西漢時代 谷永・劉向の進言

成帝元延元年(前12年)、天変が続いたため、成帝が群臣に意見を求めました。

西漢時代271 成帝(二十九) 天変 前12年(1)


以下、『資治通鑑』から谷永と劉向の進言を紹介します。
 

北地太守谷永が言いました「王者が自ら道徳を行い(躬行道徳)、天地に承順すれば、五徵(『資治通鑑』胡三省注によると、『尚書洪範』に記載されている雨、暘(晴天)、寒、燠(暖)、風を指します)が現れる時に秩序ができ、百姓が寿考(長生き)し、符瑞が並んで降ります。逆に道を失って妄りに行動し(失道妄行)、天に逆らって万物を害したら(逆天暴物)、咎の徵が非常に明らかになり(『資治通鑑』胡三省注によると、五徴が秩序を乱して、「常雨、常暘、常寒、常燠、常風」となります)、妖孽が並んで現れて、饑饉が繰り返し訪れます。最後まで改寤(悟って改めること)しなかったら、悪が拡がって変異が備わり(悪洽変備)、再び譴告することなく、有徳の者に命を改めます(徳がある天子に交替することになります)。これは天地の常経であり、百王が同じとするところです。更には、功徳の厚薄や、期質(期限)の脩短(長短)、時世の中季(王朝が中期か末期か)、天道の盛衰によっても命が変わります。

陛下は八世(『資治通鑑』胡三省注によると、高帝、恵帝、文帝、景帝、武帝、昭帝、宣帝、元帝を指します)の功業を継承して陽数の標季に当たり(「標季」は「末季」「最期」の意味です。奇数を陽数といい、陽数の最後は九になります。これを「陽九」といいます。ここでは成帝が第九世に当たるという意味です。)、三七の節紀を渉り(「節紀」は「節目」の意味です。『資治通鑑』胡三省注は、「平帝で三七二百十歳(年)の厄に至り、成帝はその節紀に向かっている」と書いています。「三七の年」は厄年とされていたようです)、『無妄』の卦運に遭遇し(『資治通鑑』胡三省注によると、「無妄」は「無望」と同義です。本来なら雲が起きてから雷が鳴り、雷が鳴ってから雨が降るとされていましたが、雲がないのに雷が鳴りました。これが「無望(望みがないこと)」の兆しとされたようです。天に対して万物の望みがないことは、最大の災異とされました)、ちょうど百六の災阸(災厄)に値します(『資治通鑑』胡三省注に詳しい解説がありますが、以下、簡単に書きます。十九歳(歳)を一章、四章を一部、二十部を一統、三統を一元といい、一元は四千五百六十歳になります。一元に入ったばかりの百六歳は前元の余気が残っているため、災難があるとされました。また、この百六年には「陽九」があり、九年の旱害に襲われるといわれました。ここから「百六」「陽九」は災厄を表す語になりました。「百六の災阸に値する」というのは、成帝が「陽九」に当たることを指しています)。三難(三七の節紀。無妄の卦運。百六の災阸)は科(種類)が異なりますが、同時に集まりました(雑焉同会)。建始元年(成帝の最初の年号)から二十載(年)の間、多数の災害と大きな変異が交錯して鋒起し、『春秋』が書いている数より多くなっています。

内では深宮後庭において、やがて驕臣悍妾(『資治通鑑』胡三省注によると、「驕臣」は淳于長等、「悍妾」は趙皇后姉妹を指します。「悍」は強暴を意味します)、酔酒狂悖(狂乱背逆)によって突発する敗(混乱。衰敗)があり、北宮苑囿街巷の中や臣妾の家の幽閒の所(人がいない所)で徵舒、崔杼の乱が起きるでしょう春秋時代、陳霊公が夏姫と姦通したため、夏姫の子徵舒が乱を起こしました。また、斉荘公が崔杼の妻姜氏と姦通したため、崔杼が乱を起こしました)。外では諸夏の下土に樊並、蘇令(成帝永始三年14年参照)陳勝、項梁のような奮臂(腕を振って発奮すること)の禍があるでしょう。安危の分界(分かれ目)、宗廟の至憂(最大の憂患)なので、臣永は破膽寒心し(肝を潰して心を寒くし)、あらかじめ諫言して累年になります(連年諫言しています)。下にその萌があれば、その後、変異が上に現れます。慎重にしないわけにはいきません。禍は細微から起き、姦(姦悪)は易(軽視)によって生まれます。

