西漢時代289 哀帝(四) 師丹失脚 前6年(3)

今回は西漢哀帝建平元年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
郎中令泠褒(『資治通鑑』胡三省注によると、古の楽工を泠人といい、そこから泠氏が生まれました。周代に泠州鳩という者がいました。当時は「郎中令」という官名はないはずなので、胡三省は「令」の字は衍(余分)と解説しています)、黄門郎段猶等が再び上奏しました「定陶共皇太后(傅太后と共皇后(丁姫)はどちらも今後、定陶という藩国の名を引用して大号に冠すべきではありません(共皇太后と共皇后は藩国の定陶を尊号の上につけるべきではありません。藩国名をつけなければ正式に中央の皇太后と皇后になります)。車馬、衣服は全て皇の意(至尊の地位)に沿い、二千石以下の官吏(『資治通鑑』胡三省注によると、詹事、太僕、少府等の衆官を指します)を置いて、それぞれにその職を提供するべきです。また、共皇哀帝の実父に当たる定陶共王劉康)のために京師に廟を建てるべきです。」
哀帝はこの意見を群臣に議論させました。
哀帝自身も祖母太后と母丁姫の地位を上げたいと思っていたため、群臣の多くが哀帝の意思に迎合して「母は子によって貴くなるものです(母以子貴)。尊号を立てることで孝道を厚くするべきです」と答えました。
 
しかし丞相孔光、大司馬傅喜、大司空師丹の三人だけは反対しました。
師丹が言いました「聖王が礼を制定した時は、天地の法則に倣いました(取法於天地)。尊卑とは、天地の位を正すものなので、乱してはなりません(天は尊く地は卑しいもので、君臣の立場と符合します)。今、定陶共皇太后と共皇后が『定陶共』を号としているのは、母が子に従い、妻が夫に従うという義(道理)です。官を立てて吏を置き、車服を太皇太后(王政君)と並べようと欲するのは、『尊位に二つの上はない(至尊は並存しない。原文「尊無二上」)』という義を明らかにすることになりません。定陶共皇の号諡(尊号と諡号はこれ以前に定まっているので、義によって再び改めることはできません。礼(『資治通鑑』胡三省注によると、元は『礼記喪服小記』の言葉です)にはこうあります『父が士になり、子が天子になったら、(父に対して)天子の祭祀を行っても、尸服(死者の服。父の服)は士の服を使う(父為士,子為天子,祭以天子,其尸服以士服)。』子に爵父の義がないのは(子が父に爵位を与えるという道理がないのは)、父母を尊ぶからです。人の後(後嗣)になった者はその子になったので、継いだ者のために斬衰(喪服)を三年着て、逆に自分の父母の期(服喪の期間)を減らし、本祖(継承した家系の祖)を尊重して正統を重んじることを明らかにするものです。
孝成皇帝の聖恩は深遠だったので、共王(共皇)のために後(後嗣)を立てて(成帝綏和元年8年、劉景を定陶王に立てました)祭祀を奉承させました。共皇は長久にわたって一国の太祖となり、万世において毀壊されることがなくなり、恩義が既に備わっています。陛下は既に先帝を継体(継承)し、大宗を持重し(大宗の重任を担い)、宗廟、天地、社稷の祀を受け継いでいるので、義において、再び定陶共皇を奉じて祭をその廟に入れることはできません(定陶共皇の廟を祭ることはできません)。今、京師に廟を建てることを欲していますが、臣下にこれを祭らせても、主(祭祀の主催者)がいません。また、(廟とは)(親情。親族としての関係)が尽きたら毀壊することになっています。一国の太祖として廃されることがない祭祀(不墮之祀)があるのに、そこからいたずらに去り、主がなく毀壊されるべき不正の礼に就くのは、共皇を尊厚することになりません(共皇の廟が定陶国にあれば、一国の太祖の廟として万世に伝えられます。しかし京師に廟を建てたら、祭祀には嫡子としての主がおらず、親が尽きたら壊され、しかも礼に合わない不正な廟となります)。」
 
