西漢時代296 哀帝(十一) 董賢の封侯 前3年(2)

今回は西漢哀帝建平四年の続きです。
 
[] 『漢書哀帝紀』からです。
夏五月、中二千石から六百石の官員および天下の男子に爵位を与えました(賜中二千石至六百石及天下男子爵)
「男子」は恐らく庶民の未成年の男です。嫡長子を指すのかもしれません。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、帝太太后(傅太后の尊号を皇太太后に改めました。
 
[] 『漢書哀帝紀』からです。
秋八月、恭皇園の北門で火災がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
辛卯(十九日)哀帝が詔を下して公卿を厳しく譴責しました「昔、楚に子玉得臣がいたため、晋文公は安心して坐っていられなかった(側席而坐)。最近では汲黯が淮南(劉安)の謀を挫折させた武帝元狩元年122年参照)。これらと較べて、今回、東平王雲等が天子を弑して逆乱するという謀を図るようになったのは、公卿股肱の中に、心を尽くし、聡明(広く声を聞くこと)に務めることで、萌芽していない事を銷厭(抑制、消滅)できる者がいないからである。しかし宗廟の霊のおかげで侍中駙馬都尉董賢等が覚って報告したので、全てその辜(罪)に伏した。『書尚書盤庚上)』はこう言っているではないか『徳を用いてその善を表彰する(用徳章厥善)。』よって董賢を高安侯に、南陽太守孫寵を方陽侯に、左曹、光禄大夫息夫躬を宜陵侯に封じ、右師譚に関内侯の爵を下賜する。」
 
哀帝は傅太后の同母弟である鄭惲の子・侍中・鄭業も陽信侯に封じました。
漢書哀帝紀』は鄭業の封侯を二月に書いていますが、『漢書外戚恩沢侯表』では八月辛卯です。『資治通鑑』は『外戚恩沢侯表』に従っています。
漢書外戚伝下(巻九十七下)』によると、傅太后の父は河内温県の人です。父が早くに死んだため、母は魏郡の鄭翁と再婚しました。鄭翁との間にできたのが鄭惲です。
 
息夫躬は哀帝の傍で親しく仕えるようになったため、しばしば謁見して意見を述べました。息夫躬の議論には憚ることがなく、上書して公卿大臣をことごとく批難していきました。
群臣はその口を懼れて正視できなくなりました(見之仄目)
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
哀帝が中黄門(『資治通鑑』胡三省注によると、中黄門は比百石で、禁中に仕えて諸事を担当しました)を使って武庫の兵器を放出し、十回にわたって董賢と哀帝の乳母王阿舍に贈りました。
執金吾毋将隆(毋将が姓です)が上奏して言いました「武庫の兵器は天下公用の物です。国家の武備は繕治造作(修復製造)において全て大司農の銭を度(用度。費用)としています。大司農の銭は乗輿(皇帝の車)に対しても共養(供給)できません。労賜(臣下を労うための賞賜)に共養(供給)するものは、一律して少府から出されます。これは本臧(国家の根本に使うために蓄えた財)を末用(重要ではない費用)に使わず、民力を浮費(必要のない出費)に提供せず、公私を別けて正路を示すためです。
古では諸侯、方伯(各州の統治者)が征伐を専らにできたら(他の諸侯を征伐する権利を得たら)、初めて斧鉞が下賜されました。漢家でも辺吏が寇を防ぐ職任(任務)を受けた時に、武庫の兵器が下賜されました。全て事を任されてからこれを蒙ったのです(任務を与えられてから兵器を下賜されたのです)。『春秋』の誼(義)においては、家に甲冑を所蔵しないものです(家不臧甲)。これは臣威を抑えて私力を損なうためです。今、董賢等は便僻(阿諛迎合)の弄臣(玩臣)、私恩の微妾(賎妾。王阿舍を指します)に過ぎないのに、天下公用の物をその私門に与え、国の威器を欠けさせて彼等の家の備えとして供給しています。民力が弄臣のために分散され(浪費され)、武兵(武器)が微妾のために設けられるのは(置かれるのは)、非宜(非義。道理がないこと)を建立して驕僭(驕慢越権)を拡大させるので、四方に示すことではありません。孔子は『なぜ三家の堂が得られたのだ(奚取於三家之堂)』と言いました(『論語』の言葉です。『雍』という天子の祭祀で用いる歌を魯の三桓(叔孫氏、仲孫氏、季孫氏)が自分の堂で使ったため、孔子が批難して「なぜ三家の堂で『雍』が使われているのだ」と言いました)。臣は回収して武庫に返すことを請います。」
哀帝は不快になりました。
 
暫くして、傅太后が謁者を派遣し、執金吾の官婢八人を安く買いました。
毋将隆が上奏しました「買い値が低すぎます(買賎)。平直(平均的な価格)に改めることを請います。」
すると哀帝は丞相と御史に制詔(皇帝の命令)を下してこう言いました「毋将隆は位が九卿にあるのに、朝廷の不逮(及ばないこと。不足していること)を匡す(正す)ことなく、逆に上奏して永信宮(傅太后と貴賎の賈(価格の高低)を争うことを請うた。教化を傷つけて風俗を頽廃させている(傷化失俗)。しかし毋将隆は以前、安国の言があったので、沛郡都尉に左遷することにする。」
成帝の末年、毋将隆は諫大夫になり、封事(密封した上書)を提出したことがありました。内容はこうです「古においては、諸侯を選び、(朝廷に)入れて公卿にすることで、功徳を褒め称えました(『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代初期の衛武公や鄭武公、荘公等を指します)。定陶王(劉欣。哀帝を召して国邸に住ませ、万方を鎮めるべきです。」
この事があったため、哀帝は毋将隆を重く罰しませんでした。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
哀帝が董賢や外戚を優遇しているため、諫大夫渤海の人鮑宣(『資治通鑑』胡三省注によると、鮑氏は夏禹の後裔で、鮑に封じられたため鮑を氏にしました。斉に鮑氏がおり、代々上卿になりました)が上書しました。
上書の内容は別の場所で書きます。

西漢時代 鮑宣の上書

 
鮑宣の言葉は刻切(苛酷厳切)でしたが、哀帝は鮑宣が名儒だったため寛大な態度で優遇しました。
 
[十三] 『漢書哀帝紀』からです。
冬、哀帝が将軍や中二千石に詔を下し、兵法に明るく大慮(大計。遠謀)がある者を推挙させました。
 
 
 
次回に続きます。