陛下が君臣の義を正し、再び群小と媟黷(軽々しく接すること)宴飲することがなく、三綱(君臣、父子、夫婦の関係)の厳に勤め、後宮の政を修め、驕妬の寵(驕慢で嫉妬深い寵妃)を抑えて遠くし、婉順の行(恩柔従順の徳行)を崇めて近づけ、(王太后に)朝覲して法駕を準備してから出て、兵を並べて道を清めてから行き、身を軽んじて単独で外出することなく、臣妾の家で飲むこともなくなるように願います。三者(『資治通鑑』胡三省注によると、微行、飲酒、好色を指します)を既に除いたら、内乱の路が塞がれます。

諸夏が挙兵し、萌(変異の兆し)が民の饑饉にあるのに、吏は恤せず(民を慈しまず)、百姓の困が興ているのに賦斂(税)が重く、下に怨離が発しているのに上は知りません。『伝(『資治通鑑』胡三省注によると、『洪範伝』または京房の『易伝』)』はこう言っています『民が飢えているのに税を減らさず、泰平と称したら、滅亡の咎を招く(飢而不損,茲謂泰,厥咎亡)。』連年、郡国が水災で傷つき、禾麦が収穫できないので、常税を減らすべき時です。しかし有司(官員)は加賦増税を請う上奏をしています。甚だしく経義から外れ、民心に逆らっています。これは怨みを広めて禍に向かう道です(『資治通鑑』の原文は「市怨趨禍之道也」ですが、「市怨」は恐らく「布怨」の誤りです。『漢書谷永杜鄴伝(巻八十五)』では「布怨」です)。臣は陛下が加賦増税の奏を許可することなく、ますます奢泰の費を減らし、恩恵を普及して広くに施し(流恩広施)、困乏を振贍(救済)し、耕桑を敕勧(奨励)し、こうして元元(民衆)の心を慰綏(按撫)することを願います。そうすれば諸夏の乱を防げるかもしれません(庶幾可息)。」

 

中塁校尉劉向も上書しました「臣が聞くに、帝舜は伯禹を戒めて『丹朱(帝堯の子)のように傲慢になってはならない(毋若丹朱傲)』と言い(『尚書益稷篇』の言葉です。但し、『尚書』では禹が帝舜を戒めるために言っています。『資治通鑑』胡三省参照)、周公は成王を戒めて『殷王紂のようになってはならない毋若殷王紂)』と言い(『尚書無逸篇』の言葉です)、聖帝明王は常に敗乱の前例を使って自らの戒めとし、廃興について語ることを避けませんでした。よって臣は敢えて愚見を述べ尽くします。陛下が留神(留意)して察することを願います。

