西漢時代291 哀帝(六) 鼓妖 前5年(1)

今回は西漢哀帝建平二年です。三回に分けます。
 
西漢哀帝建平二年
丙辰 前5
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、孛星(異星。彗星の一種)が牽牛に現れました。
牽牛は星宿(星座)の名です。『資治通鑑』胡三省注によると、牽牛宿には六星があり、天の関梁(関所や橋)に当たります。犧牲の事を主宰するとされました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
丁氏と傅氏の宗族が驕奢になり、皆、傅喜の恭倹を憎みました。
また、傅太后は尊号を称すことを求めており、成帝の母太皇太后王政君)と尊位を対等にしたいと思っていましたが、傅喜と孔光、師丹が共に反対の立場を堅持しました。
哀帝は大臣の正議(正論)に反するのが難しく、内では傅太后から強要されたまま、躊躇して年を重ねました。
ところが傅太后が激怒したため、前年、哀帝はまず師丹を罷免して傅喜の心を動かそうとしました。
しかし傅喜はいつまでたっても傅太后に従おうとしません。
 
この頃、朱博と孔郷侯傅晏が結んで共に尊号の事を成就させるために謀っていました。二人はしばしば哀帝に燕見(皇帝が暇な時に謁見すること)し、封事(密封した上書)を提出して傅喜と孔光の欠点を批難しました。
 
丁丑(中華書局『白話資治通鑑』は「丁丑」を恐らく誤りとしています)哀帝がついに策書を発し、傅喜を免じて侯の身分のまま家に帰らせました。
 
成帝綏和元年(前8年)御史大夫の官を廃して大司空を置きました。
しかし議者の多くが「古と今では制度が異なり、漢も天子の号から下は佐史に至るまで、全て古と異なるのに(漢は秦から始まった皇帝の号を踏襲しました。上は皇帝から下は斗食、佐史といった小官まで、古の官制から変わっています)、三公だけ改めても職事を分けて明らかにするのは困難で、乱を治めることに対して益はない」と考えていました。
そこで大司空朱博が上奏しました「故事(前例)では、郡国の守相(二千石)から高第(成績優秀な者)を選んで中二千石とし、中二千石から選んで御史大夫とし、任職の者(職責を全うできる者)を丞相にしました。位次(序列)に秩序があるのは、聖徳を尊んで国相を重んじるためです。しかし今は、中二千石が御史大夫を経ずに丞相となり、権が軽くなっています。これでは国政を重んじることになりません。臣の愚見によるなら、大司空の官を廃して再び御史大夫を置き、旧制を遵奉するべきです。臣は(大司空より低い)御史大夫の立場で尽力し、百僚の率(見本)となることを願います。」
哀帝はこの意見を採用することにしました。
 
夏四月戊午(初二日)、朱博の官を改めて御史大夫に任命しました。
また、丁太后の兄陽安侯丁明を大司馬衛将軍に任命して官属を置き、大司馬の冠号を綏和元年以前に戻しました。専官ではなくなったので、衛将軍の職が加えられました。
 
漢書哀帝紀』には「春三月、大司空を廃して御史大夫に戻した」とあります。三月に御史大夫を元に戻す決定がされ、四月に朱博が任命されたのだと思われます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
太后が自ら丞相と御史大夫に詔を発しました「高武侯傅喜は下に附いて上を欺き(附下罔上)、故()大司空師丹と同心になって背畔(背反)し、命を放棄して族(同族。傅氏)を害しているので(放命圮族)、奉朝請(春と秋に朝見する特権)は相応しくありません。よって封国に送り帰します(遣就国)。」
こうして傅喜は朝廷から出されました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
丞相孔光は先帝(成帝)が継嗣(後継者)について議論した時、異議を持ったため哀帝との間に対立が生まれました。また、後にも重ねて傅太后の意思に逆らったため(成帝綏和元年8年、孔光は中山王劉興を成帝の後嗣に推しました。綏和二年7年には傅太后哀帝の近くに住むことに反対し、哀帝建平二年6年には傅太后が尊号を称すことにも反対しました)、官位にいる傅氏の者と朱博が表裏になり(傅氏が内、朱博が外です)、共に孔光を批難しました哀帝元寿元年(前2年)に侍中・傅嘉が孔光を讒言した罪で罷免されるので、傅氏の者は主に傅嘉を指すようです)
 
乙亥(十九日)哀帝が策書を発して孔光を罷免し、庶人に落としました。
孔光の代わりに御史大夫朱博を丞相に任命して陽郷侯に封じました。
 
漢書百官公卿表下』を見ると、丞相の欄では「四月乙未」に孔光が罷免されて朱博が丞相になっており、御史大夫の欄では「四月戊午」に朱博が御史大夫になって「乙亥」に(丞相に)遷されています。
漢書五行志中之下』は「哀帝建平二年四月乙亥朔、御史大夫朱博を丞相に、少府趙玄を御史大夫に任命した」としています。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『長暦』ではこの月は丁巳朔なので乙未の日がなく、乙亥は十九日なので朔ではありません。『百官公卿表』と『五行志』に誤りがあるようです。
前漢孝哀皇帝紀(巻第二十八)』は「乙亥、丞相孔光を罷免した」としており、『資治通鑑』はこれに従っています。
 
少府趙玄を御史大夫に任命しました。
趙玄は成帝綏和元年(前8年)に太子太傅から少府に左遷され、師丹が代わりに太傅になりました。『資治通鑑』胡三省注によると、今回再び重く用いられたのは丁氏と傅氏の意思によります。
 
