西漢時代303 哀帝(十八) 寵臣董賢 前2年(6)
丞相・孔光が四時(四季)の園陵巡行を行いました。この時、丞相の官属が馳道の中央に車を走らせました(本来は皇帝が通る場所です。『漢書』の注によると、馳道の中央三丈は皇帝以外の者が通ってはならないことになっていました)。
この一件は御史中丞に処置が命じられました。
やがて侍御史が司隷の官署に行って鮑宣の従事(官名)を捕えようとしましたが、鮑宣は門を閉じて中に入れようとしませんでした。
その結果、「鮑宣は門を閉じて使者を拒絶し、人臣の礼がない。大不敬不道の罪である」と見なされて、廷尉の獄に下されました。
諸生で集まった者は千余人に及びます。
朝会の日、諸生が丞相・孔光を遮って「丞相の車が通れなくなった」と言い(入朝を妨害し)、同時に門闕を守って上書しました。
鮑宣は刑を受けてから上党に移りました(労役等の刑は科されなかったようです。刑具も外していると思います)。その地が田牧に向いており、豪俊も少ないので、容易に長雄(長帥雄豪。地方の有力な豪族)になれると考えたからです。
長子(上党の県)に鮑宣の家が建てられました。
大司馬・丁明は以前から王嘉を尊重していたため、その死を憐れみました。
孝元廟殿門につけられた銅亀蛇の鋪首(銅製の亀や蛇で装飾された門の把手)が音を立てて鳴りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、成帝が王国の太傅を「傅」に改名しました。ここで「太傅」といっているのは、古い名称が習慣になっていたからです。韋賞は韋賢の孫、韋弘の子です(韋賢は宣帝時代の丞相です。韋弘に関しては宣帝元康四年・前62年参照)。
十二月庚子(初六日)、侍中・駙馬都尉・董賢を大司馬・衛将軍に任命しました。
『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「審食其が丞相として禁中に侍ったのは、呂后が嬖(寵愛)したからだ。董賢が三公として禁中に侍ったのは、哀帝が嬖したからだ。論道経邦(道を論じて国を経営する)の任(重任。重責)はどこにあるのだ。」
董賢の父である衛尉・董恭は卿(九卿。中二千石)の位(三公の下)に居るのが相応しくないとして、光禄大夫(皇帝の近臣)に遷されました。秩は中二千石です(『漢書・公卿百官表上』によると、光禄大夫は本来、比二千石で、中二千石の下になります)。
董賢の弟・董寬信が董賢に代わって駙馬都尉になりました。
董氏の親属は全て侍中、諸曹となり、奉朝請(春と秋に朝見すること。高官の特権です)が命じられ、寵貴が丁氏や傅氏の上になりました。
今回、董賢が大司馬に任命され、孔光と同じ三公になりました。
遠くに董賢の車が見えてから退いて門内に入ります。
董賢が中門に至ると孔光は閤(部屋)に入り、董賢が車を下りてから孔光は外に出ました(恐らく孔光が出迎えたら董賢が車から降りることになるので、董賢が車で屋敷の中に入るまで待ち、車を降りるのを確認してから部屋を出たのだと思います)。
孔光の拝謁、送迎の礼は甚だしく慎重で、対等な賓客に対する礼は用いませんでした。
哀帝は孔光が董賢に対してへりくだった態度をとったと聞いて喜びました。
孔光の二人の兄の子を諫大夫・常侍(諫大夫が正官で、常侍は加官です)に任命します。
『資治通鑑』胡三省注は「孔光には三兄がおり、孔福、孔捷、孔喜といった。二人の兄が誰を指すのかは分からない」と解説しています。
この後、董賢の権勢は人主に並ぶほどになりました。
王閎の妻の父は中郎将・蕭咸で、かつての前将軍・蕭望之の子です。
董賢の父・董恭は蕭咸を慕っていたため、子の董寬信のために蕭咸の娘を迎え入れて婦人にしようと欲しました。王閎を送って蕭咸に伝えさせます。
