西漢時代305 哀帝(二十) 王莽台頭 前1年(2)

今回は西漢哀帝元寿二年の続きです。
 
[] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
七月辛卯、王莽がまた王太后に進言し、王太后から有司(官員)に詔を下させました。
太后(趙飛燕)がかつて妹の趙昭儀と共に成帝の寵愛を独占し、他の妃嬪が侍寝する道を塞いだこと(専寵錮寝)および継嗣(後継者)を残滅(滅亡。壊滅)させたことを理由に、皇太后から孝成皇后に落として北宮に遷らせました。
また、定陶共王太后(傅太后。既に死んでいます)と孔郷侯傅晏(傅皇后の父)が同心になって共謀し、恩に背いて本を忘れ、専横して道から外れた(専恣不軌)という理由で、孝哀皇后(傅氏)桂宮に退けました。
漢書・平帝紀』顔師古注によると、北宮と桂宮長安城内にありますが、未央宮の中ではありません。
 
傅氏と丁氏の者は全て官爵を免じられて故郡(故郷の郡)に帰ることになりました。『資治通鑑』胡三省注によると、傅氏は河内の人、丁氏は山陽の人です。
孔郷侯・傅晏は妻子を率いて合浦に遷りました。
 
太后は、傅喜だけには褒揚する詔を下してこう言いました「高武侯喜は姿性(品行。性格)が端(端正実直)論議が忠直であり、故定陶太后と属(親族の関係)がありながら、最後まで指(傅太后の意思)に順じず邪に従わず、介然(堅持する様子)として節を守り、そのために放逐されて封国に就くことになりました(斥逐就国)。『伝(『論語』の言葉です)』はこう言っているではありませんか『冬を越えて始めて松柏の葉が落ちにくいことを知る(苦難を越えて始めて人の価値が分かる。小人と君子の違いが分かる。原文「歳寒然後知松柏之後凋也」)。』よって傅喜を長安に帰らせ、位を特進とし、朝請(春と秋の朝見)を奉じさせることにします(奉朝請)。」
傅喜は褒賞を受けましたが、孤立して憂懼しました。
後にまた封国に送り帰されて一生を終えます。
 
王莽は更に傅太后の号を落として定陶共王母とし、丁太后哀帝の実母)の号を落として丁姫にしました。
王莽は董賢父子の驕恣奢僭(驕慢放縦奢侈越権)も上奏し、財物を没収して県官(朝廷)に入れ、董賢のおかげで官に就いた者は全て罷免するように請いました。
董賢の父に当たる少府・董恭と弟の董寬信は家属と共に合浦に遷り、母は別れて故郷の鉅鹿に帰りました。
長安中の小民(庶民)が讙譁(喧噪)し、董賢の屋敷に向かって(表面上は)哀哭しながら(実は)窃盗略奪をしようとしました。
県官が董氏の財を売り出したところ、四十三万万(四十三億)になりました。
 
董賢が厚く遇していた官吏で沛の人朱詡という者が自分を弾劾して大司馬府を去り、棺や死者に着せる衣服を買って董賢の死体を収め、改めて埋葬しました(原文「買棺衣收賢屍葬之。」簡単に改葬できるとは思えないので、あるいは「改葬しようとした」だけかもしれません)
それを聞いた王莽は他の罪を探して朱詡を撃殺しました。
漢書佞幸伝(巻九十三)』によると、朱詡の子朱浮は東漢光武帝の時代に顕貴になり、官位が大司馬司空に及んで封侯されます。
 
大司徒孔光は名儒として名が知られており、三主(成帝、哀帝、平帝)の相を勤め、王太后に敬重され、天下に信頼されていました。そこで王莽はますます孔光を尊重して仕え、孔光の女壻(娘婿)甄邯を招いて侍中奉車都尉に任命しました。
甄邯は甄が姓氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、帝舜が河浜で陶器を作ったため(原文「舜陶甄河浜」。「陶甄」は「陶器を作る」という意味です)、その(舜の)子孫が甄を氏にしました。
 
王莽は以前から気に入らない者に対して全て理由を探して罪に落としました(傅致其罪)。処罰の指示を請う奏草(上奏の草稿)を準備し、甄邯から孔光に渡させ、処罰は王太后の意思だと称して孔光が動くように促します。
孔光は元々畏慎(肝が小さくて慎重なこと)だったため、処罰を請う上奏文を王太后に上げないわけにはいきません(王莽が草稿を書き、孔光の名で上奏されます)
孔光が上奏文を提出してから、王莽が改めて王太后に進言し、上奏文は常に可決されました。
 
