西漢時代281 成帝(三十九) 傅太后 前7年(2)

今回は西漢成帝綏和二年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
四月己卯(中華書局『白話資治通鑑』は「己卯」を恐らく誤りとしています。下述します)、孝成皇帝を延陵に埋葬しました。
資治通鑑』胡三省注によると、延陵は扶風にあり、長安から六十二里離れています。
 
漢書帝紀』では「三月丙戌(十八日)」に成帝が死に、「四月己卯」に延陵に埋葬されています。
資治通鑑』は『漢書・成帝紀』に従っています。
しかし『前漢孝成皇帝紀(巻第二十七)』では「三月丙午」に成帝が死に、「夏四月己卯」に延陵に埋葬され、「崩御から埋葬まで三十四日」と書かれています。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)はこう解説しています「この年の三月は己巳朔なので丙午の日(『前漢紀』)がなく、四月は己亥朔なので己卯の日(『漢書』『前漢紀』)がない。
『成紀(『漢書』)』によるなら、臣瓉が『崩御から埋葬まで五十四日』と注釈しているので、五月己卯に埋葬されたことになる。
前漢紀』によるなら、四月己卯の三十四日前なので、閏三月丙午に死んだことになる(三月は己巳朔なので、丙午の日があるとしたら閏三月になります。但し、四月には己卯の日もないので、『前漢紀』の説はそもそも成り立ちません)。二者にはそれぞれ誤りがあり、どちらが正しいか分からない。また、この年の閏は七月なので、四カ月も差があるのは正しくない。よってここ(『資治通鑑』)は『成紀(『漢書』)』の記述に従う。」
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
太皇太后(王政君)が傅太后と丁姫に命じて十日に一回、未央宮を訪問させました。
太后は定陶共王劉康の母で、哀帝の祖母に当たります。丁姫は哀帝の実母です。
 
哀帝が詔を発して丞相と大司空に問いました「定陶共王太后(傅太后はどこに住むのが相応しいか?」
丞相孔光は以前から傅太后の為人が剛暴で権謀に長けていると聞いていました。また、傅太后哀帝が襁褓にいる時から成人になるまで養育教導し、哀帝の即位にも力を尽くしました(成帝元延四年9年参照)。そのため孔光は心中で傅太后が政事に参与することを恐れ、朝から晩まで哀帝の近くにいることを望みませんでした。
そこで孔光はこう言いました「定陶太后は改めて宮を築くべきです(他に宮殿を建てて住ませるべきです)。」
しかし大司空何武が反対して「北宮に住むことができます」と言いました。
哀帝は何武の言に従います。
北宮には紫房複道があり、未央宮に通じていました。
資治通鑑』胡三省注によると、未央宮の北にある桂宮が北宮と呼ばれたという説と、後に成帝の趙皇后が北宮に住み、哀帝の傅皇后が桂宮に住むことから、北宮と桂宮は異なる宮殿であるという説があります。
 
果たして傅太后は朝夕とも複道を通って哀帝がいる場所に行くようになりました。尊号を称すことを欲し、親属を貴寵させます。この後、哀帝は直道を進むことができなくなりました。
「尊号」は「太皇太后」の号を指します。傅太后はあくまでも定陶王の太后であって、皇帝の「太皇太后」ではありません。しかし孫の劉欣が皇帝になったので、王政君と対等の地位を求めました。
「直道」は「正直の道」「正道」を意味します。胡三省は「小宗は大宗に介入できず、藩后(諸侯王の太后は位を長楽(皇太后と対等にできず、私戚は妄りに恩沢(皇帝の恩恵)を犯すことができない外戚が妄りに恩沢を与えられてはならない。原文「私戚不得妄干恩沢」)、これをいわゆる『正道』という」と解説しています。
 
高昌侯董宏(『資治通鑑』胡三省注によると、董宏は董忠の子です。董忠は宣帝地節四年66年に高昌侯に封じられました)が傅太后哀帝の意図に迎合して上書しました「秦荘襄王の母は元は夏氏でしたが、荘襄王は)華陽夫人の子となり、即位してから、(夏氏も華陽夫人と)共に太后を称しました。定陶共王后も帝太后に立てるべきです。」
哀帝はこの事を有司(官員)に下して討議させました。
大司馬王莽と左将軍関内侯尚書師丹が董宏を弾劾して言いました「(董宏は)太后が至尊の号であることを知っていながら、天下が一統となったのに(統一されたのに)、亡秦を引用して比喩とし、聖朝を誤らせました(詿誤聖朝)。相応しい発言ではなく、大不道に当たります。」
哀帝は即位したばかりだったため、謙譲な態度をとり、王莽と師丹の意見を採用しました。
董宏を免じて庶人に落とします。
 
しかし傅太后が激怒して哀帝に尊号を称すことを強要しました。
哀帝はこれを太皇太后(王政君)に報告しました。その結果、まずは定陶恭王哀帝の父劉康)を尊んで恭皇に立てる詔が太皇太后から出されます。
 
五月丙戌(十九日)哀帝が傅氏を皇后に立てました。
傅氏は傅太后の従弟傅晏の娘です。
漢書外戚伝下(巻九十七下)』によると、傅太后の父には四人の同母弟がいました。傅子孟、傅中叔、傅子元、傅幼君といいます。傅中叔の子が傅晏です。
 
