西漢時代280 成帝(三十八) 成帝の死 前7年(1)

今回は西漢成帝綏和二年です。六回に分けます。
 
西漢成帝綏和二年
甲寅 前7
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、成帝が甘泉を行幸し、泰畤で郊祭しました。
 
[] 『漢書・成帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月壬子(十三日)、丞相・翟方進が死にました。
 
この頃、熒惑(火星)が心(心宿。皇帝や皇族を象徴します)に留まりました。
これは「熒惑守心」といい、凶事の前兆とされました。
 
丞相府の議曹(『資治通鑑』胡三省注によると、論議を職とします。議曹は公府から州郡まで全ての官署に置かれました)・平陵の人・李尋が翟方進に文書を提出してこう伝えました「災変が迫切しており、大責(大きな譴責)が日々増加しています。どうして斥逐の戮(放逐の刑)を保てるでしょう(天譴が大きくなっており、放逐だけではすまなくなっています。原文「安得保斥逐之戮」)。闔府(全府。丞相府全体)には三百余人がいます。君侯(あなた)がその中から(相応しい人物を)選び、共に節を尽くして凶を転じることを願います。」
翟方進は憂患するだけで、どうすればいいか分かりませんでした。
 
ちょうど郎の賁麗(賁が氏、麗が名です)が星を観る術を得意としており、成帝に「大臣がこれに当たるべきです」と進言しました。
大臣が犠牲になって「熒惑守心」が象徴する凶事を受けるべきだという意味です。
 
そこで成帝は翟方進を接見しました。
資治通鑑』も『漢書・翟方進伝(巻八十四)』も明記していませんが、成帝は翟方進を召して自殺を勧めたはずです。
 
翟方進は退出して家に帰りました。
まだ自決する前に、成帝が冊(策書。命令書)を下賜しました。
政事が治まらず、災害が並んで訪れ、百姓が窮困していることを譴責し、こう伝えます「君の位を退けようと欲したが、忍びないので、尚書令を派遣して君に上尊酒(上樽酒。上等の酒。『資治通鑑』胡三省注によると、酒には濃淡の違いがあり、上尊・中尊・下尊に分けられました)十石と養牛一を下賜する。君は慎重に身を処せ(君審処焉)。」
翟方進は即日自殺しました。
 
成帝はこの出来事を秘密にしました。
九卿を派遣し、策書によって翟方進に印綬(『漢書翟方進伝』によると丞相と高陵侯の印綬です)を贈ります。更に乗輿(車馬)や秘器(棺。葬儀で使う物)を下賜し、少府が張(帷帳)を提供し、建物の柱や檻(欄干)全てを白い布で巻きました。白は葬礼の色です。
成帝自ら何回も弔問に臨み、その礼賜(礼遇と賞賜)は他の丞相の前例と較べて全く異なるものでした。
 
資治通鑑』を編纂した司馬光はこう書いています「晏嬰晏子はこう言った『天命とは疑いがなく、その命を二つとすることはない(天命とは何をしても変えられない。原文「天命不慆,不貳其命」)。』禍福が至るのをどうして移せるだろう(変えられるだろう)。昔、楚昭王と宋景公は災を卿佐(臣下)に移すことが忍びずこう言った『腹心(心腹)の疾を移し、諸股肱(四肢)に置いて何の益があるか。』たとえ災を移すことができるとしても、仁君は忍びないと思うものだ。それができないのならなおさらだろう(移せないのならなおさらそのようにするべきではない)。もし翟方進の罪が死に至るほどではなかったのに、これを誅殺して大変(大きな変異。天譴)に当てたのだとしたら、天を騙したことになる(是誣天也)。翟方進に罪があり、刑を行うのが当然だったのなら、その誅を隠して葬礼を厚くしたのは、人を騙したことになる(是誣人也)。孝成(成帝)は天と人を騙そうと欲したが(欲誣天人)、結局、益がなかった(成帝は本年に死にます)。命を知らなかったといえる。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、成帝が河東を行幸して后土を祀りました。
 
[] 『漢書帝紀』『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙戌(十八日)、成帝が未央宮で死にました。
漢書帝紀』の臣瓉注は成帝の享年を四十五歳、顔師古注は四十六歳としています。
成帝は宣帝甘露三年(前51年)に生まれたので、数えで四十五歳のはずです。元帝竟寧元年(前33年)元帝が死に、十九歳で成帝が即位しました。翌年、建始元年に改元します。在位年数は二十六年になります。
 
以下、『漢書外戚伝下(巻九十七下)』と『資治通鑑』からです。
成帝は体が強くて疾病がありませんでした。
当時、楚思王劉衍(楚孝王劉囂の子。劉囂は宣帝の子で、成帝の叔父に当たります。成帝綏和元年8年参照)と梁王劉立(成帝永始四年13年参照)が来朝していました。
翌朝、二王が封国に帰ることになっています。
この夜、成帝は白虎殿に帷帳を張って宿泊しました。
漢書外戚伝下』顔師古注によると、白虎殿は未央宮内にあります。
 
