西漢時代310 平帝(四) 災害 2年(1)

今回は西漢平帝元始二年です。二回に分けます。
 
西漢平帝元始二年
壬戌 2
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春、黄支国が犀牛を献上しました。
黄支国は南海の中にあり、京師から三万里離れています。『資治通鑑』胡三省注によると、黄支国は日南の更に南にありました。
 
王莽は威徳を顕揚するためにわざと厚い礼物を黄支の王に贈り、黄支王から使者を送って犀牛を貢献させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
郡が「黄龍が江中で遊びました」と報告しました。
太師孔光、大司徒馬宮等がそろって言いました「王莽の功徳は周公に匹敵するので、宗廟に報告して祭祀を行うべきです。」
大司農孫宝が言いました「周公は上聖で召公は大賢でしたが、それでも互いに喜ばないことがありました(不仲でした)。これは経典に著されています。しかし両者は(名声、評価を)損なわれていません。今、風雨が時に順じず(風雨未時)、百姓が不足しているのに、一事がある度に群臣が同声(阿諛追従)しています。その美を非とする者(王莽に対する称賛に反対する者)がいないというのですか西周の太平の世でも周公と召公が対立しましたが、二人の名声は損なわれていません。王莽に反対する者がいてもいいはずです)。」
大臣は皆色を失い、甄邯がすぐに承制(皇帝の命令を受けて行動すること)して議論を中止しました。
 
ちょうどこの時、孫宝は官吏を送って故郷の母を長安に迎え入れようとしていました。『漢書蓋諸葛劉鄭孫毋将何伝(巻七十七)』によると、孫宝は潁川鄢陵の人です。
官吏が母を迎えに行きましたが、母が道中で病を患ったため、孫宝の弟の家に留めて、孫宝の妻子だけを長安に送りました。
司直陳崇が上奏して孫宝を弾劾しました。母を迎え入れず妻子だけを長安に入れたのは不孝とみなしたからです。
この事は三公に下され、すぐに審問が始まりました。
孫宝が答えて言いました「(母は)年が七十になり誖眊(糊塗耄碌)しているのに、恩は共養(供養。母を養うこと)が衰え(母を養う情義が衰え。原文「恩衰共養」)、妻子を営みました(妻子だけを顧みました)。章(上奏文)の通りです。」
孫宝は罪に坐して罷免され、家で生涯を終えました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
平帝が詔を発しました「皇帝(平帝)は二字名で、器物に通じているので、今、更名(改名)して古制に符合させる。太師孔光を派遣し、太牢を奉じて高廟に告祠(報告の祭祀)させる。」
 
平帝は名を「劉箕子」といい、「箕」は脱穀等で日常的に使う道具です。古代は「避諱」という制度があり、帝王の名に使われている字は、庶民が使えなくなりました。そのため、古制においては、帝王の名は民衆の生活に影響を与えない字が選ばれました。
そこで平帝も劉箕子から劉衎に改名しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月癸酉(二十一日)、大司空王崇が病と称して官を辞しました。王莽を避けるためです。
夏四月丁酉(十六日)、左将軍甄豊が大司空に、右将軍孫建が左将軍に、光禄勳甄邯が右将軍になりました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
代孝王の玄孫の子に当たる劉如意を広宗王に、江都易王の孫に当たる盱台侯劉宮を広川王に、広川恵王の曾孫に当たる劉倫を広徳王に立てました。
 
代孝王は劉参といい、文帝の子です。孫の劉義が清河王に改められ、その孫(劉参の玄孫)の劉年が罪に坐して廃されました(宣帝地節四年66年参照)
漢書文三王伝(巻四十七)』によると、今回、広宗王に立てられた劉如意は劉年の弟の子です。代孝王の祭祀を継承しました。
 
江都易王は劉非といい、景帝の子です。劉非の死後、子の劉建が継ぎましたが、謀反が発覚して自殺しました武帝元狩二年121年参照)
今回、広川王に立てられた劉宮は、『漢書諸侯王表』には「易王の庶孫で盱眙侯の子」、『漢書景十三王伝(巻五十三)』には「劉建の弟盱眙侯の子」と書かれています。
漢書王子侯表上』を見ると、江都易王の子に「盱台侯(盱眙侯)劉蒙之」がおり、武帝時代に封侯されて一代で廃されています。
この劉蒙之が劉宮の親に当たるようです。
劉宮は江都易王の祭祀を継承しました。
 
