西漢時代299 哀帝(十四) 孔光の復起 前2年(2)

今回は西漢哀帝元寿元年の続きです。
 
[(続き)] 元涼州刺史杜鄴が方正として哀帝に答えました「臣が聞くに、陽尊陰卑(陽が尊くて陰が卑しいこと)とは天の道です。だから男はたとえ賎しくても(身分が低くても)、それぞれがその家の陽となり、女はたとえ貴くても(身分が髙くても)、やはりその国の陰となります。よって、礼は三従の義(婦人は家にいる時は父に従い、嫁いだら夫に従い、夫が死んだら子に従うという道理)を明らかにし、たとえ文母西周文王の母)の徳があっても、必ず子に繋がりました(女は西周文王の母のように徳があっても、必ず子に従うことになりました)。昔、鄭伯が姜氏の欲を放任したため、ついに叔段による簒国の禍がありました。周襄王は内で恵后の難に迫られ、(亡命して)鄭に住むという危難に遭いました。漢が興きてからは、呂太后が権力を私有して親属に与え(権私親属)社稷を危うくするところでした。臣が見るに(竊見)陛下は約倹(倹約)して身を正し、天下と更始(一新。新たに開始すること)することを欲していますが、嘉瑞はまだ応じず、逆に日食と地震がありました。『春秋』が記載している災異を根拠にするなら、指象(天意を反映した現象)によって言語となしているのです(天は言語を発することができないので、日食や地震で意志を示しているのです)
日食は陽が陰に臨まれている(侵されている)ことを明らかにしています。坤八卦のひとつ)は地に法っており、土となり母となり、安静を徳とします。よって震は不陰の效です(地とは安静なものなので、地震は陰の常道が乱れたことを意味しています。「不陰の效」は「陰が乱れた結果、効果」という意味です)。占象(占による兆し、象徴)が甚だ明らかなので、臣はこの事を直言しないわけにはいきません。昔、曽子が従令の義(父の命令に従うという道理)について問うと、孔子は『何を言うのだ(是何言與)』と答えました(『孝経』に記述があります。曽子が孔子に「父の令に従うのは孝といえますか」と問うと、孔子は「父に誤りがある時は父と争わなければならない。子が父と争わなかったら、父を不義に陥らせることになる」と答えました)孔子は)閔子騫が礼を守り、親に従うことにこだわらない態度を善としました。閔子騫は)行為に非理(非礼。道理に合わないこと)がなかったから、批判されなかったのです(『論語』に記述があります。孔子は「閔子騫は孝である。人がその父母兄弟の言を否定することがない(孝哉閔子騫,人不間於其父母兄弟之言)」と言いました。閔子騫は孝を行っていたため、父母兄弟にも称賛され、それを聞いた他の人も皆納得しました)
今、諸外家の昆弟(兄弟)は賢も不肖も関係なくそろって帷幄(皇帝)に侍っており、列位に分布して、ある者は兵衛を掌握し、ある者は軍屯を指揮しています。寵意(寵愛の心)が一家に集中し、その積貴の勢(尊貴を重ねる勢い)はこの世において稀にしか見られず、稀にしか聞かないほどです。しかも大司馬と将軍の官を並置するに至りました。たとえ皇甫(周の卿士)が盛んになり、三桓(魯の三氏)が興隆して魯がこのために三軍を作ったといっても、ここまで甚だしくはありませんでした(無以甚此)
拝命の日(傅晏が大司馬衛将軍に、丁明が大司馬票騎(驃騎)将軍に任命された日)に晻然(暗黒、昏暗)として日食がありました。前でも後ろでもなく(不在前後)、事に臨んで発生したのは(ちょうど拝命の日に日食が起きたのは)、陛下が謙遜して専断がないこと(陛下に実権がないこと)を明らかにしたのです。(陛下は)承指(傅太后の意見に従うこと)することが一度ではなく、(傅太后が)言うことはいつも聴き、欲することはいつも自由にさせているため、罪悪がある者が辜罰(刑罰)に坐さず、功能がない者が全て官爵を得ており、このような事がしだいに積み重なって増加しています(流漸積猥)。過ちはここにあります。(臣は)これを明らかにして、聖朝を覚醒させることを欲します(または「天はこれを明らかにして聖朝を覚醒させることを欲しているのです。」原文「欲令昭昭以覺聖朝。」主語がないので理解が困難です)
昔の詩人が批判し、『春秋』が譏ったことも、指象がこのようであり、恐らく他にはありません(今回の天譴は、昔の詩人や『春秋』が批難した時と同じです。前人の過ちを繰り返しています)。後生の人が前に起きた事を視たら、忿邑(憤怒憂慮)してそれを非とします(前人の過失を批難します)。しかし自分の行動に及んだ時、自ら鏡にして見ることがなく、問題ないと判断したら、計(計策。判断)の過ち(誤り)となります。陛下が更に精誠を到らせ、始初(即位当初)を思って継続し(思承始初)、事においては諸古を考察し、このようにして下心(下の者の心)を満たすことを願います。そうすれば黎庶群生(民衆)で悦喜しない者はなく、上帝百神が威怒を收還します。どうして禎祥(吉祥)福禄の報いがないことを心配する必要があるでしょう。」
 