成帝は左将軍孔光を丞相に任命しようと欲し、侯印(公爵の印璽)を彫刻して賛(功績を称賛して任官する策書)を書きました。
夜の間は平善(平安)に過ごします。
 
しかし朝を告げる頃(郷晨)、絝(はかま)と韈(靴下。足袋)をはいて立ち上がろうとしましたが、突然、(手に力が入らなくなり)衣服を落として何も言えなくなりました。
昼漏(昼の時間を告げる器具。砂時計または水時計が十刻に至った時、成帝は死にました。
資治通鑑』胡三省注によると、この時は三月で、昼は五十八刻がありました。十刻は午前の早い時間だと思います。
 
民間で騒ぎが起こり、罪を趙昭儀に帰しました。成帝は夜を趙昭儀と共にしていたからです。
太后が大司馬王莽に詔を発しました「皇帝が暴崩(突然崩御し、群衆が讙譁(喧噪)してこれを怪しんでいます。掖庭令輔等は後庭の左右におり、すぐ近くで侍燕(酒宴等に従うこと)していたので、御史・丞相・廷尉と共に皇帝の起居発病の状況を治問(審問)しなさい。」
調査が始まったと聞いて、趙昭儀は自殺しました。
 
班彪による成帝の評価を紹介します(『漢書帝紀』『資治通鑑』からです)
「臣(班彪)の姑(父の姉妹)後宮を充たして倢伃になり、その父子や昆弟(兄弟)も帷幄に侍ったので、しばしば臣に(成帝について)語ってくれた『成帝は善く容儀を修め、車に乗ったら姿勢を正して立ち、内を顧みず(車上では後ろを見ずにまっすぐ前を向いているという意味です。原文「不内顧」。)、早口にならず(または「大声で話さず」。原文「不疾言」)、指さすことなく(人や物を指ささない、または大げさな手ぶりを加えないという意味です。原文「不親指」)、朝に臨んだら(朝廷では)淵嘿(厳粛)で、神のように尊厳があり、穆穆(端正かつ荘厳)とした天子の容(姿)だったといえる。古今を博覧し、直辞(直言)を受容した。公卿が職を全うし、奏議は述べるに値した(奏議に文彩があった。原文「奏議可述」。顔師古注参照)。承平(太平)の世に遇って上下が和睦した。しかし酒色に耽溺し、趙氏が内を乱し、外家が朝廷で専権した。このことに言及すると人を憂鬱にさせる(これらは残念なことだ。原文「言之可為於邑」)。』建始(成帝の最初の年号)以来、王氏が国命を握り始め、哀帝と平帝が短祚(短命)だったため、王莽がついに位を簒奪した。その(王氏の)威福の由来は(成帝時代から)徐々に形成されたのだろう。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
この日(三月丙戌)、孔光が大行(皇帝の棺)の前で丞相博山侯の印綬を拝受しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
富平侯張放が成帝の崩御を聞き、思慕哭泣して死にました。
 
荀悦の『前漢孝成皇帝紀(巻第二十七)』はこう評しています。
「張放は上(陛下)を愛していなかったのではない。忠が存在しなかったのだ。よって、愛しても不忠だったら人の賊(害)となるのである。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
太后(王政君)が有司(官員)に詔を発し、長安の南郊と北郊を恢復させました。
 
もともと漢は甘泉の泰畤で天を祀り、汾陰の后土で地を祀っていました。
しかし成帝建始元年(前32年)、成帝が長安に南郊と北郊(郊は祭祀を行う場所です)を造りました。甘泉と汾陰の祠は廃されます。
その後は南郊と北郊で祭祀が行われましたが、成帝に子ができないため、成帝永始三年(前14年)に王太后が詔を発して甘泉泰畤と汾陰后土を復旧しました。
それから七年が経ちましたが、結局、成帝には子ができず死んでしまいました。
そのため、王太后は再び南郊と北郊の祭祀を行うことにして、甘泉と汾陰を廃しました。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月丙午(初八日)、太子劉欣が皇帝の位に即きました。これを哀帝といいます。
哀帝が高廟を拝謁しました。
 
太后(王政君)を尊んで太皇太后とし、成帝の皇后(趙飛燕)を皇太后にしました。
天下に大赦しました。
宗室の王子で親族の関係が近い者(有属者)にそれぞれ馬一駟(四頭)を、吏民に爵位を下賜しました。また、百戸ごとに牛酒を、三老、孝弟(悌)・力田、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)に帛を与えました。
 
哀帝が即位したばかりの時は、自ら倹約を行い、諸費用を除いたり減少させました。政事は哀帝自ら裁決されます。
朝廷はそろって至治(善政)を期待しました。
 
 
 
 
次回に続きます。