広川恵王は劉越といい景帝の子です。劉海陽(または「劉汝陽」)の代で罪に坐して廃されました(宣帝甘露四年50年参照)
今回、広徳王に立てられた「劉倫」は『漢書帝紀』と『資治通鑑』の記述で、『漢書諸侯王表』では「劉楡」、『漢書景十三王伝』では「劉瘉」です。諡号を静王といいます。
また、『景十三王伝』によると、劉瘉は「広川戴王(劉文。広川恵王劉越の孫)の弟襄隄侯の子」です。『王子侯表上』には「襄隄侯劉聖」の記述があり、劉聖は広川繆王(劉斉。広川恵王劉越の子)の子で、「劉聖の子劉倫が曾祖広川恵王の曾孫として広徳王になった」と書かれています(同じ表でも『諸侯王表』では「劉楡」なのに『王子侯表』では「劉倫」です)
劉倫は広川恵王の祭祀を継承しました。
 
資治通鑑』胡三省注は、「これらは王莽が政事を行い、断絶した家系を継承させることで(恩徳を示して)大衆を惑わそうとした」と解説しています。
 
皇族以外にも功臣の子孫を封侯しました。
旧大司馬博陸侯霍光の従父昆弟(父の兄弟の子)の曾孫霍陽、宣平侯張敖の玄孫張慶忌、絳侯周勃の玄孫周共、舞陽侯樊噲の玄孫の子樊章を列侯にして爵位を回復しました。
また、曲周侯酈商等の後代や玄孫に当たる酈明友等百十三人に関内侯の爵位を与えました(霍陽等、封侯された者と合わせると百十七人になります)。食邑にはそれぞれ差があります。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
各地の郡国で大旱や蝗の害があり、青州で最も被害がありました。民が流亡します。
安漢公王莽が王太后に報告し、繒練(模様がない絹の服)を着て膳(食事)を大きく削り、質素倹約を天下に示すべきだと勧めました。
更に王莽は上書して、銭百万と田三十頃を献上し、それらを大司農に寄附して貧民を救済することを請いました。四輔、三公(『漢書帝紀』の注によると、「王莽が太傅、孔光が太師、王舜が太保、甄豊が少傅で合わせて四輔」「王莽は大司馬を兼任しており、馬宮が大司徒、王崇が大司空で合わせて三公」とあります。但し、王崇は既に大司空を辞しており、この時は甄豊が大司空のはずです)、卿大夫、吏民も皆これに倣います。百姓の困窮を救うために田宅を献上した者は二百三十人に上り、それらは戸口に基いて貧民に与えられました。
朝廷が使者を派遣して蝗を捕まえました。民も蝗を捕まえて官吏を訪ね、石(石と斗。容量の単位)によって金銭を受け取ります。
天下の民で貲(財産)が二万に満たない者および被災した郡で(貲が)十万に満たない者は、租税を出さないことにしました(租税を免除しました)
民で疾疫を患った者は空の邸第(邸宅)に住ませて医薬を施しました。
死者が出た家族に対しては、一家で六尸以上なら葬銭五千、四尸以上なら銭三千、二尸以上なら銭二千を下賜しました。
安定(『漢書帝紀』の注によると、中山国の地名です)の呼池苑を廃して安民県に改め、官寺(官署)や市里(街)を建て、貧民を募って移住させ、県が順番に食糧を与えました(県次給食)。民が移住してからは田宅や什器(器物)を与え、犂(食糧)を貸し出しました。
また、長安城中に五つの里を置きました。民宅二百区(二百カ所)に貧民を住ませます。
 
王莽が群臣を率いて王太后に上奏しました「幸いにも陛下(王太后の徳沢のおかげで、最近は風雨が時に順じ、甘露が降り、神芝が生え、蓂莢、朱草、嘉禾といった休徵(美徴。吉祥)が同時に並んで至りました。陛下(王太后が帝王の常服を遵じ(遵守し)、太官の法膳(正常な食事)を回復することを願います。臣子それぞれが驩心(歓心)を尽くせるようにし(使臣子各得尽驩心)、共養を備えさせてください(王太后を奉じて養わせてください)。」
ところがこの上奏の後、王莽が王太后から上奏を却下する詔を下させました。
太后にとっては質素な生活を続ければ王氏の声望を高めることになります。また、王莽自身も倹約の意思を捨てていないことを王太后に示して歓心を買いました。
 
水害や旱害がある度に、王莽はいつも素食(肉がない料理)をとり、左右の者がそれを王太后に報告しました。
太后は使者を送って詔を下し、こう言いました「公は菜食していると聞いた。民を憂いること深い。今秋は幸いにも豊作なので(今秋幸孰)、公もすぐに肉を食し、国のために身を愛せよ。」
 
 
 
次回に続きます。