西漢時代304 哀帝(十九) 董賢失脚 前1年(1)

今回は西漢哀帝元寿二年です。三回に分けます。
 
西漢哀帝元寿二年
庚申 前1
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、匈奴烏珠留単于烏孫大昆彌伊秩靡がそろって来朝しました匈奴は二年前に入朝を約束していました)
漢はこれを栄誉とします。
当時、西域には五十国があり(『資治通鑑』胡三省注によると、西域は三十六国でしたが、分かれて五十余国になりました)、訳長(通訳の官)から将王に及ぶまで全て漢の印綬を佩していました。その数は三百七十六人になります。
但し、康居、大月氏、安息、罽賓、烏弋(『資治通鑑』胡三省注によると、烏弋山離国は長安から一万二千二百里離れており、西域都護に属しませんでした。東は罽賓、西は犂や條支と接しています)といった国は絶遠していたため、この数には入りません。これらの国が貢献に来ても、漢は相当する報酬を与えましたが、西域都護の支配下に入れず、統治しませんでした(不督録総領也)
 
黄龍年間(宣帝の年号)以来、単于が入朝する度に賞賜として錦繡や繒絮(絹綿)を与え、いつも前回より数量を増やして慰撫の接待をしました。
今回、単于が宴見(皇帝が暇な時に謁見すること)した時、群臣が哀帝の前にいました。
単于は年少の董賢を見て怪しみ、訳(通訳)に問いました。哀帝は訳から単于にこう説明させます「大司馬は年少だが、大賢によってその位に居るのだ。」
単于は立ちあがって拝礼し、漢が賢臣を得たことを祝賀しました。
 
かつて呼韓邪単于が二度入朝した直後に成帝と元帝が死にました。哀帝は内心、単于の入朝を不吉なことだと思っています。
この年、哀帝単于を太歳厭勝(「厭勝」は呪術の一種です)の場所に当たる上林苑蒲陶宮に住ませました。
太歳は架空の星で、吉凶に影響を及ぼすとされていました。『資治通鑑』胡三省注は「この年、太歳は申にいた」と書いています。「申」は西南の方角です。
「蒲陶」は「葡萄」です。『資治通鑑』胡三省注によると、本来は大宛が産地ですが、武帝が大宛を討伐して葡萄の種を採り、離宮に植えたため、これを離宮の名にしました。
この年の太歳は申(西南)にいたので、蒲陶宮は皇宮の西南に位置していたと思われます。
 
哀帝はこれを隠して単于(蒲陶宮に住ませるのは)敬意を加えるためだと伝えました。
二月、匈奴単于烏孫大昆彌が帰国しました。単于は後に真相を知って不快になりました哀帝単于を不吉な方位に住ませて凶事を圧しようとしましたが、結局本年六月に死にます)
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月壬辰晦(中華書局『白話資治通鑑』は「壬辰晦」を恐らく誤りとしています)、日食がありました。
 
[] 『漢書哀帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月甲子(初二日)、三公の官を正して分職しました。
 
成帝綏和元年(前8年)御史大夫を大司空に改め、大司馬と共に丞相と同格にして三公の官にしました。
しかし哀帝建平二年(前5年)、大司空を廃して御史大夫に戻し、大司馬も元の官位に戻しました。
今回、改めて三公の官を定めました。大司馬は軍事を、大司空は治水土木を担当します。丞相は大司徒に改められました。民事を担当します。
 
大司馬衛将軍董賢が大司馬(今までの大司馬は将軍職の加官でしたが、今回、三公として専官になったので、将軍職が除かれました)に、丞相孔光が大司徒に、御史大夫彭宣が大司空になりました。彭宣は長平侯に封じられます。
 
また、司直、司隷の職を正して司寇の職を作ることになりましたが、これは完成できませんでした。
漢書哀帝紀』顔師古注によると、司直と司隷は既に存在する官で、職権を改正しました。司寇の官は漢代にはなかったので、新たに置くことになりました。
 
[] 『漢書哀帝紀』『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月戊午(二十六日)哀帝が未央宮で死にました。
 
漢書哀帝紀』の注を見ると、臣瓚は「哀帝は二十歳で即位して在位年数は六年、寿(享年)は二十五歳だった」と書いており、顔師古は「(二十歳で即位して)即位の翌年に改元し、(在位年数六年なので)寿は二十六歳だった」としています。
漢書哀帝紀』によると、哀帝は三歳(数え歳です)で父定陶王劉康を継ぎました。成帝陽朔二年(前23年)の事です。
そこから逆算すると、哀帝が生まれたのは成帝河平四年(前25年)になります。また、成帝元延四年(前9年)には劉欣哀帝が十七歳で元服したという記述もありました。
よって、成帝が死んで哀帝が跡を継いだ綏和二年7年)は十九歳で、翌年改元した年が二十歳です(顔師古の解釈では即位した年が二十歳、改元した年が二十一歳になるので誤りです)。在位年数は六年、享年は二十五歳になります。
 
漢書哀帝紀』から哀帝の評価を紹介します。
「孝哀皇帝は藩王の立場から太子の宮を充たすことになった。文才があって博学聡明で(文辞博敏)、幼い頃から令聞(善名。名声)があった。
孝成の時代に世禄世襲の俸禄)が王室(王氏)に去り、権柄が外に移るのを哀帝は)自ら目撃したため、朝廷に臨んだら(即位したら)しばしば大臣を誅殺し、主威(皇帝の権威)を強くすることで武帝や宣帝に倣おうと欲した。元々の性格が声色(音楽女色)を好まず、時折、卞射(「卞」は素手で闘うこと。「射」は射術)武戲角力。格闘技)を観覧した。
即位した時、痿痺(『漢書』の注によると、「両脚を動かせなくなる病が痿」です。また、「痿は痺病である」とも書かれています。恐らく「痿痺」は脚が麻痺して動かなくなる病です)を患い、末年にはしだいにひどくなって、饗国(享国)が永くなかった。哀しいことである(哀哉)。」
 
