西漢時代298 哀帝(十三) 日食 前2年(1)

今回は西漢哀帝元寿元年です。六回に分けます。
 
西漢哀帝元寿元年
己未 前2
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月辛丑朔、哀帝が将軍や中二千石の官員に詔を発し、兵法に精通している者をそれぞれ一人推挙させました。
その結果、孔郷侯傅晏(傅皇后の父)が大司馬衛将軍に、陽安侯丁明哀帝の母太后の兄弟。元は大司馬衛将軍です)が大司馬票騎(驃騎)将軍になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、前年、息夫躬が匈奴に備えるように進言したため、大司馬衛将軍と大司馬驃騎将軍が置かれることになりました。
 
[] 『漢書哀帝紀』と資治通鑑』からです。
この日(正月辛丑朔)、日食がありました。
前漢孝哀皇帝紀(巻第二十九)』は「元寿元年春正月『辛卯』に日蝕があった」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「荀悦の『前漢紀』は誤り」と解説しています。
 
平帝が詔を発しました「朕は宗廟を保つことになったが、不明不敏なので、宿夜(夜を通して)憂労し、寧息(休息)する暇もない。陰陽が調和せず、元元(民衆)が不贍(不足)していることを思うが、その咎をまだ見ていない(過失の原因が分からない。原文「未覩厥咎」)。しばしば公卿を訓戒し、望みがある事を願うが(庶幾有望)、今に至るまで有司の執法はまだその中を得ていない(中正適切ではない)。ある者は暴虐を上とし(暴虐を優れた手段とみなし)、威勢を借りて名を獲ており、温良寬柔は亡滅に陥れられている。そのため、残賊(残虐)がますます増長し(彌長)、和睦が日に日に衰え、百姓は愁怨し、その身を置く場所もない。その結果、正月朔に日蝕が起きた。その咎は遠くなく、余一人にある。よって、公卿大夫はそれぞれ心を尽くして百寮(百官)の統帥に勉め、仁人を敦任(厚く信任すること)し、残賊を黜遠(排斥して遠ざけること)し、民の安定に符合させよ(期於安民)。朕の過失を述べて憚ることがあってはならない。将軍、列侯、中二千石と共に賢良方正で直言できる者を各一人挙げよ。天下に大赦する。」
こうして賢才が推挙され、大赦が行われました。
また、群臣が政事の過失を諫めました。
 
