諸侯王表』によると、孝王・劉囂の後は懐王劉文(または「劉芳」)が継ぎました。
しかし劉文は在位一年で死に、後嗣がいなかったため、成帝は劉文の弟平陸侯劉衍を楚王に立てました。これを思王といいます。
思王劉衍の後は子の劉紆が継ぎますが哀帝時代)、王莽によって廃されます。
 
今回、成帝によって定陶王に封じられた劉景は、思王劉衍の子で劉紆の弟に当たります。
定陶王になった劉景は劉欣に代わって定陶共王劉康の祭祀を守ることになります。
 
資治通鑑』に戻ります。
定陶王の祭祀が守られたため、太子劉欣が討議して成帝に謝辞を伝えようとしました。
少傅閻崇が言いました「人の後嗣となった礼では、私親を顧みることはできないので、謝意を示すべきではありません(不当謝)。」
すでに定陶王の子ではないので、定陶王の祭祀が継続されたことを感謝するのは相応しくないという意味です。
しかし太傅趙玄が反対して「謝意を示すべきです(当謝)」と判断したため、太子はこれに従いました。
すると成帝が詔を発して太子になぜ謝意を示したのかを問い、尚書が上奏して趙玄を弾劾しました。
趙玄は少府に左遷され、光禄勳師丹が太傅になりました。
 
太子劉欣が幼い頃は、祖母太后が自ら劉欣を養育しました。
劉欣が太子になると、成帝は詔を発して傅太后と太子の母丁姫(定陶康王劉康の妻妾)に定陶国邸(京師の王邸)に住むように命じました。但し太子に会うことは禁止します。
 
暫くして、王太后(王政君)が傅太后と丁姫に十日に一回、太子の家に行かせようとしました。
成帝が言いました「太子は正統を継承したので、共に陛下(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代は太后も陛下と呼びました。後世の多くは殿下と呼び、太后が朝廷に臨んだ時だけは陛下と称しました)を養うべきです。再び私親を顧みることはできません。」
太后が言いました「太子が小さい頃は傅太后が抱養しました。今、太子の家に行っても、乳母の恩によるだけです(太子は太后として接するのではなく、乳母として接するだけです)。妨げる必要はありません。」
成帝は令を下して傅太后が太子の家に行くことを許可しましたが、丁姫は太子を養育しなかったため、許可されませんでした。
 
 
 
次回に続きます。