謹んで『春秋』を考察するに、二百四十二年の間に日食が三十六回ありました(以下、『資治通鑑』胡三省からです。魯隠公元年から哀公十四年の獲麟まで二百四十二年間に日食が三十六回ありました。隠公三年二月己巳、桓公三年七月壬辰朔、十七年十月朔、荘公十八年三月、二十五年六月辛未朔、二十六年十二月癸亥朔、三十年九月庚午朔、僖公五年九月戊申朔、十二年三月庚午、十五年五月、文公元年二月己亥朔、十五年六月辛丑朔、宣公八年七月甲子、十年四月丙辰、十七年六月癸卯、成公十六年六月丙寅朔、十七年十二月丁巳朔、襄公十四年二月乙未朔、十五年秋八月丁巳、二十年冬十月丙辰朔、二十一年九月庚戌朔、冬十月庚辰朔、二十三年二月癸酉朔、二十四年秋七月甲子朔、八月癸巳朔、二十七年冬十二月乙亥朔、昭公七年夏四月甲辰朔、十五年六月丁巳朔、十七年六月甲戌朔、二十一年秋七月壬午朔、二十二年十二月癸酉朔、二十四年夏五月乙未朔、三十一年十二月辛亥朔、定公五年正月辛亥朔、十二年十一月丙寅朔、十五年八月庚辰朔です)。最近は三年続けて食し(日食があり)、建始以来二十歳(年)の間で八食がありました。平均して約二歳六月に一発(一回)というのは、古今においてまれなことです(以下、『資治通鑑』胡三省注からです。建始三年十二月戊申朔、河平元年四月癸亥晦、三年八月乙卯晦、四年三月癸丑朔、陽朔元年二月丁未晦、永始二年二月乙酉晦、三年正月己卯晦、四年七月辛未晦の八食です。本年春正月己亥朔の日食は含まれません)

異変には小大希稠(大小や粗密の違い)があり、占(占の結果)にも舒疾緩急(「舒疾」も「緩急」の意味です)があります。秦漢の易世(世が換わること)を観て、恵昭に後嗣がなかった頃を覧じ、昌邑(劉賀)が終わりを全うしなかったことを考察し、孝宣の紹起(継承興隆)を見れば、全て漢紀(漢の記録)に変異が著されているので(『資治通鑑』胡三省注がそれぞれの異変をまとめて書いています。下述します)、天の去就は明らかではありませんか(豈不昭昭然哉)。臣は幸いにも末属(皇族の後裔)に身を託すことができ、誠に陛下の寬明の徳を見たので、大異を消滅させ、高宗、成王の声(名声)を興して劉氏を崇高にすることを望んでおり商王朝の高宗と西周の成王も変異に遭いましたが、その原因を考えることができたので、高宗は百年の福を享受し、成王は泰平の世をもたらしました)、懇懇(懇切な様子)としてしばしば死亡の誅を犯しています(死を冒して諫言しています)。天文とは通暁するのが困難です。臣は図を献上しましたが、それでも口説(口頭での説明)が必要であり、その後、やっと知ることができます。清燕の閒(暇な時間)を賜って、図を指して状況を述べることを願います。」

成帝は劉向を招き入れましたが、結局、その意見を用いることはできませんでした。
 

秦末から漢代の変異について、『資治通鑑』胡三省注がまとめて書いています(『漢書楚元王伝(巻三十六)』が元になっています)

まず、秦始皇帝の末期から二世皇帝の時代は、以下の変異がありました。

日月薄食(日食と月食が相次ぐこと。太陽と月が互いに隠しあうこと)、山林淪亡(山林の喪失)、辰星が四孟(四季の最初の月。正月、四月、七月、十月)に現れる、太白(金星)が昼に現れて去る(太白経天而行)、雲がないのに雷が鳴る、枉矢(星の名)が夜に光る、熒惑(火星)が月を襲う、(妖火)が宮を焼く、野禽が庭で戯れる、都門の内側が崩れる、長人(巨人)が臨洮に現れる、東郡に隕石が落ちる、星孛(彗星の一種)が大角(星の名)に現れて大角が見えなくなる。

項籍項羽が敗れた時も孛星が大角に現れました。
漢が秦に入ってからは、五星が東井(井宿)に集まりました。天下を得る象です。
しかし孝恵皇帝の時代には、血の雨が降り、衝(太陽と月が重なる場所)で日食があり、光がないのに星が現れるという異変がありました。
孝昭皇帝の時代は、太山の臥石(倒れている石)が自ら立ち、上林の僵柳(倒れた柳)が再び起き上がり、月のように大きな星が西行し、衆星がそれに従いました。これは特に怪異なことで、孝宣皇帝の興起を表しています。
その後、天狗(星の名)が漢(天の河)を挟んで西に向かい、久しく曇ったのに二十日も雨が降りませんでした。これは昌邑王(劉賀)が終わりを全うできないことを示す異変です。