西漢時代296 哀帝(十一) 董賢の封侯 前3年(2)
「男子」は恐らく庶民の未成年の男です。嫡長子を指すのかもしれません。
秋八月、恭皇園の北門で火災がありました。
辛卯(十九日)、哀帝が詔を下して公卿を厳しく譴責しました「昔、楚に子玉得臣がいたため、晋文公は安心して坐っていられなかった(側席而坐)。最近では汲黯が淮南(劉安)の謀を挫折させた(武帝元狩元年・前122年参照)。これらと較べて、今回、東平王・雲等が天子を弑して逆乱するという謀を図るようになったのは、公卿股肱の中に、心を尽くし、聡明(広く声を聞くこと)に務めることで、萌芽していない事を銷厭(抑制、消滅)できる者がいないからである。しかし宗廟の霊のおかげで侍中・駙馬都尉・董賢等が覚って報告したので、全てその辜(罪)に伏した。『書(尚書・盤庚上)』はこう言っているではないか『徳を用いてその善を表彰する(用徳章厥善)。』よって董賢を高安侯に、南陽太守・孫寵を方陽侯に、左曹、光禄大夫・息夫躬を宜陵侯に封じ、右師譚に関内侯の爵を下賜する。」
息夫躬は哀帝の傍で親しく仕えるようになったため、しばしば謁見して意見を述べました。息夫躬の議論には憚ることがなく、上書して公卿大臣をことごとく批難していきました。
群臣はその口を懼れて正視できなくなりました(見之仄目)。
執金吾・毋将隆(毋将が姓です)が上奏して言いました「武庫の兵器は天下公用の物です。国家の武備は繕治造作(修復・製造)において全て大司農の銭を度(用度。費用)としています。大司農の銭は乗輿(皇帝の車)に対しても共養(供給)できません。労賜(臣下を労うための賞賜)に共養(供給)するものは、一律して少府から出されます。これは本臧(国家の根本に使うために蓄えた財)を末用(重要ではない費用)に使わず、民力を浮費(必要のない出費)に提供せず、公私を別けて正路を示すためです。
古では諸侯、方伯(各州の統治者)が征伐を専らにできたら(他の諸侯を征伐する権利を得たら)、初めて斧鉞が下賜されました。漢家でも辺吏が寇を防ぐ職任(任務)を受けた時に、武庫の兵器が下賜されました。全て事を任されてからこれを蒙ったのです(任務を与えられてから兵器を下賜されたのです)。『春秋』の誼(義)においては、家に甲冑を所蔵しないものです(家不臧甲)。これは臣威を抑えて私力を損なうためです。今、董賢等は便僻(阿諛迎合)の弄臣(玩臣)、私恩の微妾(賎妾。王阿舍を指します)に過ぎないのに、天下公用の物をその私門に与え、国の威器を欠けさせて彼等の家の備えとして供給しています。民力が弄臣のために分散され(浪費され)、武兵(武器)が微妾のために設けられるのは(置かれるのは)、非宜(非義。道理がないこと)を建立して驕僭(驕慢越権)を拡大させるので、四方に示すことではありません。孔子は『なぜ三家の堂が得られたのだ(奚取於三家之堂)』と言いました(『論語』の言葉です。『雍』という天子の祭祀で用いる歌を魯の三桓(叔孫氏、仲孫氏、季孫氏)が自分の堂で使ったため、孔子が批難して「なぜ三家の堂で『雍』が使われているのだ」と言いました)。臣は回収して武庫に返すことを請います。」
哀帝は不快になりました。
暫くして、傅太后が謁者を派遣し、執金吾の官婢八人を安く買いました。
毋将隆が上奏しました「買い値が低すぎます(買賎)。平直(平均的な価格)に改めることを請います。」
すると哀帝は丞相と御史に制詔(皇帝の命令)を下してこう言いました「毋将隆は位が九卿にあるのに、朝廷の不逮(及ばないこと。不足していること)を匡す(正す)ことなく、逆に上奏して永信宮(傅太后)と貴賎の賈(価格の高低)を争うことを請うた。教化を傷つけて風俗を頽廃させている(傷化失俗)。しかし毋将隆は以前、安国の言があったので、沛郡都尉に左遷することにする。」
成帝の末年、毋将隆は諫大夫になり、封事(密封した上書)を提出したことがありました。内容はこうです「古においては、諸侯を選び、(朝廷に)入れて公卿にすることで、功徳を褒め称えました(『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代初期の衛武公や鄭武公、荘公等を指します)。定陶王(劉欣。哀帝)を召して国邸に住ませ、万方を鎮めるべきです。」
この事があったため、哀帝は毋将隆を重く罰しませんでした。
哀帝が董賢や外戚を優遇しているため、諫大夫・渤海の人・鮑宣(『資治通鑑』胡三省注によると、鮑氏は夏禹の後裔で、鮑に封じられたため鮑を氏にしました。斉に鮑氏がおり、代々上卿になりました)が上書しました。
上書の内容は別の場所で書きます。
西漢時代 鮑宣の上書
次回に続きます。