西漢時代295 哀帝(十) 断袖の交り 前3年(1)

今回は西漢哀帝建平四年です。三回に分けます。
 
西漢哀帝建平四年
戊午 前3
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、大旱に襲われました。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
関東の民が理由もなく驚いて走り出しました(無故驚走)。稾や掫(麻の茎)を一枚(一本)持って互いに他の人と受け渡し、「西王母の籌を行う」と伝えていきます。
「籌」は「策略」「政策」の意味です。
西王母は伝説の女神ですが、『資治通鑑』胡三省注によると王政君を指します。
 
道中で遭遇した人の数は、多ければ千人を数えるほどでした。ある人は髪を乱して裸足で走り、ある人は夜間に関を破り、ある人は壁を越えて(関中に)入り、ある人は車騎に乗って疾駆し、置駅(文書を伝達するために設けられた駅)の伝馬を使って移動しました。
人々は二十六の郡国を経由して西に向かい、京師に入ります。政府がそれを禁止することはできません。
民はまた里巷や阡陌(田地。あぜ道)に集まって博具(賭博の道具)を準備したり、歌舞によって西王母を祀りました。
ある者は夜に火を持って家屋の上に登りました。
太鼓を敲いたり叫び声を挙げて互いに驚恐します。
 
騒動は秋になってやっと収まりました。
漢書五行志下之上』は「この異(異変)は王太后と王莽の応(傅氏と丁氏が滅んで王太公と王莽が台頭する兆し)だといわれている」と解説しています。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
哀帝は傅太后の従父弟(父の兄弟の子)に当たる侍中光禄大夫傅商を封侯したいと思いました。
尚書僕射平陵の人鄭崇が諫めて言いました「孝成皇帝が親舅(母の兄弟)五侯を封じた時、天が赤黄になり、昼なのに暗く(昼昏)、日中(太陽の中)に黒気が現れました。孔郷侯(傅晏)は皇后の父であり、高武侯(傅喜)は三公として封じられたので、まだ因縁(封侯の理由)があります。しかし今、理由もないのにまた傅商を封じようと欲するのは、制度を壊乱して天と人の心に逆らうことであり、傅氏の福とはなりません。臣は身命をもって国咎(国の懲罰)に当たることを願います(命を棄てて反対します)。」
鄭崇は詔書(傅商を封侯する詔書の草案。または詔書を書くための台)を持って立ちあがりました。
これを知った傅太后が激怒して言いました「天子でありながら一臣に顓制(制御)される者がどこにいるのですか!」
 
二月癸卯(二十八日)哀帝が詔を下して傅商を汝昌侯に封じました。
漢書外戚伝下(巻九十七下)』によると、傅太后の父の同産弟(同母弟)は四人おり、傅子孟、傅中叔、傅子元、傅幼君といいました。傅幼君の子が傅商です。今回、傅商を封侯させたのは、傅太后の父崇祖侯の後を継がせるためです。崇祖侯を改めて汝昌侯にしました。諡号は哀侯です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
駙馬都尉侍中雲陽の人董賢が哀帝の寵幸を得ました。哀帝が外出する時は参乗(馬車に同乗する者)となり、宮中に入る時は左右に侍ります。賞賜が重なって鉅万(巨万)になり、顕貴が朝廷を震わせました。
 
董賢は常に哀帝と臥起(寝起き)を共にしました。
ある日、二人が昼寝をした時、董賢が斜めに寝ていたため哀帝の袖の上にいました。哀帝は起き上がろうとしましたが、董賢がまだ目を覚ましていません。哀帝は董賢を動かさないために(目を覚まさせないために)袖を断って(切って)起き上がりました。
この故事から「断袖の癖」「断袖の交り」という言葉が生まれました。男色、同性愛を意味します。
 
哀帝が詔を発し、董賢の妻を宮門に登録させて、殿中に入れるようにしました。妻を董賢の廬(住居。部屋)に留めます。
更に董賢の妹を招いて昭儀とし、皇后に次ぐ地位にしました。
昭儀と董賢夫妻は旦夕(朝夜)とも哀帝の傍におり、そろって左右に侍ります(旦夕上下並侍左右)
董賢の父董恭は少府に任命されて関内侯の爵位が下賜されました。
 
哀帝が詔を発して将作大匠(『漢書・佞幸伝(巻九十三)』によると、董賢の妻の父です。下部コメント欄を参照ください)に董賢の屋敷を建てさせました。大第(大邸宅)が北闕の下に造られます。重殿洞門があり(『資治通鑑』胡三省注によると、重殿は前後の殿です。洞門は闕門に相当します。どちらも天子の制度を侵しています)、建築様式は技巧を極めました。
また、武庫の禁兵(宮中の武器)や上方(禁中)の珍宝も下賜しました。選び抜かれた上等な珍宝は全て董氏にあり、乗輿(皇帝の器物)として使うのは副(二級)の物となりました。
あらかじめ東園の秘器、珠襦、玉匣等も董賢に下賜し、不足する物は何一つありませんでした(『資治通鑑』胡三省注によると、東園は官署の名で少府に属します。秘器は棺木です。珠襦は珠玉を連ねた短衣で、玉匣は玉片で作った服です。どちらも死者に着せます)
将作大匠に命じて義陵哀帝陵)の傍に董賢の冢塋(墓)も造らせました。内側には便房皇帝や諸侯王の墓内の部屋。棺を置きますがあり、棺を置く部屋は剛柏(堅い柏)を重ねて囲みました(多数の柏を積み上げて棺室を囲む「題湊」という様式です)。外には徼道(巡邏警備用の道)があり、周囲の壁は数里に及びます。門闕も罘(「罘」は門や闕に連なった建築物で、防御や見張りに使います。または、門の外に置く障壁、屏風も「罘」といいます)も非常に豪華でした。
 
