西漢時代306 哀帝(二十一) 平定即位 前1年(3)

今回で西漢哀帝元寿二年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
八月、王莽が再び太皇太后(王政君)に進言し、孝成皇后(趙飛燕)と孝哀皇后(傅氏)を廃して庶人に落としました。それぞれの園(成帝と哀帝の寝廟園)に就かせます。
この日、二人とも自殺しました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、胡旦の『漢春秋』は「八月甲寅」としているようですが、「胡旦が何を根拠にしたのかはわからない」と注釈しています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
王莽が専権しているため、大司空彭宣が上書しました「三公は鼎の足のように君(国君)を承っており、一足が任せられなかったら、美実(鼎の中の美食)が覆乱してしまいます。臣は資性(性格。品行)が浅薄なうえ、年老いて耄碌しているので(年歯老眊)、しばしば疾病のため伏せており、昏乱遺忘(昏迷して物忘れがひどいこと)しています。大司空長平侯の印綬を返上し、引退して(乞骸骨)郷里に帰り、そこで死を待つ(原文「竢溝壑」。「竢」は「待」と同じです。「溝壑」は「溝を埋める」で、「墓に入る」という意味です)ことを願います。」
王莽は王太后に報告してから策書を下し、彭宣を罷免して封国に帰らせました。
しかし王莽は彭宣が引退を求めたことを怨んだため、黄金安車駟馬を下賜しませんでした。
彭宣は封国に住んで数年で死にました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
戊午(二十七日)、右将軍王崇を大司空に、光禄勳東海の人馬宮を右将軍に、左曹中郎将(中郎将が本官で、左曹は加官です)甄豊を光禄勳に任命しました。
漢書匡張孔馬伝(巻八十一)』によると、馬宮は元々「馬矢」という氏で馬矢宮といいましたが、仕学(仕官することと学問すること。または就学すること)してから馬氏を称しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
九月辛酉(初一日)、中山王劉箕子が皇帝の位に即きました。これを平帝といいます。
平帝が高廟を拝謁し、天下に大赦しました。
 
平帝はわずか九歳だったため、太皇太后が朝廷に臨み、大司馬王莽が政権を掌握しました。百官はそれぞれ自分の職務を主管し、王莽の判断を仰ぐことになりました(百官総己以聴於莽)
資治通鑑』胡三省注によると、古の天子の喪中では、百官がそれぞれの職を行って冢宰の裁決を聴きました。王莽はこの制度を引用して政権を掌握しました。
 
[十一] 『漢書帝紀』からです。
平帝(実際は王太后と王莽)が詔を発しました「赦令というものは、これから天下と更始するためにあり、誠に百姓に改行絜己(行いを改めて身を清めること)させて、その性命を全うすることを欲するのである。今までは有司(官員)が赦前大赦以前)の事を多数挙げて上奏し、罪過を累増させ、亡辜(無罪)を陥れて誅殺していた。これでは信を重んじて刑を慎重にし、洒心して(心を洗って)自新する意に逆らうことになる。選挙においても、職を歴任して経験が豊富で、名声がある士だとしても(歴職更事有名之士)(過去に過ちがあったら自分の身を)保つのが難しく、廃して推挙することがない。これは『小さい過ちを赦して賢才を挙げる(「赦小過挙賢材」。『論語』の言葉です)』という義から甚だかけ離れている(甚謬)。臧(貪汚の罪)がある者及び内に悪(過失)があってもまだ告発されていない者が推挙されたら、全て案験(調査追及)しないことにする。士に厲精郷進(精神を振って向上すること。「郷」は「向」と同義です)させ、小疵(小さい欠点)によって大材を妨げてはならない。今後、有司は赦前の事を並べ、その奏文を立てて報告してはならない。詔書に従わず恩を損なう者がいたら、不道の罪で論じる(裁く)。著令(成文化した法令)を定めて天下に布告し、明らかに知らしめよ。」
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
王莽の権勢が日に日に盛んになったため、憂懼した孔光はどう対処するべきか分からず、上書して引退を乞いました(乞骸骨)
王莽は王太后に報告し、帝が幼少なので師傅を置くべきだと進言しました。孔光は大司徒から帝太傅に遷され、位は四輔になります。給事中に任命されて(宮内に勤めます)宿衛供養(皇帝の養育。生活物資の供給)を兼任しました(給事中領宿衛供養)。内署の門戸を巡行し(原文「行内署門戸」。宿営の職務です)、服御(衣服や器物)食物を監督します(原文「省服御食物」。供養の職務です)
四輔というのは、名称には諸説ありますが、西漢時代は通常「太師」「太傅」「太保」「少傅」の総称とされています。皇帝を直接補佐する職で、三公の上に置かれました。『資治通鑑』胡三省注によると、元は虞(舜)周の官で、「師丞」の四官を四輔と呼びました。
王莽は復古を目標としており、今後、周代の官制を回復していきます。
 
孔光の代わりに右将軍馬宮を大司徒に任命し、甄豊を右将軍にしました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
冬十月壬寅(十二日)、孝哀皇帝を義陵に埋葬しました。
 
漢書哀帝紀』は「秋九月壬寅、義陵に埋葬した」としていますが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、「長暦」ではこの月は辛酉朔なので壬寅の日がなく、次の壬寅は十月十二日になります。また、『漢書』の注(臣瓚)は「崩御から埋葬まで百五日」と書いています。哀帝が死んだのは六月戊午(二十六日)なので、やはり埋葬は十月になります。よって『漢書哀帝紀』の誤りです。
また、『漢書哀帝紀』臣瓚注によると、義陵は扶風にあり、長安から四十六里離れていました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代307 平帝(一) 安漢公 1年(1)