西漢時代292 哀帝(七) 赤精子の讖 前5年(2)

今回は西漢哀帝建平二年の続きです。
 
[] 朱博と趙玄がまた上奏しました「新都侯王莽もかつて大司馬となりましたが、尊尊の義(尊重するべき人を尊重する道理)を広めず、尊号を抑貶(抑え貶めること)して孝道を虧損しました(王莾も傅太后が尊号を称すことに反対しました)。顕戮(明らかな刑罰、または死刑)に伏すべきですが、幸いにも赦令を蒙りました。しかし爵土を有すのは相応しくないので、免じて庶人にすることを請います。」
哀帝が言いました「王莽と皇太后には属があるので(親族の関係があるので)爵位を)免じず国に赴かせる(遣就国)。」
 
平阿侯王仁(王譚の子。成帝鴻嘉四年17年参照)も趙昭儀の親属を匿っていたため、哀帝は王莾と一緒に封国に帰らせました。
 
天下には王氏の冤罪を訴える者が多数いました。そこで諫大夫楊宣が封事(密封した上書)を提出して言いました「孝成皇帝は宗廟の重を深く考慮し、陛下の至徳を称述(称賛)して天序(天の秩序。天命)を継承させました。聖策(成帝の考え)は深遠で、恩徳が至厚です。先帝の意を思念するに、陛下哀帝をもって自分の代わりとし、東宮(王太后を奉承(侍奉。仕えること)したいと欲しなかったはずがありません。太皇太后の春秋(年齢)は七十になり、しばしば憂傷を経験してきました元帝と成帝の喪に服しました)。しかも親属に敕令(訓戒)して引領(引退)させることで丁氏と傅氏を避けたので、道を行く人(宮外の人)がこのために隕涕(涙を流すこと)しました。陛下においてはなおさらでしょう(況於陛下)(陛下が)高地に登って遠望したら、延陵(成帝陵)に対して慚愧しないでいられるでしょうか(独不慚於延陵乎)。」
哀帝はこの言に深く感じ入り、成都王商の中子王邑を再び成都侯に封じました。
元々、王商の子王況が成都侯を継いでいましたが、成帝綏和二年(前7年)に侯位を奪われていました。今回封侯された王邑は王況の弟です。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
朱博がまた上奏しました「漢家の故事(前例)では部刺史を置き、(刺史は)秩は低いものの賞が厚かったので、皆、功を立てることに励み、喜んで精進しました(原文「勧功楽進」。『資治通鑑』胡三省注によると、漢の刺史は秩六百石でしたが、州部で九年勤めたら郡守や国相に推挙されて秩二千石になりました)。以前、刺史を廃して改めて州牧を置き(成帝綏和元年8年)、秩を真二千石にして九卿に次ぐ位とし、九卿が欠けたら(州牧の)高第(成績が優秀な者)から補うことにしましたが、中材(中才。才能が平凡な者)はとりあえず自分を守るだけになりました(秩が多く地位も高いため努力しなくなりました)。これでは功效(州刺史の功績)が日々衰廃し(功效陵夷)、姦軌(奸悪、違法)を禁じられなくなる恐れがあります。臣は州牧を廃して以前のように刺史を置くことを請います。」
哀帝は進言に同意して州刺史の制度を元に戻しました。州牧が廃されます。
 
[] 『漢書哀帝紀』と資治通鑑』からです。
六月庚申(初五日)哀帝太后(母)丁氏が死にました。
哀帝が詔を発しました「朕は夫婦とは一体だと聞いている。『詩(王風大車)』はこう言っている『異なる部屋で生まれても(または「異なる部屋で生活しても」)、死んだら同じ穴に入る(「穀則異室,死則同穴」)。』昔、季武子(魯の大夫季孫宿)(寝陵。墓陵)が完成した時、杜氏の殯(棺)が西階(正堂西側の階段。恐らく墓陵に堂があり、その西側の階段を指します)の下にあったため、杜氏の者が)合葬を請い、(季武子は)これに同意した(分かりにくいので下述します)。附葬(合葬)の礼は周から興きた。『完備で豊富な文(典文。法令規則)ではないか。わしは周に従おう(「郁郁乎文哉。吾従周」。『論語』の言葉です。周は夏・商の礼制を参考にして周礼を作り、孔子は周礼を称賛しました。ここでは、哀帝も周礼に従って合葬をするという意味で引用しています)』。孝子とは死者に対しても生者と同じように仕えるものだ(孝子事亡如事存)。帝太后の陵は恭皇の園に建てるべきである。」
 
季武子が杜氏の合葬を許可したという故事は『礼記檀弓上』に記述があります。原文は非常に簡潔で分かりにくいので、『礼記正義』の注釈を交えて故事を紹介します。
季武子が新しく寝陵を造る時、杜氏の墓地だった地域を占拠しました。ちょうど西階の下に杜氏の者が埋葬されています。後に杜氏で死人が出ると、杜氏の者が季武子に合葬を請いました。季武子はこれに同意します。
合葬が許されたため、杜氏の人が季武子の宮(寝陵)に入りましたが、敢えて哭礼を行おうとしませんでした。すると季武子が言いました「合葬は古の制度ではない(「だから杜氏の古い墓地を占拠したのだ」という言い訳です)。しかし周公以来、(合葬の制度ができて)未だに改めらたことがない。わしは既に大きな事(合葬)を許可したのだから、小さな事(哭礼)を許可しないはずがない(吾許其大而不許其細何居。」
季武子は杜氏の者に哭礼をさせました。
 
