西漢時代284 成帝(四十二) 宗廟の議 前7年(5)

今回も西漢成帝綏和二年の続きです。
 
[十八] 『漢書哀帝紀』からです。
哀帝が詔を発しました「朕は宗廟の重(重責)を継承して戦戦兢兢とし、天心を失うことを懼れている。最近、日月に光がなく、五星が行(通常の運行)を失い、郡国で頻繁に地震が起きている(比比地動)。また最近、河南潁川郡で水が出て人民を流殺し、廬舍(家屋)を壊敗した。朕の不徳のために民がかえって辜(罪)を蒙っており、朕は甚だ懼れている。既に光禄大夫を派遣して循行(巡行)挙籍(名簿を作ること)させ、死者一人につき棺銭三千を下賜した。ここに令を発し、水(洪水)が損傷させた県邑および他の郡国で災害が什四(十分の四)以上に及ぶ地では、民で貲(財産)が十万に満たない者は皆、今年の租賦を出さないことにする(租賦を免除する)。」
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
騎都尉平当が黄河の堤防を担当することになりました(領河隄)
平当が上奏しました「九河(古代の黄河の支流)は今全て(埋没)してしまいました。経義に則るなら、治水には決河深川(河を開いて水を流したり川底を深くする方法)があり、隄防壅塞の文(堤防を築いて川を塞ぐ記録)はありません。河黄河は魏郡から東で多数溢決(決壊)しており、水迹は分明が困難です(元の川筋を明らかにするのは困難です)。四海(天下)の衆は欺けないので、浚川疏河(河川を通して流れを良くすること。「浚」も「疏」も「通す」という意味です)ができる者を広く求めるべきです。」
哀帝はこの意見に従いました。
 
待詔賈讓が黄河の治水に関する三策を上奏しました。
上策は冀州の民を移住させてから堤防を決壊し、黄河を放って北に向かわせ、海に入れるという方法です。
中策は冀州の地に多くの漕渠(水路)を穿ち、民が漑田(灌漑)できるようにして、水怒(水勢)を分けるという方法です。
下策は故隄(古い堤防)を繕完(修繕)するという方法です。
詳しい内容は別の場所で書きます。

西漢時代 賈譲の治水策


漢書溝洫志』も『資治通鑑』も哀帝が賈讓の進言を採用したかどうかは書いていません。
但し『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「賈讓が書いた治河三策は、漢から今(宋代)に至るまで、実行できた者がいない。おおよそにおいて、古人が事を論じて三策を書いた時は、その上策は多くが荒唐で常識にそぐわず(孟浪駭俗)実行が困難である。中策は妥当で理にかなっていて(平実合宜)用いることができる。下策は常人(普通の人)でも知っていることである。」
 
[二十] 元帝永光四年(前40年)と永光五年(前39年)に「宗廟迭毀の礼」について書きました。「迭毀」は「順に破毀する」という意味で、皇帝と関係が薄い先祖の廟は廃止するという制度です。
元帝時代、祖宗(高祖と太宗)の廟は代々奉じて毀壊せず、それ以外の五廟を迭毀することになりました。太祖高帝、太宗文帝と景帝、武帝、昭帝、宣帝元帝の父)および皇考(宣帝の父)の七廟が祀られます。
元帝が死んで成帝が即位した時は、匡衡の建議によって成帝から関係が一番遠い廟を廃すことになりました元帝竟寧元年33年、元帝の死後、匡衡が「孝景の廟は親が尽きているので毀壊すべき」と進言しています)。太祖と太宗の廟は残す必要があるので、景帝の廟が廃されて元帝の廟に換えられました。
 
成帝が死んで哀帝が即位すると、成帝の廟を入れるために誰の廟を廃すかがまた問題になりました。
しかし成帝が宗廟に関する議論を禁止していたため(成帝河平元年28年参照)、丞相孔光と大司空何武が上奏しました。
以下、『漢書韋賢伝(巻七十三)』からです「元帝永光五年(前39年)の制書(皇帝の言葉)によって、高皇帝が漢太祖に、孝文皇帝が太宗になりました。元帝建昭五年(前34年)の制書によって、孝武皇帝が世宗になりました武帝が世宗になるのは宣帝本始二年72年ですが、元帝時代に改めて世宗の廟を動かさないという制書が出されました。『漢書韋賢伝』に記述があります)。損益の礼(宗廟の増減という重要な礼)には敢えて参与できないことになっていますが(不敢有與)、臣の愚見では、迭毀の秩序は時に応じて定めるべきです。妄りに宗廟について議論させるという意味ではありません。臣は群臣と雑議(合議。議論)することを請います」
哀帝はこれに同意して群臣に議論させました。
当時は太祖高帝、太宗文帝と武帝、昭帝、皇考、宣帝、元帝の廟があります。
 
以下、『資治通鑑』からです。
光禄勳彭宣等五十三人がそろって言いました「孝武皇帝には功烈(功業)がありますが、親(親情。親族の関係)が尽きているので毀壊するべきです。」
太僕王舜と中塁校尉劉歆が建議して言いました「礼には天子七廟とあります(天子は七廟を祀るものです)。七は正法(正規)の数であり、常数とするべきです(『礼記王制』に「天子七廟、三昭三穆、太祖廟と併せて七」と書かれています)。しかし宗はその数(常数)の中に含まれず、宗とは変わるものです。もし功徳があるなら、それは宗となり、あらかじめその数を決めることはできません(今までは太祖、太宗を永遠に継承する廟としてきましたが、世宗武帝をこれに加えても問題ないという意味です)。臣の愚見によるなら、孝武皇帝は功烈があのようであり(あのように大きく。原文「功烈如彼」)、孝宣皇帝もあのように尊崇していました(原文「崇立之如此」。宣帝は武帝を世宗にしました。宣帝本始二年72年参照)。毀壊するべきではありません。」
哀帝はそれぞれの建議を読んでから、制(皇帝の言葉)を発して「太僕舜、中塁校尉歆の議を可とする」と言いました。
 
ここから太祖高帝、太宗文帝に加えて世宗武帝の廟も永遠に継承されることになりました。
太祖高帝、太宗文帝、世宗武帝の祖宗三人と、昭帝、宣帝、元帝、成帝の四帝、併せて七廟が奉祀されます。但し、皇考廟が廃されたという記述もないので、実際は八廟が存在したはずです。
 
 
 
次回に続きます。