西漢時代308 平帝(二) 王莽の政治 1年(2)

今回は西漢平帝元始元年の続きです。
 
[(続き)] 平帝が即位前に招かれて経由した県邑を対象に、二千石以下から佐史に至る官吏に爵を与えました。爵位にはそれぞれ差があります。
 
諸侯王、公、列侯、関内侯で子がいなくても孫や同産(同母兄弟)の子がいる場合は、全て跡を継げることにしました。
公、列侯の嗣子に罪があっても、耐(鬚やもみあげを剃る刑。髠の下の軽刑)以上の刑を行う場合は、まず皇帝に指示を請うことにしました(これは「先請」という皇族貴族を保護するための制度です)
宗室に属していて家系もまだ尽きていないのに、罪に坐して籍を絶たれた者は、宗族の籍を回復しました。
宗室に属す者で官吏になり、廉吏(廉潔な官吏)として佐史になった者には四百石を補填しました(挙廉佐史補四百石)
天下の比二千石以上の官吏で年老致仕(老齢による退職)した者は、元の俸禄の三分を一を終生与えることにしました。
諫大夫を派遣して三輔を巡行させ、吏民の籍(『漢書帝紀』の注によると、賦税の簿籍です)を記録して提出させました。哀帝元寿二年(前年)の倉卒(慌ただしいこと。ここでは哀帝崩御を指します)の時に額外の賦斂を取られた者には(皇帝が突然崩御したので、葬儀や墓陵建設のために臨時で税を徴収したのだと思います)、追加で徴収した額を償いました。
義陵哀帝陵)の民冢(民の墓)で殿中(陵墓の正殿に当たる場所)の妨げにならないものは動かさないことにしました。
 
天下の吏民が什器の蓄えを設けてはならないことにしました。
「什器」は日常生活で用いる様々な器具を指しますが、ここでは従軍や労役で使う器物や炊事の道具のようです。『漢書帝紀』顔師古注が「軍法では五人を伍、二つの伍を什とし、器物を共に使った。そのため、生生の具(生活の道具)を通称して什器という。また、今でも従軍や労役の者は十人で火を為し(炊事をし)、共に調度(道具)を蓄えている」と書いています。
「什器の蓄えを設けてはならない」というのが、民の叛乱を防ぐためなのか、戦争の心配がないことを示すためなのかは分かりません。
 
王莽は広く恩恵を施して人心を集めることに務め、下は庶民鰥寡(配偶者を失った男女)に至るまで、恩沢の政策が行き届かない所はありませんでした。
 
このようにして吏民に媚びて既に歓心を得たので、王莽は権力の専断を欲しました。王太后が老いて政治に倦厭していると知り、公卿に示唆してこう上奏させます「以前、吏は功次(功績の大小)によって二千石まで遷りましたが、州部(刺史)が挙げた茂材異等(異能。非才)の吏は大多数が不称(職務を全うできないこと。能力がないこと)でした。よって、全て安漢公を謁見するべきです(今後は王莽が人材を確認するべきです)。また、太后は春秋が高いので(老齢なので)、自ら小事を省みるべきではありません。」
王莽は王太后に詔を下させました「今後は、封爵の事だけを報告しなさい。他の事は安漢公と四輔が平決(評定裁決)します。州牧、二千石および茂材の吏で初除(始めて任命すること)の奏事(報告)をする者は、全て引入し(王莽が引見し)、近署(皇宮に近い官署)に至って安漢公の質問に答え、(安漢公は)故官(今まで就いていた官職での実績。または前任者の実績)を考察して新職について問い、そうすることで称否を知りなさい(能力があるかどうかを把握しなさい)。」
この後は王莽が新しい官員を招いて全て確認することになりました。恩意を密に到らせて厚く贈送(礼物)を加え、もし王莽の意に合わなかったら公けに上奏して罷免します。
王莽の権力は人主と対等になりました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月、羲和官を置きました。秩二千石です。
 
羲和とはもともと「羲氏」と「和氏」の二氏で、帝堯の時代に日月星辰の動きを観測して暦を作りました。また、羲氏の羲仲、羲叔と和氏の和仲、和叔は四季と四方(東西南北)を管理する四嶽の職に就きました。
今回設けた羲和官も天文や四季の秩序を管理する職だと思います。
資治通鑑』胡三省注によると、王莽が羲和官を置いた時は一つの独立した官でしたが、王莽が政権を簒奪してから、大司農(田租や塩鉄等、経済を担当する官です)が羲和に改められました。
 
また、外史、閭師を設けました。秩は六百石です。
外史は京師以外の史書典籍を管理する官だと思います。閭師は『漢書帝紀』の注釈に「周礼では、閭師は四郊の民を掌握し、時に応じて賦税を徴収した」とあります。
 
朝廷は教化を頒布し、淫祀(正規に認められていない祭祀)を禁じ、鄭声(鄭の音楽。淫蕩な音楽の代表とされました)を排斥しました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
乙未、義陵哀帝陵)(寝。陵園の正殿)で神衣を柙(匱。箱)に入れていましたが、丙申旦(翌朝)、衣服が外に出て寝床の上にありました。
(寝令。陵園の管理者)が急変(緊急の変事)を報告します。
朝廷は太牢(牛豚がそろった犠牲の様式)を用いて祭祀を行いました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏五月丁巳朔、日食がありました。
天下に大赦しました。
 
公卿、将軍、中二千石の官員が敦厚で直言できる者をそれぞれ一人推挙しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代309 平帝(三) 外戚衛氏 1年(3)