西漢時代279 成帝(三十七) 王莽台頭 前8年(5)

今回で西漢成帝綏和元年が終わります。
 
[(続き)] 『資治通鑑』本文に戻ります。
函谷都尉建平侯杜業は以前から翟方進と不仲でした。
翟方進が上奏しました「杜業は紅陽侯の書を受け取って請いを聴きました。不敬の罪に当たります,」
杜業は罷免され、封国に送られました。
 
この事件を『漢書杜周伝(巻六十)』から少し詳しく書きます。
杜業は杜延年の孫です。杜業はかねてから権貴の者に仕えようとしなかったため、翟方進とも淳于長とも不仲でした。
淳于長が罪を犯して封国に赴くことになった時、淳于長の舅(母の兄弟)に当たる紅陽侯王立が函谷都尉杜業に書を送ってこう言いました「誠に老姉の垂白(白髪が垂れること)を哀れむので、無状(不肖。善行がないこと)の子(淳于長)が関(函谷関)を出るに当たって、前事を用いて侵さないことを願う(淳于長が函谷関を通る時、今までの不和を理由に淳于長を苦しめないでほしい)。」
淳于長が関を出てから、隠れていた罪がまた発覚しました。淳于長は雒陽獄に下されます。
丞相史が紅陽侯王立の書を捜し出し、「杜業がその請いを聴いて不敬の罪を犯した」と上奏しました(『資治通鑑』では翟方進が上奏していますが、『杜周伝』では「丞相史」が上奏しています。実際は翟方進の指示を受けて丞相史が上奏したようです)
杜業は罪に坐して罷免され、封国に送られました。
 
資治通鑑』に戻ります。
成帝は王莽が初めに大姦を告発したため、その忠直を称えました。
そこで王根が自分の代わりとして王莽を推挙しました。
 
丙寅(二十六日)、王莽を大司馬に任命しました。この時、三十八歳です。
王莽は既に同列(同輩。同僚)を越えて抜擢され、四父(王鳳、王商、王音、王根を指します)を継いで輔政することになりました。自分の名誉を前人(四父)の上にしたいと欲したため、克己して倦むことがありません。
諸賢良を招いて掾や史に任命し、賞賜や邑銭(封邑の収入)を使って士をもてなし、ますます倹約に努めました。
 
王莽の母が病を患った時、公卿列侯が夫人を送って見舞いました。王莽の妻がそれを迎え入れましたが、衣は地面を引きずらず、布は膝を覆うだけだったため、会った者は僮(奴婢)だと思いました。尋ねてみて始めて王莽の夫人だと知り、皆大いに驚きます。
王莽はこのように身を飾って名声を得ました。
 
[十一] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
丞相翟方進と大司空何武が上奏しました「『春秋』の義では、貴を用いて賎を治めるものであり、卑を尊に臨ませるものではありません。ところが、刺史は下大夫の位なのに二千石(郡守や国相)に臨んでおり(『資治通鑑』胡三省注によると、刺史の秩は六百石で下大夫と同等の秩です。朝廷での地位も下大夫に並びます)、軽重の基準が合いません。臣は刺史を廃し、改めて州牧を置いて古制に応じることを請います。」
資治通鑑』胡三省注によると、古制では全国を九州に分け、一つを畿内とし、残りの八州を八伯に治めさせました。八伯が各州の諸侯の国を統率します。州牧は古の州伯の制度に相当します。
 
十二月、部刺史(州部刺史)を廃して州牧に改め、秩を二千石にしました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
犍為郡の水浜で古磐(古代の打楽器)十六枚を得ました。議者はこれを善祥とみなします。
そこで劉向が成帝に言いました「辟雍(貴族の子弟を教育するために京師に建てた学校)を興し、庠序(地方の学校)を設け、礼楽を述べて、雅頌の声を隆くし(『詩経』を尊んで普及させ)、揖譲の容を盛んにし(礼義ある姿を盛行させ)、これらによって天下を風化(教化)するべきです。このようにしても治まらなかったことは今までにありません。ある人はこう言うかもしれません『礼を具えることはできません(完全な礼を普及させるのは困難です。原文「不能具礼」)。』礼とは養人(人を養うこと)を本とします。たとえ過差(誤り)があったとしても、それらの過(誤り)も人を養うことになります(礼を振興させれば、たとえ内容が完全でなくても、人を養育することができます)。刑罰の過(誤り。過失)は、あるいは死傷に至らせます。今の刑は皋陶(堯舜時代の法官)の法ではありません。有司(官員)が法を定めるように請い、削除することは削除し、加筆することは加筆し(削則削,筆則筆)、時務(目先の需要)を救うために作られたものです。礼楽に至ったら『変えるわけにはいかない(不敢)』というのは(刑法は変えてきたのに礼楽は変えられないというのは)、殺人はできても、養人はできないということです。その(礼楽の)俎豆(礼器。祭祀で使う食器)、管絃(楽器)といった小(小事)が備わらないために、(礼楽を)絶って為そうとしないのは、小さな不備を去って(小さな不備のためにあきらめて)大きな不備に就くことであり(大きな不備に向かうことであり)、これより甚だしい惑いはありません。教化と刑法を較べたら、刑法が軽いものです。(礼楽を振興させないのは)重とするところ(礼楽)を捨てて軽とするところ(刑法)を急ぐ(優先する。重視する)ことです。教化とは、それを恃みにして治めるものです(国を治めるには教化に頼らなければなりません)。刑法とは治を助けるものです。今は恃みとするところを廃して、ただ補助とするところを立てていますが、これは太平を到らせる方法ではありません。京師にも誖逆(背反)不順の子孫がいて大辟(死刑)に陥っており、刑戮を受ける者が絶えません。これは五常(仁信。人が持つ基本的な徳行、品格)の道を習っていないのが原因です。千歳(千年)の衰周を受け継ぎ、暴秦の余敝(秦が残した弊害)を継承したので、民はしだいに悪俗に漬かり、貪饕(貪婪)険詖(険悪奸邪)になって義理を習熟していません。しかし大化を示すことなく、ただ刑罰によって駆けさせていたら(民を強制していたら)、いつまでも改められません。」
成帝は劉向の言を公卿に下して議論させました。
その結果、丞相と大司空が上奏して辟廱(辟雍)を建てるように請い、長安城南を巡行しました。土地を測量して表(標札。標記)を立てます。しかし建設が始まる前に中止されました。
 
漢書礼楽志(巻二十二)』本文と注によると、成帝は辟雍を建てようとしましたが、建設前に死にました(成帝は翌年に死にます)。しかし群臣はこの一件を評価して「成」という諡号を与えました。『諡法』では「民を安んじて政を立てること」を「成」といいます(民立政曰成)
 
資治通鑑』に戻ります。
この頃、ある人が「孔子は布衣(平民)でしたが三千人の徒を養いました。今、天下の太学は弟子が少なすぎます」と言いました。
元帝永光三年(前41年)、博士弟子の定員が千人に定められました。これが太学の弟子を指します。
今回、成帝は弟子の定員を三千人に増やしました。
しかし一年余で元に戻されました。
 
劉向は自分が成帝の信頼を得ているのを見て、常に宗室を公けに訴えたり、王氏および官位にいる大臣を批難・風刺しました。その言の多くは痛切で、至誠から発しています。
成帝はしばしば劉向を用いて九卿に任命したいと思いましたが、いつも王氏の官位にいる者や丞相、御史の支持を得られませんでした。
結局、最後まで昇進することなく、前後三十余年も大夫の官に列して死にました。その十三年後に王氏が漢に代わります。
 
 
 
次回に続きます。

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