哀帝は更に孔光を召して公車に赴かせ、日食の事を問いました。孔光は傅太后の意思に逆らったため、哀帝建平二年(前5年)に庶人に落とされていました。
資治通鑑』は孔光の上書を紹介していませんが、孔光が復起することになる上書なので、『漢書匡張孔馬伝(巻八十一)』から引用します。
孔光はこう言いました「臣が聞くに、日(太陽)とは衆陽(陽性の万物)の宗(本源)であり、人君の表(代表。象徴)であり、至尊の象(象徴)であるといいます。君徳が衰微して陰道が盛強になり、陽明を侵して隠したら、日蝕がこれに応じます。『書(『尚書洪範』)』にはこうあります『五事(貌思)を進めて用いる(羞用五事)』『皇極(最大中正な法則)を建てて用いる(建用皇極)』。もしも貌(態度)、思を失ったら(五事に誤りがあったら)、大中の道が立たず、その結果、咎徵(天譴)が相次いで訪れ、六極(六種類の災難。『尚書洪範』に記述があります。夭折、疾病、憂愁、貧困、醜悪、虚弱を指します)が頻繁に降ることになります。皇(広大)であっても不極(中正ではないこと。適切ではないこと)だったら、そのために大中が立たなくなります。伝にはこうあります『その時は日月が乱行する』。これは朓(日月の運行が速いこと)、側匿(日月の運行が遅いこと)や、甚だしければ薄蝕(日食)が起きることを言っているのです。またこうとも言います『六沴(六種類の悪気)(日食)を作る(六沴之作)』。
歳の朝は三朝といい、その応(反応)が至重(最大)になります(「朝」には「始め」の意味があります。一年の朝(始め)は月の始めであり日の始めでもあるので、三朝といいます)。今回、正月辛丑朔(元旦)日蝕があり、変異が三朝の会に現れました。上天は聡明なので、事がなければ変異が虚しく生まれることもありません。『書(『尚書高宗肜日』が元になっています)』にはこうあります『先代の道に至った王は必ずこの事を正した(顔師古注を参考にしました。原文「惟先假王正厥事」)。』これは、異変が来るのは、事に不正(適切ではないこと)があるのが原因だと言っているのです。臣は師がこう言うのを聞きました『天が王を輔佐しているから、災異をしばしば出現させて、それによって(王を)譴告し、改更(改変)することを欲しているのである。』もしも畏懼することなく、(天の忠告を)塞いで除き、(天を)軽視して欺こうとしたら(軽忽簡誣)、凶罰が加えられ、間違いなくそれ(凶罰。災異)が訪れます。『詩(『周頌敬之』)』にはこうあります『敬え、敬え。天の綱紀は明らかだ。命を変えることはできない(敬之敬之,天惟顕思,命不易哉)。』また、こうあります(『周頌我将』)『天の威を畏れれば、これを保つことができる(畏天之威,于時保之)。』どちらも(天を)懼れない者は凶、懼れれば吉になると言っています。
陛下は聖徳聡明で、兢兢業業(戦戦兢兢)として天戒を承順し(受け入れて従い)、変異を敬畏し、辛苦して虚心になり(勤心虚己)、群臣を延見(引見)し、その(異変の)原因を思い求め、その後、身を正して自制し(敕躬自約)、万事を総正(総合して正すこと)し、讒説の党を遠くに放ち、断断の介(「断断」は「専一」の意味で、ここでは忠臣を指します)を招き入れ、貪残(貪婪残暴)の徒を退けて去らせ、賢良の吏を進めて用い、刑罰を公平にし、賦斂を薄くし、恩沢を百姓に加えています。これは誠に政の大本(根本)であり、変異に応じる至務(急務)なので、天下の幸甚です。『書(『尚書高宗肜日』)』にはこうあります『天が命を降したらその徳を正す(天既付命正厥徳)。』これは徳を正すことで天に順じると言っているのです。またこうあります『天は誠意のある辞を助ける(天棐諶辞)。』これは誠道があれば天がこれを輔佐すると言っているのです。天道の承順を明らかにするのは、徳を崇めて広く(恩沢を)施しをすることにかかっており、精を加えて誠を到らせ、怠らないだけのことです(孳孳而已)。世俗の祈禳(祈祷)小数(術数。方術)は、結局、天に応じて変異を塞ぎ、禍を消して福を興すことにおいて益がなく、これは明らかなことであって全く疑いがありません(較然甚明無可疑惑)。」
 
このように王嘉と杜鄴は哀帝の董賢や外戚に対する寵愛を諫めましたが、孔光は具体的な内容に触れませんでした。
 
上書が提出されると、孔光は光禄大夫に任命されました。秩は中二千石です(本来、光禄大夫の秩は比二千石です)。また、給事中も兼ねて位は丞相に次ぐ地位とされました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代300 哀帝(十五) 鮑宣の上書 前2年(3)