この後、師丹はしだいに哀帝の意に合わなくなりました。
 
この頃、ある者が上書してこう言いました「古は亀や貝を貨(貨幣)としましたが、今は銭によって代えられました。民はそのために貧困しています。幣(貨幣)を改めるべきです。」
資治通鑑』胡三省注によると、古は貝を貨幣にし、亀を吉凶を卜う宝にしました。秦になって貝が廃止され、銭が流通するようになります。後に王莽が亀貝を貨幣にしますが、この時の上書が根源になっているようです。
 
哀帝が師丹に意見を求めると、師丹は「改めるべきです(可改)」と答えました。
そこで哀帝は上書を有司(官員)に下して議論させました。
ところが群臣は、銭の流通が始まって久しいため、突然変えるのは困難だと考えました。
師丹も年老いて前語を忘れていたため、公卿の意見に従いました。
 
師丹が官吏に上奏文を書かせた時、官吏が秘かに草稿を書き写しました。
丁氏と傅氏の子弟がそれを聞き、人を送って師丹を訴える上書をさせました「師丹が封事(密封した上書)を献上した時、道を行く人(外部の人)も皆、その書を持っていました。」
哀帝が将軍や中朝(内朝)の臣に意見を求めると、皆こう言いました「忠臣は諫言の内容を明らかにしないものです(忠臣不顕諫)。大臣の奏事は漏泄(漏洩)してはなりません。廷尉に下して治める(裁く)べきです。」
この件は廷尉に下され、師丹は大不敬の罪で弾劾されました。
資治通鑑』胡三省注によると、廷尉は丁氏と傅氏の風旨(意図。意思)を受けていたようです。
 
事件が解決する前に、給事中博士の申咸と炔欽(炔が姓氏です)が上書しました「師丹の経(経術と品行)は比べられる者がなく、近世の大臣で師丹のようにできる者は稀少です。憤懣を発して封事を上奏した時、深思遠慮が及ばず、主簿(『資治通鑑』胡三省注によると、漢の三公府には主簿がいました。主簿は文書を管理する官で、「簿」は文籍を意味します)に書かせましたが、漏泄の過(過失)は師丹にはありません。これによって貶黜(免官排斥)したら、恐らく衆心を満足させることができません(不厭衆心)。」
哀帝は申咸と炔欽の秩をそれぞれ二等落としました(貶二等)
資治通鑑』胡三省注によると、博士の秩は比六百石です。二等落としたら比四百石になります。
 
哀帝が策書を発して師丹を罷免し、こう言いました「朕は君の位が尊くて任が重いのに、諼(偽り)を抱いて国を迷わせ、進退が命に違い、反覆(態度が二転三転すること)して言が異なる(前後の発言が矛盾している)ことを考え、甚だ君のためにこれを恥とする。しかし君がかつて傅の位を託されていたことから(師丹は哀帝が太子だった頃、太傅を勤めました。成帝綏和元年8年参照)、理(理官。法官。廷尉を指します)において考(審問。拷問)されるのが忍びない。よって、大司空高楽侯の印綬を提出し、官を辞して帰れ(罷帰)。」
 
尚書唐林が上書しました「臣が見るに(竊見)、大司空師丹に下された策書はあまりにも痛切すぎます(泰深痛切)。君子が文を作る時は、賢者のために避けるものです(賢者の過失を隠すものです。原文「為賢者諱」。本来は賢者の諱(実名)を避けるという意味です)。師丹は、経(経学)においては世儒の宗(当世の儒者が尊崇する対象)となり、徳においては国の黄耇(長者。「黄耇」は本来、老人の意味です)となり、自ら聖躬(皇帝)を傅し(教導し)、位は三公にあります。今回坐した罪は微小で、海内がまだ大過を見ていません。事は既に過ぎ去っており、爵位を免じるのは重すぎます。京師の識者は皆、師丹の爵邑を復して奉朝請(春と秋の朝見。功臣に与える特権です)をさせるべきだと思っています。陛下が衆心を裁覧し(推し量り)、師傅の臣(師丹)に尉復(慰安報恩)があることを願います。」
哀帝は唐林の言に従って詔を下し、師丹に関内侯の爵位を下賜しました。
 
 
 
次回に続きます。