しかし蕭咸は恐れ多いことだと考えて恐惶し、秘かに王閎にこう言いました「董公が大司馬になった時、册文が『中正の道を採れ(允執其中)』と言いました。これは堯が舜に禅譲した時の文です(『論語』に記述があります)。三公の故事(前例)ではありません(今まで三公を任命した時には、この言は使われませんでした)。これを見た長老で、心中で恐懼しなかった者はいません。どうして家人(庶人)の子が堪えられるでしょう(庶人の子が婚姻関係を結ぶのは荷が重すぎます)。」
王閎はもともと知略があるため、蕭咸の言を聞いて悟りました(恐らく董氏と関係を深くすると禍が訪れることを悟ったのだと思います)。帰って董恭に報告し、蕭咸の謙薄(謙遜して自分を卑賎とみなすこと)の意を神妙に伝えます。
董恭は嘆息して「我が家は何をもって天下に背いており、このように畏れられるのだろうか(我が家の何が天下に背いているのだろうか。なぜ我が家がこれほどまで恐れられなければならないのか。原文「我家何用負天下而為人所畏如是」)」と言い、不快になりました。
董賢の父子や親属が宴飲し、侍中や中常侍が全て傍に侍っています。
すると王閎が進み出て言いました「天下は高皇帝の天下であり、陛下が有しているのではありません。陛下は宗廟を継承したので、無窮に子孫へ伝えるべきです。統業(帝業)とは至重(重大)なことです。天子に戯言はありません。」
哀帝は何も言わず不快になりました。左右の者が皆恐懼します。
荀悦の『前漢紀・孝哀皇帝紀(巻第二十九)』に「(哀帝は)王閎を出して郎署に帰らせた」とあり、『資治通鑑』は『前漢紀』に従っています。『資治通鑑』胡三省注によると、郎署に帰らせたというのは、禁中で皇帝に仕えられなくなったことを意味します。
本文に戻ります。
哀帝は再び王閎を招いて傍に置きます。
すると王閎がまた上書して諫めました(上述しましたが、この上書の内容は『漢書』には記述がありません。『資治通鑑』は『前漢紀』から引用しています)「臣が聞くに、王者は三公を立てて三光(日・月・星)に法り、そこに居る者は賢人を得なければならないといいます。『易』には『鼎の足が折れたら公餗(鼎の中の御馳走)が覆る(鼎折足,覆公餗)』とあります。これは三公がその人ではないこと(相応しくない人を三公にした状況)を比喩しているのです。昔、孝文皇帝が鄧通を寵幸しましたが、中大夫に過ぎませんでした。武帝は韓嫣を寵幸しましたが、賞賜を与えただけです。どちらも大位にはいませんでした。しかし今、大司馬・衛将軍・董賢は漢朝において功がなく、肺腑の連(親族の関係)もなく、また名迹高行(名声功績や高尚な品行)によって矯世(世を正すこと)することもないのに、数年で昇擢(昇格)し、鼎足に列して備わり(三公に任命され)、禁中を護衛する兵を掌握し(典衛禁兵)、功がないのに封爵され、父子兄弟も過分な抜擢を蒙り(横蒙抜擢)、賞賜によって帑藏(倉庫)を空竭(空虚)にし、万民が諠譁(喧噪)して道路で偶言(議論。批判)しています。誠に天の心に符合していません。昔、褒の神蚖(とかげ)が変化して人になりましたが、実は褒姒を生んで周国を乱しました(西周時代、神が蚖に化けて王府に入り、王府の童妾が蚖に遭遇して妊娠しました。童妾が生んだのが褒姒で、西周の滅亡を招きました)。陛下に過失の譏(過失に対する批難)があり、董賢に小人が進退を知らない禍(進退を知らないために招く禍)があることを恐れます。後生に前例として伝えることではありません(非所以垂法後世也)。」
哀帝は王閎の言に従いませんでしたが、若くて志が強い姿を称賛して、罪とすることもありませんでした。
次回に続きます。