哀帝が過度に董賢を貴寵しているため、鄭崇が諫言しました。
ところがそれが原因で鄭崇は深く哀帝の罪を得ます。哀帝は職務の事でしばしば鄭崇を譴責しました。
鄭崇は首に癰(できもの)ができたため、引退を乞おうとしましたが、言い出せませんでした。
尚書趙昌は佞(佞諂)の臣で、以前から鄭崇を嫉妬していたため、鄭崇が哀帝から疎遠にされているのを見て、こう上奏しました「鄭崇は宗族と通じています。姦(乱。陰謀)の疑いがあるので、処置を請います(請治)。」
哀帝が鄭崇を責めて言いました「君の門は市の人のようではないか(市に人が群がるようではないか)。なぜ主上(皇帝)を禁切(制限)しようと欲するのだ(鄭崇も多数の人と交流しているのに、なぜ皇帝が董賢と交流するのを制限しようとするのだ)?」
鄭崇が答えました「臣の門は市のようですが、臣の心は水のようです(清潔です。清らかです)。考覆(審問。または再調査)されることを願います。」
哀帝は怒って鄭崇を獄に下しました。
司隸孫宝が上書して言いました(成帝元延四年9年、成帝が司隸校尉を廃しました。『資治通鑑』胡三省注によると、成帝綏和二年、成帝の死後に哀帝が再設しましたが、「司隸」と呼ぶことにしました。進賢冠を被り、大司空に属します)尚書趙昌が僕射鄭崇の獄を上奏し、覆治(審問を繰り返すこと)していますが、榜掠(笞で打つ拷問)によって死にそうになっても、最後まで一辞(一言)もなく、道路(外の人々)が冤を称えています(冤罪を訴えています)。この事を考えると、趙昌と鄭崇は内に纖介(些細な対立)があり、浸(讒言)によって陥れようとしている疑いがあります。禁門枢機の近臣(鄭崇は尚書僕射です)でも冤譛(冤罪讒言)を蒙り受けているようでは、国家を虧損(欠損)させ、謗(批難)も少なくないでしょう。臣は趙昌を裁いて衆心(民衆の不満)を解くことを請います。」
上書が提出されると、哀帝は詔を下してこう言いました「司隸孫宝は下に附いて上を欺き、春月を利用して(春は死刑を執行できません。秋から冬に執行されます)詆欺(誹謗欺瞞)を行い、その姦心を満足させようとしている。これは国の賊である。よって孫宝を免じて庶人にする。」
こうして孫宝は官位を奪われました。
鄭崇は獄中で死んでしまいました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月、諸吏散騎光禄勳賈延を御史大夫に任命しました。昨年左遷された王崇の代わりです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
哀帝は董賢を封侯したいと思いましたが、理由がありません。
そこで侍中傅嘉が哀帝に、息夫躬と孫寵が東平王を告発した本章(本来の上奏文)を定める(改める)ように勧めました。宋弘の名を除いて「董賢が報告した」と書き換えます。
哀帝は東平王を告発した功績によって董賢を封侯するために、まず孫寵、息夫躬と董賢の三人に関内侯の爵位を与えました(実際に告発したのは右師譚を加えて四人ですが、なぜかここでは右師譚が外されています。右師譚は遅れて関内侯になります)
 
漢書哀帝紀』では「三月、侍中駙馬都尉董賢、光禄大夫息夫躬、南陽太守孫寵を、東平王を告発した功績によって列侯に封じた」としていますが、『漢書外戚恩沢侯表』によると三人が列侯に封じられるのは八月なので、恐らくここは「関内侯」の誤りです。『資治通鑑』は『外戚恩沢侯表』に従っています。
 
資治通鑑』に戻ります。
暫くして哀帝が董賢等を封侯しようとしましたが、心中で王嘉を憚りました。
そこでまず孔郷侯傅晏に詔書を持たせて丞相と御史に示しました。
これに対して、丞相王嘉と御史大夫賈延は封事(密封した上書)を提出して哀帝にこう言いました「臣が見るに(竊見)、董賢等三人が始めて爵を下賜された時、衆庶(民衆)が匈匈(喧噪の様子)とし、皆が『董賢の貴(貴寵)によってその他(孫寵、息夫躬)も併せて恩を蒙った』と言いました。今に至るまで流言はまだ解けていません。陛下の董賢等に対する仁恩が止まないのなら(董賢等にこれ以上の恩恵を与えるのなら)、董賢等の本奏語言(奏本の内容、原文)を公開してから公卿、大夫、博士、議郎に延問(意見を求めること)し、古今を考合(総合的な考察)してその義(封侯の道理)を明正(公明正大)にし、その後に爵土を加えるべきです。そうでなければ恐らく衆心を大いに失い、海内が首を伸ばして(口出しして)議論するでしょう(引領而議)。この事を公けに評議すれば、必ず封侯するべきだと言う者が現れ、陛下はそれに従っただけということになります(在陛下所従)。たとえ天下が喜ばなくても、咎を分担する者がおり、陛下だけに(咎が)あるのではありません。以前、定陵侯淳于長が初封された時もこのような事が議論され(成帝永始二年15年)、大司農谷永が淳于長は封侯されるべきだと主張したため、衆人は咎を谷永に帰し、先帝が単独で譏られることはありませんでした。臣嘉、臣延は才が劣るので職責を全うできず、死んでも譴責されるべきであり、陛下の意思に従って逆らわなければ、暫くは身を保てると知っていますが、敢えてそうしないのは、厚恩に報いることを思っているからです。」
哀帝はやむなく一時取りやめとしました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代296 哀帝(十一) 董賢の封侯 前3年(2)