王莽は何武と公孫禄を弾劾する上奏をしました。互いに称賛して推挙しあったからです(私利のために徒党を組んでいると見なされました)
二人とも官を免じられ、何武は封国に帰りました。
 
王莽がまた上奏しました。董宏を佞邪とみなして弾劾します(董宏は傅太后を帝太后に立てるように主張しました。成帝綏和二年7年参照)。董宏は既に死んでいたため、子の高昌侯董武が父の罪に坐して爵位を奪われました。
 
王莽が更に上奏しました「南郡太守毋将隆は以前、冀州牧として中山太后の獄を裁き、罪がない者を冤罪に陥れました。関内侯張由は骨肉(馮太后を誣告し、中太僕史立と泰山太守丁玄は人を陥れて大辟(死刑)に到らせました(以上、馮太后事件です。哀帝建平元年6年参照)。河内太守趙昌は鄭崇を讒言して害しました哀帝建平四年3年参照)。幸いにも赦令に逢いましたが、皆、中土(中原)で位に居るべきではありません。」
毋将隆等は官を免じて庶人に落とされ、合浦に遷されました(合浦は現在の広西壮族自治区にあります)
中山の獄(馮太后事件)は本来、史立と丁玄が審判を主宰し、毋将隆は連名で上書しただけでした。
王莽は若い頃から毋将隆を慕って交流したいと思っていましたが、毋将隆が王莽に近付かなかったため、今回、理由をつけて排斥しました。
 
紅陽侯王立は高位にいませんでしたが、王太后の弟なので、王莽は諸父(伯父叔父)として内心で敬憚(敬意をはらって憚ること)しており、王立が自由に王太后に進言して、王莽が自分の意思をほしいままにできなくなることを恐れました。
そこで王莽はまた孔光から王立の罪悪を上奏させました「以前、定陵侯淳于長が大逆罪を犯したと知りながら、彼のために弁護して朝廷を誤らせました(成帝綏和元年8年参照)。後には官婢楊寄の私子(私生児)を皇子として報告したため、衆人が『呂氏と少帝がまた現れた(呂太后は他人の子を恵帝の子と偽って即位させ、自分が執政して権力を握りました)』と言い、紛紛として天下に疑われました。これでは来世(後生)に示して(後生の模範にして)襁褓の功(幼主を輔佐する功績)を成すのが困難なので、王立を派遣して国に就かせることを請います。」
太后は上奏文を却下しました。
しかし王莽がこう言いました「今、漢家は衰えており、連続して世に後嗣がいません(比世無嗣)太后が独りで幼主に代わって統政するのは、誠に畏懼すべきことです。尽力して公正を用い、天下に先んじたとしても(天下の見本になったとしても)、恐らくまだ従わない者がいます。今、私恩によって大臣の議を退けましたが、このようにしたら群下が邪に傾き、乱がここから起きることになるでしょう。とりあえず送り出して国に就かせ(遣就国)、安定してから再び徵召するべきです。」
太后はやむなく王立を封国に帰らせました。
王莽が上下の者を脅迫して動かす様子はいつもこのようでした。
 
こうして王莽に附順する者は抜擢され、逆らう者は誅滅されていきました。
王舜と王邑は王莽の腹心になり、甄豊と甄邯は撃断(中華書局『白話資治通鑑』は「撃断」を「弾劾及び司法刑獄」と訳しています。但し、「撃断」は本来「決断」という意味です)を主管し(主撃断)、平晏(『資治通鑑』胡三省注によると、平晏は平当の子です。平当は哀帝時代の丞相です)は中枢を統領し(領機事)、劉秀(劉歆)は文章を担当し(典文章)、孫建は爪牙(将軍。軍事の重臣になりました。
甄豊の子甄尋、劉秀の子劉棻、涿郡の崔発(『資治通鑑』胡三省注によると、斉丁公の子が崔を食邑にしたため、子孫が崔を氏にしました)南陽の陳崇は皆、材能(才能)によって王莽に気に入られました。
 
王莽は外に対しては厳格な態度を見せており、発言が方正実直でした。
王莽に何か欲する事があると、王莽がわずかにそのそぶりを見せただけで、党与の者が意図に沿って公然と上奏しました。しかし王莽は知らないふりをして稽首涕泣し、固く辞退します。
このようにして上は王太后を惑わし、下は衆庶に誠信を示しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代306 哀帝(二十一) 平定即位 前1年(3)