哀帝が詔を発しました「『春秋』(の義)においては、母は子によって貴くなるものである(母以子貴)。よって(定陶恭王が恭皇になったので)定陶太后を尊んで恭皇太后(恭皇の母)とし、丁姫を恭皇后(恭皇の皇后)とする。それぞれに左右詹事(詹事は宮内の諸事を担当する官員です)を置き、食邑(収入)は長信宮太后中宮(皇后)と同等にする。」
 
哀帝は更に傅太后の父を追尊して崇祖侯に封じ、丁姫の父を追尊して褒徳侯(襃徳侯)に封じました。
また、哀帝の舅(母丁姫の兄弟)丁明を陽安侯に、舅の子丁満を平周侯にしました。丁満の父丁忠は追諡(遡って諡号を贈ること)して平周懐侯としました。
 
漢書外戚伝下』によると、丁姫には丁忠と丁明という二人の兄がいました。丁明は哀帝の舅として陽安侯に封じられましたが、丁忠は既に死んでいたため、その子丁満が平周侯に封じられ、丁忠は追諡されました。
 
傅皇后の父傅晏を孔郷侯に封じました。
傅氏、丁氏だけでなく、皇太后(趙飛燕)の弟に当たる侍中光禄大夫趙欽も新城侯に封じました。
 
太皇太后(王政君)が詔を発し、大司馬王莽に家に帰るように命じました。哀帝の外家外戚。傅氏、丁氏)を避けるためです。
王莽は上書して引退を乞いました(乞骸骨)
しかし哀帝尚書令を派遣し、王莽に詔を届けて引き続き任用する意思を伝えました。
同時に丞相孔光、大司空何武、左将軍師丹、衛尉傅喜を送って太皇太后にこう伝えました「皇帝哀帝太后の詔を聞いて甚だしく悲しんでいます。大司馬が起たなかったら皇帝は聴政できません。」
太后は再び王莽に政務を行わせました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
成帝の時代は「鄭声」が流行しました。
「鄭声」というのは周代の鄭国の音楽で、『詩経鄭風』に収録されています。『出其東門』や『溱洧』のように男女の事が描かれた詩が多いため、「淫声(淫蕩な音楽)」とみなされていました。
 
当時は黄門の名倡丙彊や景武といった者が広く世に名を知られており、貴戚(『資治通鑑』胡三省注は「王氏の五侯や淳于長等」と解説しています)が人主(皇帝)と女楽を争うこともありました。
 
哀帝は定陶王だった頃からこのような状況を嫌っており、また、元々音楽を愛しませんでした。
六月、哀帝が詔を発しました「孔子はこう言ったではないか『鄭声を放棄する。鄭声は淫蕩である(放鄭放。鄭声淫)。』よって楽府の官(楽府は武帝が設けました)を廃す。郊祭の楽(『資治通鑑』胡三省注によると、武帝が設けました。南郊と北郊の祭祀で使う音楽です)および古兵法の武楽で、『経』にあって鄭衛の楽(鄭衛の音楽。衛国の音楽である「衛声」も「淫声」とみなされていました)ではないものは、他の官に属させる。」
 
この詔の内容は『資治通鑑』に書かれているもので、『資治通鑑』は『漢書礼楽志』から引用しています。
漢書哀帝紀』は詔を簡略してこう書いています「鄭声は淫のうえ乱の楽(音楽)であり(淫而乱楽)、聖王が放棄したものである。よって楽府を廃す。」
 
哀帝の詔によって丞相孔光と大司空何武が楽員を整理する上奏を行いました。詳細は『漢書礼楽志』に書かれていますが、非常に長く、同じような内容が繰り返されるので、一部だけ抜粋します「郊祭楽の人員は六十二人で、南北郊の祭祀で(音楽を)提供します。大楽鼓員六人、嘉至鼓員十人、邯鄲鼓員二人、騎吹鼓員三人、江南鼓員二人、淮南鼓員四人、巴兪鼓員三十六人、歌鼓員二十四人、楚厳鼓員一人、梁皇鼓員四人、臨淮鼓員三十五人、茲邡鼓員三人、併せて十二鼓、員百二十八人(実際は百三十人います)は、朝賀の置酒(酒宴)で殿下に並び、古兵法に応じます。(略)竽工員(竽は笙の一種です)三人は一人を廃すことができます。琴工員五人は三人を廃すことができます。(略)安世楽鼓員二十人は十九人を廃すことができます。沛吹鼓員十二人、族歌鼓員二十七人、陳吹鼓員十三人、商楽鼓員十四人、東海鼓員十六人、長楽鼓員十三人、縵楽鼓員十三人、併せて八鼓、員百二十八人は、朝賀の置酒(酒宴)で前殿の房中に並びますが、経法に応じていません。楚四会員十七人、巴四会員十二人、銚四会員十二人、斉四会員十九人、蔡謳員三人、斉謳員六人と竽瑟鐘磬員五人は全て鄭声なので、廃すことができます。(略)以上、全八百二十九人のうち、三百八十八人は廃すことができないので、大楽(太楽。太常に属す官です。太常は宗廟や儀礼を管理します)に管轄させるべきです。その他の四百四十一人は経法に応じず、あるいは鄭・衛の声なので、全て廃すことができます。」
哀帝はこの上奏を採用しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
こうして楽府から半数を越える人員が削減され、鄭・衛の楽を棄てることになりました。
しかし百姓は既に久しく馴染んでおり、また、他の雅楽(高尚な音楽)を作って代えることもなかったため、豪富・吏民は今までと同じように鄭・衛の楽に耽りました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代282 成帝(四十) 劉秀の『七略』 前7年(3)