西漢時代285 成帝(四十三) 師丹 前7年(6)

今回で西漢成帝綏和二年が終わります。
 
[二十一] 『資治通鑑』からです。
大司空何武の後母(継母)が蜀郡に住んでいました(『資治通鑑』胡三省注によると、何武は蜀郡郫県の人です)
そこで何武は吏(官吏)を派遣して後母を迎えに行かせました。
ところがちょうど成帝が死んだため、吏は政情が不安定になって路上に盗賊が現れることを恐れ、後母を家に留めました。
この一件が原因で、哀帝の左右には「何武は親に仕えて不篤(不孝。仁が薄いこと)です」と讒言する者がいました。
哀帝も大臣を変えたいと思っていたため何武を免官します。
 
冬十月、哀帝が策書(任免書)を発して何武を免じ、列侯として国に帰らせました。
癸酉(初九日)、師丹を大司空に任命しました。
 
師丹は哀帝が成帝の政治の多くを改変しているのを見て、上書して言いました「古においては、諒闇(喪中)は語らず、(百官は)冢宰(太宰。周代の官名で、宰相に当たります)の指示を聴き、三年間は父の道(意志)を改めませんでした(『論語』に「父の道を三年変えることがなかったら孝といえる」とあります)。しかし最近、大行屍柩(「大行」は死んだばかりで諡号が決められていない皇帝や皇后です。「屍柩」は霊柩です)が堂にあるのに、臣等や親属に官爵を与え、赫然(突然)、皆が貴寵を得ました。舅(母の兄弟。丁明を指します)を陽安侯に封じ、皇后(傅皇后)の尊号が定まっていないのにあらかじめその父(傅晏)を孔郷侯に封じ、侍中王邑、射声校尉王邯等(『資治通鑑』胡三省注によると、二人とも太皇太后の親属です)を出しました(遠ざけました)詔書が繰り返し下され、政事が変動し、全てが突然で徐々に変えることができません(卒暴無漸)。臣は大義を明らかにして陳述することができず、また爵位を牢譲(辞退)することもできず、流れに従っていたずらに封侯を受け、陛下の過(過失)を増やしてしまいました。最近、郡国で地動地震水出(洪水)が多発し、人民を流殺し、日月が明るくなくなり、五星が行(正常な運行)を失っています。これらは全て挙錯(措置)が中を失い(適切でなく)、号令が定まらず、法度が理を失い、陰陽が溷濁(混濁。汚濁)していることの応(反応。結果)です。
臣が伏して人情を思うに、子がいなかったら年が六七十になっても、なお多くの妻を娶って広く子を求めるものです(博取而広求)。しかし孝成皇帝は天命を深く見て哀帝の)至徳を照らして知ったので、壮年で克己して(自分を制御して)陛下を嗣(後嗣)に立てました。先帝が突然天下を棄てて(突然崩御し)、陛下が継体(即位。国体を継ぐこと)しましたが、四海が安寧して百姓が懼れないのは、先帝の聖徳が天人と一致していた功(先帝の聖徳が天と人の意思に一致していたという功)によるものです。臣はこう聞いています『天威に違えることはできない。(天威は)顔から咫尺(わずかな距離)にある(原文「天威不違顔咫尺」。『春秋左氏伝』の言葉です)。』先帝がなぜ陛下を建てたのかという意(意思。意図)を陛下が深く考え、自らの行動を抑制して(克己躬行)、群下が従化(帰服すること。または教化に従うこと)する様子を観察することを願います。天下は陛下の家です。胏附(肺腑。親族)が富貴にならないことを心配する必要はなく、このように倉卒(切迫すること)であるべきではありません。これでは久長(長久)になりません。」
師丹は数十回にわたって上書し、その多くが切直(懇切実直)な内容でした。
 
太后の従弟の子(父の兄弟の孫)傅遷が哀帝の左右に仕えていましたが、特に傾邪(不正奸邪)だったため、哀帝は傅遷を嫌って免官し、故郷の郡に帰らせました。『漢書外戚伝下(巻九十七下)』によると、傅氏は河内郡温県出身です。
 
傅遷が罷免されたことに傅太后が怒ったため、哀帝はやむなくまた傅遷を留めました。
丞相孔光と大司空師丹が上奏して言いました「詔書が前後で相反していたら、天下が疑って惑い、信を取るところがなくなってしまいます(民の信用を失ってしまいます)。臣は傅遷を故郡(故郷の郡)に帰らせて姦党を除くことを請います。」
しかし結局、傅遷を帰らせることはできず、再び侍中に任命しました。
様々な事において、哀帝が傅太后に強要される様子はいつもこのようでした。
 