まず、丞相王嘉が封事(密封した上書)を提出しました「孝元皇帝は大業を奉承し、温恭(温和恭敬)少欲だったので、都内の銭が四十万万(億)もありました(「都内」は京師の財を管理する官だと思います。『漢書公卿百官表上』によると、大司農の下に都内令と丞がいました。)。かつて上林に行幸した時、後宮の馮貴人が従って獣圈に臨んでおり、猛獣が驚いて出てくると、貴人は前に出て立ちふさがりました元帝建昭元年38年)元帝はその義を嘉みして銭五万を下賜しました(『漢書何武王嘉師丹伝(巻八十六)』で顔師古が「これはその義を嘉みしたものの、賞は多くなかったことを物語っている」と解説しています)。掖庭後宮で親(近親の者)に会い、賞賜を加えた時は、その人に言い聞かせて衆人の前では謝意を表さないようにさせました(賞賜を得たことを公開させませんでした。原文「属其人勿衆謝」)。公平を示して偏りを憎み(示平悪偏)、人心を失うことを重視し、賞賜を節約しました。当時は外戚で貲(財産)が千万に達する者が少なかったので、少府、水衡で見る銭(蓄積された金銭)が多くなったのです(『資治通鑑』胡三省注によると、少府は禁銭(宮中の金銭)を管理しました。水衡都尉には鍾官辨銅令と丞がおり、貨幣を鋳造しました)。初元、永光の凶年饑饉に遭遇し、西羌の変が加わり、外は師旅を奉じ(軍の需要を満たし)、内は貧民を振いましたが(救済しましたが)、最後まで傾危の憂がありませんでした。これは府臧(倉庫)内が充実していたからです。
孝成皇帝の時は、諫臣が燕出(微行)の害および女寵の専愛や酒色への耽溺が徳を損なって寿命を傷つけていること(損徳傷年)について多く語り、その言は甚だ激烈でしたが(甚切)、最後まで怨怒しませんでした。寵臣に淳于長、張放、史育がいましたが、史育は何回も貶退(降格罷免)され、家貲(家財)は千万を充たしませんでした。張放は斥逐(放逐)されて国に就き、淳于長は獄で榜死(拷問で死ぬこと)しました。私愛によって公義を害すことがなかったので、たとえ内譏後宮を愛したという批難)が多くても、朝廷は安平であり、業を陛下に伝えられたのです。
陛下が国にいた時は、『詩』『書』を好み、倹節を貴びました。招かれて(京師に)来た時は、通過する道上で徳美が称誦されました。これは天下が回心したからです(「回心」は心を入れ変えるという意味です。ここでは心を一新して新帝の政治に期待したことを表します)。即位したばかりの時は、帷帳を換えて錦繡を除き、乗輿(皇帝の車)の席縁(座席の縁。または座席の敷物の意味かもしれません)に綈繒(粗くて厚い絹)を使っただけでした。しばしば共皇(哀帝の父)の寝廟を造るべきだということになりましたが、元元(民衆)を憂閔し(憂い憐れみ)、用度(費用)の不足を思ったので、義によって恩を割き大義のために父の恩を棄て)、毎回ひとまず中止して、最近になってやっと建設が始まりました。
ところが駙馬都尉董賢も上林の中に官寺(官署)を建て、しかも董賢のために大第(大邸宅)を建設し、北闕に向かって門を開き、王渠(『漢書何武王嘉師丹伝』の注を見ると、蘇林は「王渠とは官渠である」としており、晋灼は「渠名である。城東覆盎門外にあった」と解説しています。顔師古は「晋灼の説が正しい」と判断しています)を引いて園池に水を注ぎ、(陛下の)使者が護作(建設の監督)し、吏卒に賞賜を与え、宗廟の建築よりも甚だしくなっています。董賢の母が病になった時は、長安(朝廷の厨官)が祠具(祭祀の道具)を提供し、道中を通る者は皆、飲食がありました(『漢書何武王嘉師丹伝』の注は「道中で祈祷を行ったので、道を行く人が皆、飲食を得られた」と書いています。原文「道中過者皆飲食」)。董賢のために器物を造り、器物が完成したら奏御(皇帝に報告すること)してからやっと使われ(皇帝が確認して合格したら董賢に与えられました)、好い物があったら特別にその工(匠)に賞賜を与えています。宗廟、三宮への貢献でさえも(宗廟、三宮に献上する器物でさえも。「三宮」について、『漢書何武王嘉師丹伝』の顔師古注は「天子、太后、皇后」としており、原父注は「当時は太皇太后が長信宮と称し、傅太后が永信宮と称し、丁姫が中安宮と称していたので、三宮という」と書いています。『資治通鑑』胡三省注は「この時は丁姫が既に死んでいたので、三宮は長信、永信および趙太后宮を指すはずだ」と解説しています)、まだここには至っていません。董賢の家に賓婚(賓客を招いたり婚礼を上げること)や見親(親戚が会いに来ること)があったら、諸官が並んで(礼物を)提供し、賜(賞賜)は倉頭(僕人。奴隷)奴婢にも及んで一人当たり十万銭にも達しています。使者が護視(監視、監督)して市の物を発取(一方から取って他方に供給すること)しており(原文「使者護視、発取市物」。恐らく朝廷の使者が市場を監督しており、董賢が物を欲したら手に入るようにしているという意味です)、百賈(多数の商人)が震動(震撼)して道路(道中の人々)が讙譁(喧噪)し、群臣が惶惑(恐慌困惑)しています。(陛下は)詔書によって苑を廃しましたが、董賢に二千余頃を下賜しました。均田の制はここから墮壊しています(『資治通鑑』胡三省注によると、公卿以下、吏民に至るまで、均田という名目で所有する頃数が決められていました)。奢僭放縦(奢侈僭越放縦)が陰陽を変乱させ、災異が多数発生し、百姓が訛言(噂。虚言)を流し、籌を持って互いに驚恐し哀帝建平四年3年)、天がその意を惑わして、(彼等は)自ら止めることができませんでした。陛下は元々仁智があって事に対して慎重だったのに、今はこのような大譏(大きな批難)を招いています。
孔子はこう言いました『危険なのに援けず、倒れているのに抱えて支えないようなら、なぜ彼を用いて相にしたのだ(原文「危而不持,顛而不扶,則将安用彼相矣」。『論語』の言葉です)。』臣嘉は幸いにも位を備えることができ(丞相の位に居ることができ)、心中で愚忠の信を通せないこと(愚臣の忠誠を伝えられないこと)を悲傷しています。たとえ身が死んでも国にとって益があるのなら、自分を惜しむわけにはいきません。陛下が自身の独郷(独向。偏愛。寵愛)に対して慎重になり、衆人が共に疑っているものを察することを願います。以前、鄧通(文帝時代)や韓嫣武帝時代)は驕貴(驕慢顕貴)が度を失い、逸豫(安楽)を厭うことがありませんでしたが(満足しませんでしたが)、小人は情欲に勝てないので、最後は罪辜に陥り、国を乱して軀(体)を亡ぼし、その禄(俸禄。財産)を全うできませんでした。いわゆる『これを愛すのは、まさにこれを害するに足りる(愛之適足以害之)』というものです。前世を深覧し(深く観察し)、董賢への寵を節制することで、その命を全安保全させるべきです。」
この上書があったため、哀帝は王嘉に対してしだいに不満を抱くようになりました。
 
 
 
次回に続きます。