哀帝が朱博と趙玄を上殿させました。
資治通鑑』胡三省注によると、丞相と御史大夫が任命される時は皇帝が殿上に招いて詔を発しました。
 
二人が上殿して策書を受け取ろうとした時、鐘を衝いたような大きな音が鳴り響きました。殿中の郎吏や陛者(殿上に登る階段を守る武士)が皆その音を聞きます。
 
哀帝が黄門侍郎蜀郡の人揚雄と李尋に音の理由を問いました。
資治通鑑』胡三省注によると、黄門侍郎は黄門で給事する侍郎(近侍)で、六百石です。皇帝の侍従や左右の者を管理し、宮内に仕え、内外の情報を伝達したり、諸王が殿上で朝見した時には王を引導して席に就かせました。
漢書揚雄伝上(巻八十七上)』によると、周代に有周伯僑という者がおり、支庶(周王の傍系)として晋の揚(地名)を食邑にしたため、揚氏が生まれました。但し、伯僑が周王のどの支系かはわかりません。
 
李尋が答えました「これは『洪範』に書かれている鼓妖というものです。師法(師の教え)では、人君が不聡で衆に惑わされており、空名(虚名)の者が(朝廷に)進んでいる時、声(音)があるのに形がなく、どこから発生したのかも分からないとされています。その(『洪範』の)『伝』はこう言っています『鼓妖が歳月日の中(中間。中期)に起きたら、正卿がこれを受ける(歳月日之中,則正卿受之)。』今は四月で、日も辰巳の時に異があったので、これは中となります(原文「今以四月日加辰巳有異是為中焉」。『資治通鑑』胡三省注によると、一年を三分すると四月は一年の中期に当たります。この一年は農業を行う春夏秋だけを指すのかもしれません。また、一日を三分すると辰巳は一日の中間に当たります。一日は子時(夜11時)から始まり、辰は午前7時から9時、巳は午前9時から11時を指します。更にこの日は乙亥(十九日)なので月の中旬に当たります)。正卿とは執政の大臣です。丞相と御史を退けて天変に応じるべきです。もし退けなくても、期年(一年)を出ずにその人は自ら咎を蒙ることになります。」
揚雄もこう言いました「鼓妖は聴失(正言を聴けないこと)の象です。朱博の為人は強毅で権謀が多いので、将にするには相応しくても相にするには相応しくありません。恐らく凶悪かつ亟疾(緊急。急激)な怒(天譴)があります。」
哀帝は諫言を聴きませんでした。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
朱博が丞相になったので、哀帝は朱博の意見を採用して詔を下しました「漢家の制では、親親(親族と親しむこと)を推すことで尊尊(尊重するべき人を尊重すること)を明らかにするものである。定陶共皇の号は、今後また定陶と称すのは相応しくない。共皇太后を尊重して帝太太后とし、永信宮と称す。共皇后を帝太后と呼び、中安宮と称す。共皇のために京師に寝廟(宗廟の正殿を廟、後殿を寝といいます)を建て、宣帝の父悼皇考の制度と同等にする。天下の徒を赦す大赦する)。」
この後、傅太后、丁太后、趙太后(趙飛燕)太皇太后(王政君)の四太后がそれぞれ少府、太僕を置くことになりました。秩はどれも中二千石です。
 
哀帝が即位したばかりの時、太祖高帝、太宗文帝、世宗武帝の祖宗三人と、昭帝、宣帝、元帝、成帝の四帝、併せて七廟が奉祀されました。但し、皇考廟(宣帝の父の廟)も残されているので、実際は八廟が存在しています成帝綏和二年・前7年)。今回、共皇のためにも廟が建てられたため、九廟になりました。
 
太后は尊位に就いてからますます驕慢になり、太皇太后と話をする時、「嫗(老女)」と呼ぶこともありました。
丁氏と傅氏は一二年の間に突然勃興して格別な隆盛を得ました。公卿列侯になった者も多数います。
しかし哀帝が過度な権勢を与えなかったため、成帝時代の王氏の隆盛には及びませんでした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
丞相朱博と御史大夫趙玄が上奏しました「前高昌侯董宏が最初に尊号の議(傅氏が尊号を称すべきだという意見)を立てましたが、関内侯師丹に劾奏されたため、免じて庶人にされました(成帝綏和二年7年参照)。当時は天下(または「天子」)が衰粗(喪服)を着ていたため政事を師丹に委ねていましたが、師丹は尊号を褒広(賛美して推進すること)する義を深く考えず、妄りに称説(陳述)して尊号を抑貶し(抑えて貶め)、孝道を虧損しました。これより大きな不忠はありません。しかし陛下は仁聖なので昭然と(明らかに)尊号を定め、董宏をその忠孝によって再び高昌侯に封じました(『資治通鑑』では、董宏は成帝綏和二年に爵位を奪われていますが、いつ復封されたかは書かれていません。『漢書・景武昭宣元成功臣表』には「建平元年(前年)、佞邪に坐して免じられ、二年に復封される」とあります。廃された年が『資治通鑑』と一年ずれています)。師丹の悪逆は暴著(暴露)されています。確かに赦令を蒙りましたが、爵邑を有しているのは相応しくありません。罷免して庶人にすることを請います。」
哀帝は上奏に同意しました。
漢書何武王嘉師丹伝(巻八十六)』によると、師丹は廃されて郷里に帰り、数年を過ごしました。師丹の故郷は琅邪東武です。
 
 
 
次回に続きます。

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