[二十二] 『資治通鑑』からです。
議郎耿育が上書して陳湯の冤罪を訴えました。陳湯は成帝永始二年(前15年)敦煌に遷されています。
耿育はこう言いました「甘延寿と陳湯は聖漢のために鉤深致遠(奥深くを探って遠い者を到らせること)の威を揚げ(康居に深く入って郅支単于を誅殺し、辺境を服従させたことを指します)、国家の累年の恥を雪ぎ、絶域不羈の君(辺境に住む従順ではない国君)を討ち、万里難制の虜(万里離れた制御が困難な敵)を縛りました。この功績と比べられることがあるでしょうか(豈有比哉)。先帝元帝はこれを嘉したので、このために明詔を下し、その功績を宣著(宣揚)し、改元して暦を垂らし(原文「改年垂暦」。竟寧に改元したことを指します)、これを無窮に伝えました。それに応じて南郡が白虎(『資治通鑑』胡三省注によると、白虎は西方の獣で威武を主宰します)を献上し、辺垂(辺境)に警備がなくなりました。先帝が寝疾(病で寝込むこと)の時も、まだ垂意(留意)して忘れることなく、しばしば尚書を送って丞相を責問し、速くその功を定めさせました。しかし独り丞相匡衡が排斥して(評価を)与えなかったため(排而不予)、甘延寿と陳湯は数百戸を封じられただけでした。これが功臣戦士を失望させた原因です。
孝成皇帝は建業の基(前人が築いた業績による基礎)を受け継ぎ、征伐の威に乗じたので、兵革を動かすことなく、国家に大事がありませんでした。しかし大臣が傾邪(不正奸邪)で、権威の独占を欲して(欲専主威)功がある者を排妬(排斥嫉妬)したため、陳湯を単身で拘禁させ(使湯塊然被見拘囚)(陳湯は)自明(弁明)することができず、最後は無罪の身かつ老齢でありながら棄てられました。敦煌はまさに西域に通じる道に当たります。かつてはその威名によって強敵を屈服させた臣下(威名折衝之臣)に対して、踵を返すほどの短い時間で罪をその身に及ばせ(旋踵及身)、逆に郅支の遺虜(残党)の笑い者とさせているのは、誠に悲しいことです。今に至るまで、命を奉じて外蛮に使いする者の中で、郅支の誅を述べて漢国の盛(強盛)を宣揚しない者はいません。人の功を引用して敵を懼れさせながら、その人の身を棄てて讒言した者を喜ばせるのは、心が痛いことではありませんか。
そもそも、安寧な時も危機を忘れず、強盛の時も必ず衰退を考慮するものです(安不忘危,盛必慮衰)。今、国家には元々文帝が累年して(年を重ねて)築いたような節倹富饒の畜(蓄え)がなく、また、武帝が薦延(推挙招聘)したような梟俊禽敵の臣(勇猛な臣。「梟俊」は梟のように獰猛で戦いに優れているという意味です。「禽」は「擒」と通じ、「捕」の意味です)もおらず、ただ一陳湯がいるだけです。もし世が異なって陛下に及ばなかったとしても(陛下が即位する前に死んだとしても)、なお国家がその功績を追録(遡って記録すること)し、その墓を修繕して(原文「封表其墓」。「封表」は墓に土を盛って標記を作ることです)、後進の者を奨励するという望みがあります。陳湯は幸いにも身が聖世に当たることができ、功もまだ久しくありません。しかし逆に邪臣の言を聞いて、鞭打って遠方に駆逐し(鞭逐斥遠)、亡逃(逃亡)分竄(家族と離散して隠れること)させ、死んでも埋葬する場所もありません(死無処所)。遠覧(遠見)の士は、誰もがこう思っています(莫不計度)。『陳湯の功は累世(歴代)において及ぶ者がなく、陳湯の過(過失)は人情においてあることなのに(人なら誰でも犯すような過ちなのに。原文「湯過人情所有」)、陳湯でもこのようなのだから、たとえまた筋骨を粉砕して(破絶筋骨)、形骸(死骸)を暴露しても(野に曝しても)、なお脣舌(口舌)に制され、嫉妒(嫉妬)の臣に係虜(捕縛)されることになる。』これは臣が国家のために特に戚戚(憂愁の様子)とすることです。」
上書が提出されると哀帝は陳湯を敦煌から還らせました。
陳湯は長安で生涯を終えます。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代286 哀帝(一) 西漢哀帝