西漢時代 賈譲の治水策

西漢成帝綏和二年(前7年)賈讓が黄河の治水に関する上奏をしました。

西漢時代284 成帝(四十二) 宗廟の議 前7年(5)


以下、『資治通鑑』からです。

待詔賈譲が上奏しました「治河黄河の治水)には上・中・下の策があります。古の者が国を建てて民を住ませ、土地を疆理(区画)する時は、必ず川沢の分(川や沢が分布する場所、集まる場所)を留めて(そのままにして)水勢が及ばない地を予測しました(川や沢が集まる場所は選ばず、水が及ばない場所を選んで城邑を建てました)。大川は防がず、小水は流入できるようにし、低い地形は水を止めて(陂障卑下)汙沢(溜池)としたので、秋に水が多くなっても休息する場所(水の流れを止める場所)を得て、左右に波うって緩やかになり(左右游波寬緩)(水流が)迫ることはありませんでした。土(大地)に川があるのは、人に口があるようなものです。土を治めて(土木によって)川を防ぐのは、児(子)が啼く(泣く)のを止めるために口を塞ぐようなものです。どうして速く止まないことがあるでしょう(手で口を塞げば速く泣き止みます)。しかし死がすぐに訪れることになります。だからこう言われています『川を善く治める者はこれを決壊させて導かせる。民を善く治める者は人々を導いて自由に発言させる(「善為川者決之使道,善為民者宣之使言」。『国語周語上』の言葉です)。』

隄防(堤防)を作るのは、最近の戦国(時代)から始まり、百川を塞いで(雍防百川)それぞれ自国の利としました。斉と趙・魏は河を境としており、趙・魏は山に臨んで斉地は(海に臨んで)卑下(低地)だったので、(斉が)河から二十五里離れた場所に隄を造りました。河水は東の斉隄に阻まれて西の趙・魏に溢れるようになります。そこで趙・魏も河から二十五里離れた場所に隄を造りました。これは正しい方法ではありませんが、水はまだ游盪できました(当時はまだ河幅が広くて河底が深かったので、水が自由に流れました)(水は)適時に至って去り、(土地を)(泥土)で埋めて肥沃にしたので(塡淤肥美)、民はそこで耕田しました。あるいは、久しく無害だったので、徐々に宮宅(家屋)を築き、聚落を形成しました。しかし時おり大水(洪水)が至って漂没(水に流されて沈むこと)したため、改めて隄防を造って自分を救い、わずかに城郭を去らせ、水沢(溜まった水)を排出してから住みました。(河の周りの城邑はこのように形成されたので)湛溺(水没)するのも当然のことです(湛溺自其宜也)

今の隄防は、近いものは水から数百歩、遠いものは数里離れており、故(旧)大隄の中にまた数重の隄防があり、民はその間に住んでいます。これは全て前世が水を排した場所です。河は河内、黎陽から魏郡、昭陽に至るまで東西互いに石隄があり、激水が還され(激しい水流が石隄に阻まれ)、百余里の間で河は西に二回、東に三回向かい(再西三東)、このように迫阨(逼迫。または険阻な地形に阻まれること)していて安息できません黄河の流れを『漢書溝洫志』はこう書いています「河は河内から北の黎陽に至って石隄に遮られ、東に向かって東郡平剛に至るがまた石隄に遮られ、西北に向かって黎陽、観下に至るがまた石隄に遮られ、東北に向かって東郡津北に至るがまた石隄に遮られ、西北に向かって魏郡昭陽でまた石隄に遮られ、東北に向きを変えられている」)

今、上策を行うのなら、冀州の民で水衝の者(水が向かう土地の者)を遷し、黎陽の遮害亭(地名。『漢書溝洫志』によると、遮害亭の西十八里に淇水口があり、その間に金隄が造られていました。淇水口では隄の高さが一丈ですが、東に向かうにつれて地形が低くなり、隄が高くなっているため、遮害亭に至ると隄の高さが四五丈ありました)を決壊し、河を放って北に向かわせ、海に入れます。河の西は大山に接し、東は金隄に接しているので、水勢は遠くまで届かず、氾濫は朞月(期月。一カ月)で自然に定まります。難者(否定する者)はこう言うでしょう『そのようにしたら敗壊する城郭、田廬(田地や家屋)、冢墓は万を数え、百姓が怨恨するはずだ。』しかし昔、大禹が治水した時は、山陵で路に当たるものは破壊しました。だから龍門黄河の渓谷)を穿ち、伊闕(伊水の渓谷)を開き、厎柱(山名)を分け、碣石(山名)を破り、天地の性を墮断したのです(天然の地形を壊して姿を変えたのです)。これら(城郭田廬冢墓)は人功(人力)が造った物です。何を言うに足りるのでしょうか。今、河に臨む十郡(『資治通鑑』胡三省注によると、河南、河内、東郡、陳留、魏郡、平原、千乗、信都、清河、勃海の十郡です)は隄を治める歳費(毎年の費用)が万万(億)を数え、大決(決壊。洪水)が及んだら損害が無数になります。もし数年の治河の費用を出して遷した民を安置し(以業所徙之民)、古聖の法(禹の方法)を遵守し、山川の位(位置)を定めれば、神(川神)と人をそれぞれ自分の場所に住ませて互いに侵すことがなくなります。そもそも、大漢の方制(領域)は万里に及ぶのに、水黄河咫尺の地(わずかな地)を争う必要があるのでしょうか。この功が一度立ったら、河が定まって民が安んじ、千載(千年)にわたって患がなくなります。よって上策というのです。

もし冀州の地に多くの漕渠(水路)を穿ち、民が漑田(灌漑)できるようにして、水怒(水勢)を分けて殺すとしたら、確かに聖人の法ではありませんが、やはり敗(危機)を救う術となります。淇口から東に石隄を設け、多数の水門を張ります(置きます)。議者が『河黄河は大川なので禁制(抑制)は困難だろう』と疑う恐れがありますが、滎陽の漕渠(輸送用の水路)がこれを証明するに足ります(原文「足以卜之」。滎陽の漕渠も水門で制御していたようです。『漢書溝洫志』はこう書いています「その(滎陽の)水門は木と土を使っているだけです。今、黄河も)堅地に拠って石隄を作れば、必ず安全を保てます」)冀州渠は始めから終わりまでこれらの水門に頼ることになり、諸渠(支流となる水路)は全て各所でここ(水門)から水を取って別れます。旱害があったら東方の下水門下流の水門)を開いて冀州を灌漑し、水が増えたら西方の高門(上流の水門)を開いて河流を分けます。こうすれば、民田が適切に治まり、河隄も完成します。これは誠に国を富ませて民を安んじ(富国安民)、利を興して害を除き(興利除害)、数百歳(年)も維持できる方法なので、中策といいます。

もし故隄(古い堤防)を繕完(修繕)し、低い場所を高くして薄い場所を倍増したら、労費に終りがなく、頻繁に害に遭います。これは最下の策です。」