西漢時代297 哀帝(十二) 匈奴の入朝 前3年(3)

今回で西漢哀帝建平四年が終わります。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
匈奴烏珠留単于が上書して建平五年(翌年)に朝見することを請いました。
当時、哀帝が病を患っていたため、ある者がこう言いました「匈奴は上游黄河上流。または高地)から来て人を圧します(原文「厭人」。「厭」は「圧する」「勝つ」「制御する」という意味です)黄龍、竟寧の時から、単于が中国に朝見したら、いつも大故(大喪。皇帝の崩御がありました。」
これは呼韓邪単于が入朝した後に宣帝と元帝が死んだことを指しています(宣帝黄龍元年49年および元帝竟寧元年33年参照)
哀帝匈奴の請いを難問と考え、公卿に意見を求めました。
公卿もいたずらに府帑(倉庫。府は物を蓄える場所、帑は金帛をしまう場所です)の浪費を招くことになるので、とりあえず同意しなくても問題ないと判断しました。
 
単于の使者が別れを告げました。
しかし使者がまだ長安を発つ前に、黄門郎揚雄が上書して諫めました。匈奴との関係を悪化させてはならないと説きます。
上書は長いので、別の場所で書きます。

西漢時代 揚雄の上書


上書が提出されると、哀帝は誤りを悟り、匈奴の使者を呼び戻しました。
単于への答書を書き改めて、入朝を許可します。
揚雄には帛五十匹、黄金十斤を下賜しました。
 
しかし単于が出発する前に病を患ったため、再び使者を送って朝見を一年延期することを請いました。
哀帝はこれに同意しました。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
董賢の貴幸が日に日に盛んになったため、丁氏と傅氏がその寵を嫉妬しました。
また、孔郷侯傅晏と息夫躬が輔政の地位を得るために策謀を練っていました。
ちょうど匈奴単于が病のため入朝しなくなったため、息夫躬が上奏しました「単于は十一月に入塞するはずでしたが、後に病を理由に来なくなりました。他変(変心)の疑いがあります。烏孫の両昆彌が弱いのに対して卑爰疐は強盛で、東の単于と結び、子を送って入侍させました哀帝建平二年5年参照。この時は匈奴が卑爰疐の子を帰国させましたが、その後にも卑爰疐の子が入侍したのかもしれません)。恐らく勢を合わせて烏孫を併合するつもりです。烏孫を併合したら、匈奴が強盛になって西域が危うくなります。胡人に卑爰疐の使者を偽らせて上書に来させ、天子の威によって単于に臣(卑爰疐)の侍子を帰らせるように告げることを求め(偽の卑爰疐の使者を準備して漢に上書させます。その内容は、「漢から匈奴に圧力をかけて、匈奴にいる卑爰疐の侍子を帰国させるように要求してほしい」というものです)、それを利用してその章(偽の上書)を下し(群臣に討議させて)匈奴の客(使者。漢国内にいる匈奴人)に聞かせるべきです。これがいわゆる『最上の兵法とは敵の謀略を撃つことであり、その次は敵の交流を断絶させることである(「上兵伐謀其次伐交」。漢が卑爰疐と結んでいるという情報を流し、匈奴がそれを信じたら、匈奴と卑爰疐の連合を解消させることができます)』というものです。」
 
上書が提出されると、哀帝は息夫躬を引見し、公卿、将軍を招いて大議しました。
左将軍公孫禄が言いました「中国は常に威信によって夷狄を懐伏(懐柔帰服)してきました。しかし息夫躬は逆詐(相手に欺瞞詐術があると疑うこと。ここでは相手に詐術がないのに先に詐術を仕掛けることです)を欲し、不信の謀(信義がない謀)を進めています。許可してはなりません。そもそも匈奴は先帝の徳のおかげで辺塞を保って藩を称してきました。今回は単于が疾病によって朝賀を奉じることができなくなったので、使者を派遣して自ら陳述しました。臣子の礼を失ってはいません。臣禄はこの身が没するまで(臣が死ぬまでの間)匈奴が辺竟(辺境)の憂にはならないことを保証します。」
息夫躬が公孫禄を批判して言いました「臣は国家のために計ったので、これから発生することに対して先に謀り、形になっていないことに対してあらかじめ図ることを望み、万世のために考慮したのです。しかし公孫禄は犬馬の歯(臣下の年。歯は年齢を表します)によって目で見えることを保証しようとしました。臣と公孫禄は議(意見)を異らせており、同日に語ることはできません。」
哀帝は「善し」と言って群臣を解散させ、単独で息夫躬と協議しました。
 
息夫躬が建言しました「災異がしばしば現れているので、必ず非常の変が発生するのではないかと恐れています。大将軍を派遣して辺兵を巡行させ、武備を整え、威を立てるために一人の郡守を斬り、四夷を震わせ、そうすることで変異に応じて圧するべきです(厭応変異)。」
哀帝は納得して丞相王嘉に問いました。
王嘉が答えました「臣が聞くに、民を動かすのは言ではなく行いであり(動民以行不以言)、天に応じるのは文ではなく実(実質。真実)である(応天以実不以文)といいます。下民(民衆)は微細(微小。卑賎)ですが騙すことができません。上天神明ならなおさら欺けないでしょう。天が異変を示しているのは、人君を敕戒(訓戒。警告)するためであり、覚悟(覚醒)反正(過ちを正すこと)することを欲しているからです。誠意を推して善を行えば、民心が喜び、天意を得られます(天が満足します)。辯士は一端を見ただけで、あるいは妄りに自分の意を星暦に傅著(符合)させ、匈奴、西羌の難を虚造し、干戈を動かすことを謀り、権変臨機応変。その場しのぎの策)を設けていますが、天に応じる道ではありません。守相に罪があったら、(守相自ら)車を馳せて闕を訪ね、腕を交えて(腕を後ろに縛って)死に就くものであり(交臂就死)、このように(守相は自分が罪を犯すことに対して)恐懼しています。しかし談説の者は安(安全)を動かして危(危険)に向かわせようと欲しており(守相が罪を犯さないように恐懼しているのに、罪のない郡守を斬るように進言しました。必要のない動揺を招こうとしています)、辯口(辯士の話)は耳に快いものですが、その実は従うべきではありません。政治を議す者は、その(阿諛)、傾険(邪悪陰険)、辯恵(弁舌に長けていること。詭弁)、深刻(苛酷。惨酷)を苦とするものです(嫌うものです)。昔、秦繆公は百里奚と蹇叔の言に従わなかったため、その師()を大敗させました。そこで過ちを悔いて自責し、詿誤の臣(過ちに導いた臣)を憎み、黄発(老人)の言を思い、名を後世に伝えました(名垂於後世)。陛下が古戒を観覧し、反覆して参考とし、先に入った語を主としない(先に聞いた息夫躬の意見に左右されない)ことを願います。」
哀帝はこの意見を聞き入れませんでした。
 
 
 
次回に続きます。