西漢時代288 哀帝(三) 耿育の上書 前6年(2)

今回は西漢哀帝建平元年の続きです。
 
[(続き)] 議郎耿育が上書しました「継嗣(後嗣)が統(秩序、準則)を失い、適(嫡子)を廃して庶庶子を立てるのは、聖人の法が禁じていることであり、古今の至戒(最大の戒め)であると聞いています。しかし太伯は歴(王季。季歴。西周文王の父)を見て適(嫡子。後継者)とするにふさわしいと知り、逡循固譲して(「逡循」は恭順な様子、「固譲」は位を譲ることです)身を呉粤に委ねました(太伯は弟の季歴が父の跡を継ぐに相応しいと知り、呉越の地に去りました)臨機応変に変化することにおいては(権変所設)、常法を計らないものです。位を王季に至らせて聖嗣(優れた後嗣。西周文王を指します)を崇めたので、最後は天下を有し、子孫が業を継承して七八百載(年)に及び、功が三王に冠し(功績が夏商周三王の筆頭となり)、道徳が最も備わり、そのおかげで尊号が遡って太王(古公亶父)に及びました(武王が天下を擁してから、尊号が文王、王季、太王に及びました)。よって、世には必ず非常の変があり、その後に非常の謀があるのです(世には常法が通用しない変化が現れることがあり、その時は常法から外れた思考が必要になります)
孝成皇帝は継嗣をすぐに立てられないことを自ら知っており、末(晩年)に皇子ができたとしても、万歳の後(死後)(晩年に生まれた後嗣は幼いので)持国できず、権柄の重が女主に制されることを懸念しました。女主が驕盛になれば耆欲(嗜欲)に極みがなくなり、少主が幼弱なら大臣を使うことができず、世に周公のような抱負の輔(「抱負」は抱きかかえたり背負うことです。西周周公が幼い成王を支えて政治を行ったことを指します)がなければ、社稷を危うくさせて天下を傾乱させる恐れがあります。(成帝は)陛下哀帝に賢聖通明の徳、仁孝子愛の恩があると知り、独見(独特な見解。優れた見解)の明を抱き、心中で内断(決断)したので(内断於身)後宮就館の漸を廃し(「就館」は妃嬪が子を産む時、別室に移ることです。「漸」は兆し、予兆の意味です。妃嬪に出産の機会を持たせなかったという意味です)、微嗣(幼主)禍乱の根を絶ち、こうして位を陛下に到らせて宗廟を安んじようと欲したのです。ところが愚臣(解光等)は安危を深援(尽力して援けること)することも、金匱の計(長久の計)を定めることもできず、また、聖徳を推演(広めること)することも、先帝の志を述べることも知らず、逆に省内(宮内)を覆校(繰り返し調査すること)し、私燕(宮中の私生活)を暴露し、先帝に傾惑の過(美女に惑わされた過ち)があったと誣汙(誣告)し、寵妾による妬媢(嫉妬)の誅を成結し(成帝の寵妾が嫉妬によって人を殺したという罪を作り出し)、賢聖遠見の明を甚だしく失い、先帝の憂国の意に逆負(逆らい裏切ること)しています。大徳を論じる時は俗に拘らず、大功を立てる時は衆に合わないものです。これが孝成皇帝の至思(思慮、思考)が衆臣より万万倍も優れている理由であり(所以万万於衆臣)、陛下の聖徳が盛茂となり、皇天に符合している理由です。どうして当世の庸庸斗筲(凡庸微小。斗は柄杓、筲は竹器です)の臣に及ぶことができるでしょうか。そもそも、君父の美を褒広(賛美宣揚すること)将順(従順に受け継ぐこと)し、既往(過去)の過を匡救(矯正)銷滅(消滅)させるのは、古今の通義です。事が起きた当時に固争(力争)せず、未然のうちに禍を防ぐこともなく、それぞれ指(旨。成帝の意思)に随って阿諛追従することで容媚(媚び)を求めながら、晏駕崩御の後、尊号が既に定まり、万事が既に終わってから、不及の事(知ることができない事。または取り返しができない事)を探追し、幽昧の過(はっきりしない過失。隠された過失)を訐揚(暴露)しているのは、臣が深痛することです。有司に下して議論させることを願います。臣の言の通りなら、天下に宣布して先帝の聖意が起こしたことを皆に曉知(理解。周知)させるべきです。そうしなければ、いたずらに謗議(誹謗)(拡大して)上は山陵に及ばせ、下は後世に流し、遠くは百蛮に聞こえさせ、近くは海内に伝え、先帝の託後の意から甚だしく外れることになります。孝者(孝子)とは、父の志を善く述べ、人(先人)の事を善く成す(成就させる)ものです。陛下の省察(明察)を請います。」
哀帝も自分が太子になる過程で趙太后が尽力したと思っていたため(成帝元延四年・前9年、趙皇后と趙昭儀が成帝に劉欣を太子に立てるように勧めました)、この件は追及しないことにしました。
また、傅太后も趙太后を感謝して厚遇したため、趙太后も傅太后に帰心しました。
しかしそれが原因で太皇太后(王政君)や王氏は皆、趙太后を怨みました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
正月丁酉(初四日)、光禄大夫傅喜を大司馬に任命し、高武侯に封じました。
 
漢書百官公卿表下』では、成帝綏和二年(前年)十一月庚午に師丹が大司馬になり、四カ月で遷されて、哀帝建平元年四月丁酉に傅喜が大司馬になっています。
しかし『漢書外戚恩沢侯表』では、哀帝建平元年(本年)正月丁酉に封侯されています。諡号は貞侯です。
漢書王商史丹傅喜伝(巻八十二)』も「正月、師丹を大司空に遷し、傅喜を大司馬に任命して高武侯に封じた」と書いています。
前漢孝哀皇帝紀(巻第二十八)』でも「春正月丁酉」に光禄大夫傅喜が大司馬になっています。
資治通鑑』胡三省注によると、『長暦』ではこの年四月は「癸亥朔」なので、丁酉の日はありません。恐らく『百官公卿表』の「四月丁酉」が誤りです。
 
[] 『漢書哀帝紀』からです。
太皇太后(王政君)が詔を発しました「外家(外戚)王氏の田(土地)で冢塋(墓地)以外の場所は、全て貧民に賦せ(与えよ)。」
 
[] 『漢書哀帝紀』からです。
二月、哀帝が詔を発しました「聖王の治とは賢を得ることを首とすると聞く。よって大司馬列侯将軍中二千石州牧相は、孝弟(悌)惇厚で、直言ができて政事に精通しており、側陋(身分が低いこと)で民と親しむことができる者を招聘して(延于側陋可親民者)それぞれ一人挙げよ。」
 
[] 『漢書哀帝紀』からです。
三月、哀帝が諸侯王、公主、列侯、丞相、将軍、中二千石と中都官(京師の官)の郎吏にそれぞれ差をつけて金・銭・帛を下賜しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋九月甲辰(十五日)、虞県に隕石が二つ落ちました。
資治通鑑』胡三省注によると、虞県は梁国に属します。
 
 
 
次回に続きます。