西漢時代294 哀帝(九) 東平王事件 前4年

今回は西漢哀帝建平三年です。
 
西漢哀帝建平三年
丁卯 前4
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、広徳夷王劉雲客の弟劉広漢を広平王に立てました。
 
劉雲客は中山靖王劉勝(景帝の子)の子孫です。中山王の家系が途絶えていたため、成帝鴻嘉二年(前19年)に広徳王に封じられました。
しかし劉雲客にも後嗣がいなかったため、再び家系が途絶えました。
今回、劉雲客の弟劉広漢が改めて封王されました。
尚、『漢書・諸侯王表』では、劉広漢の名は「劉漢」となっています。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸卯、帝太太后(傅太后が住む桂宮正殿で火災がありました。
 
漢書五行志上』では「桂宮鴻寧殿で火災があった」としていますが、『漢書哀帝紀』『前漢孝哀皇帝紀(巻第二十八)』とも「桂宮正殿」としているため、『資治通鑑』も「正殿」としています(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
哀帝が使者を派遣して丞相平当を招きました。封侯するためです。
しかし平当は病が重かったため、応じませんでした。
室家(家族。『資治通鑑』胡三省注は「平当の妻や子」としています)のある者が平当に言いました「子孫のために無理にでも起きて侯印を受け取れませんか。」
平当が言いました「私は大位に居ながら既に素餐の責(功績がないのに食禄だけ得ているという譴責)を負っている。起き上がって侯印を受け取り、還って臥したらすぐに死ぬようでは、死んでも余罪がある(死んでも償えない。原文「死有余罪」)。今、起きないのは、子孫のためである。」
平当は上書して引退を乞いました(乞骸骨)。しかし哀帝は同意しませんでした。
 
三月己酉(二十八日)、平当が死にました。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
孛星(異星。彗星の一種)が河鼓に現れました。
資治通鑑』胡三省注によると、「河鼓」は牽牛の北の星座です。大星は上将(大将軍)を、左右の星は左右の将(左将軍と右将軍)を象徴します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月丁酉(十七日)御史大夫王嘉を丞相に任命し、河南太守王崇を御史大夫にしました。
王崇は京兆尹王駿(成帝陽朔四年21年参照)の子です。
 
当時は政治が苛急(厳酷)で、郡国の守相の変動が激しかったため、王嘉が上書しました。
上書の内容は別の場所で書きます。

西漢時代 王嘉の上書

 
王嘉は儒者公孫光、満昌および能吏蕭咸、薛脩を推挙しました。皆、名声がある元二千石の官員です。哀帝は進言を聞いて全て任用しました。
資治通鑑』胡三省注によると、満昌の満氏は元々荊蛮に瞞氏がおり、発音にともなって「満」に変わりました。また、『国語』には「路、潞、泉、余、満は皆、赤狄の隗姓」とあります。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、魯頃王の子に当たる郷侯劉閔を魯王に立てました。
 
魯王は景帝の子共王劉余から始まります。
漢書諸侯王表』によると、劉余の後、安王劉光、孝王劉慶忌、頃王劉封、文王と続きましたが、劉に後嗣がいなかったため途絶えました。
この年、頃王劉封の子で文王の弟に当たる劉閔が改めて魯王に立てられました。
 
尚、『資治通鑑』は「郷侯」を「部郷侯」と書いていますが、『漢書哀帝紀』『諸侯王表』『景十三王伝(巻五十三)』とも「郷侯」なので、『資治通鑑』が誤りです。
また、『景十三王伝』は頃王の名を劉勁としています(『諸侯王表』では「劉封」です)
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
哀帝の病状が一向に善くなりませんでした。
冬十一月壬子(初五日)哀帝太皇太后(王政君)から詔を下させて、甘泉泰畤と汾陰后土の祠を恢復しました。南北の郊を廃止します。
甘泉と汾陰の祠は成帝綏和二年(前7年)に成帝が死んだため、皇太后(王政君)の詔によって廃されていました。
 
成帝は自ら甘泉や河東(汾陰)に行くことができないため、有司(官員)を送って代わりに礼祠(礼を用いた祭祀)を行わせました。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
無塩の危山で土が自然に盛り上がり、草を覆って馳道(天子用の大通り)のような道を造りました。
資治通鑑』胡三省注によると、無塩県は東平国に属します。危山は山名です。
 
また、瓠山の石が自然に向きを変えて立ち上がりました(転立)
資治通鑑』胡三省注によると、「瓠山」は「報山」ともいいます。
 
東平王劉雲と王后(謁は王后の名です。姓氏は不明です)が自ら石を祀りに行きました。
瓠山の立石に似せた石を作り、倍草(黄倍草)を束ねて(原文「束倍草」。倍草に何の意味があるのかはわかりません)(宮中で)一緒に祀ります。
 
東平王は宣帝の子劉宇が封じられました。劉雲は劉宇の子です。『漢書宣元六王伝(巻八十)』によると、劉宇の諡号は思王、劉雲は煬王です。
 
河内の人息夫躬(息夫が姓です。『資治通鑑』胡三省注によると、嬀姓から息国ができて息氏を名乗り、公子辺が爵を受けて大夫になったため更に息夫氏が生まれました)長安の人孫寵が共謀して「これは封侯を得る計だ」と言いました。
二人は中郎右師譚(右師が姓で、譚が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、右師は官名から生まれた氏のようです)と共に中常侍宋弘を通して変事を上書し、東平王を告発しました。
当時、哀帝は病を患っていたため、多くの事を嫌悪していました。息夫躬等の訴えも有司に任されます。
有司は王后謁を逮捕して獄に入れ、審問しました。
王后謁は屈服して「祠祭(祭祀)によって上(陛下)を詛祝(呪詛)し、雲が天子になるように求めました。石が立ったのは宣帝が起きた表(徴。兆し。昭帝元鳳三年78年参照)だと考えました」と証言します。
 
有司は東平王を訴えて誅殺するように請いました。
哀帝は詔を発して東平王を房陵に遷させましたが、劉雲は自殺しました。
王后謁と舅(母の兄弟)伍宏および成帝の舅安成共侯(王崇。王政君の兄弟です)の夫人放も全て棄市に処されました。
資治通鑑』胡三省注によると、伍宏は医伎(医術)によって王の寵幸を得ており、禁門を出入りしていました。安成共侯夫人放に推薦されて東平王に仕えたようです。
漢書外戚恩沢侯表』を見ると、安成共侯王崇の死後、成帝建始三年(前30年)に靖侯王奉世が継いでおり、建国二年(新朝始建国二年10年)に王持弓が王奉世の跡を継いでから、王莽によって廃されています。今回の東平王事件では、安成共侯夫人放は処刑されましたが、安成侯国は廃されていません。
 
この事件は御史大夫王崇(安成共侯とは別人です)も巻き込みました。王崇は大司農に左遷されます。
孫寵は南陽太守に、右師譚は潁川都尉に、宋弘と息夫躬は光禄大夫左曹給事中に抜擢されました。
 
 
 
次回に続きます。