資治通鑑』は『漢書』の評価を引用してこう書いています。
「孝成の時代に世禄が王室に去るのを、哀帝は自ら目撃したため、即位に及んだらしばしば大臣を誅殺し(胡三省注によると朱博、王嘉等を指します)、主威を強くすることで武帝や宣帝に倣おうと欲した。
しかし讒諂(胡三省注によると、趙昌、董賢、息夫躬等を指します)を寵信し、忠直(胡三省注によると、師丹、傅喜、鄭崇等を指します)を憎疾(憎んで嫌うこと)した。漢業はここから衰退したのである。」
 
[] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
太皇太后(王政君)哀帝崩御を聞くと、即日、車で未央宮に入り、皇帝の璽綬を回収しました。
太后が大司馬董賢を召し、東箱(東廂)で引見して喪事の調度(準備。手配)について問いました。
董賢は内心憂慮して答えられず、冠を脱いで謝罪します。
太后が言いました「新都侯(王莽)はかつて大司馬として先帝(成帝)の大行(皇帝の棺)を奉送したので(成帝の葬事は王莽が主催しました)、故事(前例)に曉習(習熟)しています。私は莽に君を輔佐させましょう。」
董賢は頓首して「幸甚です」と言いました。
太后は使者を駆けさせて王莽を招くと、尚書に詔を下し、全ての出兵に関する符節および百官の奏事、中黄門や期門の兵(『資治通鑑』胡三省注によると、中黄門は禁門黄闥(黄闥も禁門も同じ意味で、宮門を指します)を守り、期門の兵は殿門を守衛します)を王莽に属させました。
王莽は王太后の意を受けて、尚書に董賢を弾劾させました。哀帝が病を患ったのに自ら医薬の世話をしなかったという内容です。
また、董賢が宮殿司馬中に入ることを禁止しました(司馬中は宮殿の外門の中、または宮殿の内門という意味ですが、『資治通鑑』胡三省注は「宮殿司馬中」を「宮殿屯衛司馬中」と解説しています。宮門に駐留する司馬(軍官)の中です。その場合は大司馬として兵権を握る董賢から禁衛兵の指揮権を奪ったことになります。但し、王莽は既に兵の指揮権を掌握しているので、「董賢が宮門に入ることを禁止した」という意味ではないかと思います)
董賢はどうすればいいのか分からず、宮闕に赴いて冠を脱ぎ、裸足で謝罪しました。
 
己未(二十七日)、王莽が謁者を派遣し、王太后の詔によって闕下で董賢に册書を下しました「董賢は年少で事理(諸事。または事の道理)を経験していないのに、大司馬になった。衆心に合わないので、大司馬の印綬を回収し、罷免して家に帰らせる(罷帰第)。」
この日、董賢と妻が自殺しました。
董賢の家中が恐慌し、死体は夜になって埋葬されます。
しかし王莽は董賢の死が偽りではないかと疑いました。
有司(官員)が董賢の棺を掘り起こすように求めたため、棺を獄に運んで診視(確認。検視)し、(董賢に間違いないと確認してから)獄中に埋めました。
 
太皇太后が詔を発しました「公卿は大司馬に相応しい者を挙げなさい。」
王莽は以前、大司馬を勤めていましたが、位を辞して丁氏と傅氏を避けました。
王莽は衆庶(民衆。衆人)から賢才として称えられており、太皇太后とも関係が近くて親しかったため、大司徒孔光以下、百官が朝廷を挙げて王莽を推挙しました。
 
しかし前将軍何武と左将軍公孫禄だけは二人で相談してこう考えました「往時の恵帝と昭帝の世では、外戚の呂氏、霍氏、上官氏が権勢を持ち、社稷を危めるところだった。今、孝成と孝哀の世は続けて嗣(後嗣)がいなかったから、親近(皇帝と親しい者)を選立して幼主を輔佐するべき時だ(ここは『漢書何武王嘉師丹伝(巻八十六)』を元にしました。原文は「方当選立親近輔幼主」です。『資治通鑑』では「方当選立近親幼主」と書かれており、「近親の幼主を選んで立てるべき時だ」という意味になりますが、『漢書』から引用した際、「輔」の字が抜けたと思われます)外戚の大臣に権勢を持たせるべきではない。親疏(「親」は皇族や外戚、「疎」は異姓の臣です)が交錯することが、国計の便(利)となる。」
何武は公孫禄を大司馬に推挙し、公孫禄も何武を推挙しました。
 
庚申(二十八日)太皇太后は自ら王莽を用いて大司馬に任命し、尚書の政務を兼任させました(領尚書事)
 
太皇太后と王莽が哀帝の後嗣について討議しました。
安陽侯王舜は王莽の従弟で(王舜は王音の子で、王音の父は王弘です。王弘と王太后および王莽の関係ははっきりしません。成帝陽朔元年24年参照)、身を修めて行動を正していたため(其人修飭)太皇太后に信愛されていました。
王莽は王太后に進言して王舜を車騎将軍にしました。
 
秋七月、王太后と王莽は車騎将軍・王舜と大鴻臚左咸に持節を持たせて派遣し、中山王劉箕子を迎え入れて後嗣に立てました。
劉箕子は中山孝王劉興の子で、劉興は成帝の弟です。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代305 哀帝(二十) 王莽台頭 前1年(2)