本文に戻ります。
哀帝は丁太后の霊柩を定陶国に帰し、定陶共皇の園に埋葬させました。
陳留等、済陰(済水南)の定陶国に近い郡国から五万人を動員して墳墓を造りました(原文「穿復土」。「穿」は墓穴を掘ること、「復」は土を盛ることです)
 
[] 『漢書哀帝紀』と資治通鑑』からです。
成帝時代、斉人甘忠可が『天官暦』『包元太平経』十二巻を偽造し、「漢家は天地の大終に逢ったので、天から改めて命を受けることになる」と言いました。
甘忠可は渤海の夏賀良等に自分の説を授けました。
漢書眭両夏侯京翼李伝(巻七十五)』によると、甘忠可は「天帝が真人(仙人の一種)精子を下して私にこの道(道理)を教えた」と言って、重平(『漢書』の注によると勃海の県です)の夏賀良、容丘(東海の県です)の丁広世、東郡の郭昌等に教授しました。
漢書哀帝紀』の注によると、高祖は赤龍に感応して生まれたため、自分を赤帝の精と称しました。甘忠可があえて「赤精子」と称したのは、高祖劉邦と関係づけるためかもしれません。
 
中塁校尉劉向が甘忠可を訴えました。鬼神を語って上(皇帝)を騙し、民衆を惑わしているという内容です。
甘忠可は獄に下され、審問の結果、罪に服しましたが、判決が下る前に病死しました。
夏賀良等は甘忠可が死んでからも秘かに教えを受け継ぎました。
 
哀帝が即位してから、司隸校尉解光と騎都尉李尋が夏賀良等の説を支持して報告しました。夏賀良等は皆、黄門で詔を待つことになります(待詔黄門。「待詔」は皇帝が能力のある者を召して待機させることです。正官ではありませんが、皇帝に招かれたら自分の意見を述べる機会がありました)
夏賀良等はしばしば哀帝に招かれるようになり、その機に赤精子の讖(予言)を語ってこう言いました「漢の暦運(命運)は中衰しており、改めて命を受けることになっています。成帝は天命に応じなかったため、嗣(後嗣)が絶えました。今、陛下は久しく疾(病)を患い、変異も頻発してています。天はこれらによって人に譴告しているのです。急いで改元易号(易号も改元の意味です)するべきです。そうすれば延年益寿を得て、皇子が生まれ、災異が終息します。道を得ながら(道を知っているのに)行えなかったら、咎殃(天譴災害)がないはずがなく(且無不有)、洪水が発生し、災火が起こり、民人が滌盪(消滅)します。」
 
哀帝は久しく病床にいました。『資治通鑑』胡三省注によると、哀帝は即位した時から痿痹(虚弱)で、末年にはますますひどくなりました。
そこで哀帝改元に益があることを望み、夏賀良等の意見に従うことにしました。
 
哀帝が詔を発しました「漢が興きて二百載(年)、しばしば開元(新しい元号を始めること)を経験してきた。皇天が非材の佑を降し(不才に対する助けを下し。「非材(不才)」は哀帝を指します。皇天が不才な哀帝を助けたという意味です)、漢国が再び受命の符を獲た。朕の不徳がどうしてそれを通せなくできるだろう(朕の不徳が原因でそれを妨げてはならない。原文「朕之不徳曷敢不通」)。事を始める大命(変革の大命。原文「基事之元命」。「基」は「始め」、「元」は「大」に通じます)があったら、天下と共に自新する必要がある。よって、天下を大赦し、建平二年を太初元将元年とする。号して陳聖劉太平皇帝という。また、漏刻は百二十を度とする。」
 
こうして哀帝は天下に大赦して改元を行いました。建平二年を太初元将元年(『資治通鑑』は「太初元年」としていますが、恐らく誤りです。「太初」は武帝の年号です)に改め、「陳聖劉太平皇帝」と号します。
「陳聖劉太平皇帝」について、『漢書哀帝紀』の注を列記します。
李斐 「『陳』は『道』に通じ、『神道を得た聖者劉』という意味である。」
如淳 「陳は帝舜の後代で、王莽も陳の後代である。謬語(隠語)で王莽が簒奪して立つことを明らかにしたのに気がつかなかった。」
韋昭 「聖劉の徳を敷陳する(広くに述べて知らせる)という意味である。」
顔師古は「如淳と韋昭の二説が正しい」と判断しています。
但し、『資治通鑑』胡三省注は「韋昭の説は正(正論。正道)から違えておらず(不詭於正)、如淳の説は迷信に流れている(流於巫)。顔師古は二説とも是(正しい)としているが、どちらに従うというのだ」と書いています。
 
(時間を計る機器。砂時計または水時計の刻を百二十に改めたというのは、時間の概念を改新したことを意味します。
資治通鑑』胡三省注によると、旧漏は昼夜合わせて百刻でしたが、今回、二十刻を増やしました。
『周礼注疏』に百刻に関する二つの記述があります。一つは「春分秋分は昼夜それぞれ各五十刻、冬至は昼が四十刻で夜が六十刻、夏至は昼が六十刻で夜が四十刻」です。もう一つは「日中春分は日(太陽)が見える時間(日見之漏と見えない時間が等しい。日長夏至は日が見える時間が五十五刻あり、四時(四季)の中で最も長い。夜中(秋分)は日が見えない時間(日不見之漏と見える時間が等しい。日短冬至は日が見える時間が四十五刻で、四時の中で最も短い」とあり、夏と冬に関する説明が異なります。
 
 
 
次回に続きます。

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