西漢時代281 成帝(三十九) 傅太后 前7年(2)
今回は西漢成帝綏和二年の続きです。
『前漢紀』によるなら、四月己卯の三十四日前なので、閏三月丙午に死んだことになる(三月は己巳朔なので、丙午の日があるとしたら閏三月になります。但し、四月には己卯の日もないので、『前漢紀』の説はそもそも成り立ちません)。二者にはそれぞれ誤りがあり、どちらが正しいか分からない。また、この年の閏は七月なので、四カ月も差があるのは正しくない。よってここ(『資治通鑑』)は『成紀(『漢書』)』の記述に従う。」
丞相・孔光は以前から傅太后の為人が剛暴で権謀に長けていると聞いていました。また、傅太后は哀帝が襁褓にいる時から成人になるまで養育・教導し、哀帝の即位にも力を尽くしました(成帝元延四年・前9年参照)。そのため孔光は心中で傅太后が政事に参与することを恐れ、朝から晩まで哀帝の近くにいることを望みませんでした。
しかし大司空・何武が反対して「北宮に住むことができます」と言いました。
哀帝は何武の言に従います。
北宮には紫房複道があり、未央宮に通じていました。
「直道」は「正直の道」「正道」を意味します。胡三省は「小宗は大宗に介入できず、藩后(諸侯王の太后)は位を長楽(皇太后)と対等にできず、私戚は妄りに恩沢(皇帝の恩恵)を犯すことができない(外戚が妄りに恩沢を与えられてはならない。原文「私戚不得妄干恩沢」)、これをいわゆる『正道』という」と解説しています。
高昌侯・董宏(『資治通鑑』胡三省注によると、董宏は董忠の子です。董忠は宣帝地節四年・前66年に高昌侯に封じられました)が傅太后と哀帝の意図に迎合して上書しました「秦荘襄王の母は元は夏氏でしたが、(荘襄王は)華陽夫人の子となり、即位してから、(夏氏も華陽夫人と)共に太后を称しました。定陶共王后も帝太后に立てるべきです。」
大司馬・王莽と左将軍‧関内侯‧領尚書事・師丹が董宏を弾劾して言いました「(董宏は)皇太后が至尊の号であることを知っていながら、天下が一統となったのに(統一されたのに)、亡秦を引用して比喩とし、聖朝を誤らせました(詿誤聖朝)。相応しい発言ではなく、大不道に当たります。」
哀帝は即位したばかりだったため、謙譲な態度をとり、王莽と師丹の意見を採用しました。
董宏を免じて庶人に落とします。
哀帝が詔を発しました「『春秋』(の義)においては、母は子によって貴くなるものである(母以子貴)。よって(定陶恭王が恭皇になったので)定陶太后を尊んで恭皇太后(恭皇の母)とし、丁姫を恭皇后(恭皇の皇后)とする。それぞれに左右詹事(詹事は宮内の諸事を担当する官員です)を置き、食邑(収入)は長信宮(太后)、中宮(皇后)と同等にする。」
傅皇后の父・傅晏を孔郷侯に封じました。
王莽は上書して引退を乞いました(乞骸骨)。
王太后は再び王莽に政務を行わせました。
成帝の時代は「鄭声」が流行しました。
哀帝は定陶王だった頃からこのような状況を嫌っており、また、元々音楽を愛しませんでした。
六月、哀帝が詔を発しました「孔子はこう言ったではないか『鄭声を放棄する。鄭声は淫蕩である(放鄭放。鄭声淫)。』よって楽府の官(楽府は武帝が設けました)を廃す。郊祭の楽(『資治通鑑』胡三省注によると、武帝が設けました。南郊と北郊の祭祀で使う音楽です)および古兵法の武楽で、『経』にあって鄭・衛の楽(鄭・衛の音楽。衛国の音楽である「衛声」も「淫声」とみなされていました)ではないものは、他の官に属させる。」
哀帝の詔によって丞相・孔光と大司空・何武が楽員を整理する上奏を行いました。詳細は『漢書・礼楽志』に書かれていますが、非常に長く、同じような内容が繰り返されるので、一部だけ抜粋します「郊祭楽の人員は六十二人で、南北郊の祭祀で(音楽を)提供します。大楽鼓員六人、嘉至鼓員十人、邯鄲鼓員二人、騎吹鼓員三人、江南鼓員二人、淮南鼓員四人、巴兪鼓員三十六人、歌鼓員二十四人、楚厳鼓員一人、梁皇鼓員四人、臨淮鼓員三十五人、茲邡鼓員三人、併せて十二鼓、員百二十八人(実際は百三十人います)は、朝賀の置酒(酒宴)で殿下に並び、古兵法に応じます。(略)竽工員(竽は笙の一種です)三人は一人を廃すことができます。琴工員五人は三人を廃すことができます。(略)安世楽鼓員二十人は十九人を廃すことができます。沛吹鼓員十二人、族歌鼓員二十七人、陳吹鼓員十三人、商楽鼓員十四人、東海鼓員十六人、長楽鼓員十三人、縵楽鼓員十三人、併せて八鼓、員百二十八人は、朝賀の置酒(酒宴)で前殿の房中に並びますが、経法に応じていません。楚四会員十七人、巴四会員十二人、銚四会員十二人、斉四会員十九人、蔡謳員三人、斉謳員六人と竽瑟鐘磬員五人は全て鄭声なので、廃すことができます。(略)以上、全八百二十九人のうち、三百八十八人は廃すことができないので、大楽(太楽。太常に属す官です。太常は宗廟や儀礼を管理します)に管轄させるべきです。その他の四百四十一人は経法に応じず、あるいは鄭・衛の声なので、全て廃すことができます。」
哀帝はこの上奏を採用しました。
『資治通鑑』に戻ります。
こうして楽府から半数を越える人員が削減され、鄭・衛の楽を棄てることになりました。
次回に続きます。