西漢時代311 平帝(五) 匈奴との関係 2年(2)
今回は西漢平帝元始二年の続きです。
六月、鉅鹿に二つの隕石が落ちました。
光禄大夫・楚国の人・龔勝と太中大夫・琅邪の人・邴漢が王莽の専政を見て引退を乞いました(乞骸骨)。
王莽は二人に優礼を加えて帰らせました。
梅福は王莽が必ず漢祚(漢の帝位)を簒奪することになると判断し、ある朝、妻子を棄てて去りました。行方が分からなくなります。
秋、勇武で節があり兵法に明るい者を各郡から一人挙げて、公車(官署)に赴かせました。
謁者大司馬掾四十四人を派遣し、符節を持って辺兵(辺境の兵)を巡行させました。
成重等は皆自ら出頭します。
冬、中二千石の官員に治獄が公平な者を毎年一人挙げさせることにしました。
車師後王国に新道があり、五船北を出て玉門関に通じていました。新道を通れば漢との往来が近くなります(往来差近)。
戊己校尉・徐普はこの道を通して半分の道程を省き、白龍堆の険阻な地を避けられるようにしたいと欲しました。
しかし車師後王国にとっては、新道が国を貫いており、西域に向かう漢の使者に宿舎や物資を供給しなければならなくなるため、心中で不便だと思いました。
また、この地は匈奴南将軍の地と大きく接していました。
徐普は境界を分けて明らかにしてから朝廷に上奏し、姑句を召して証明させようとしました。
ところが姑句が同意しなかったため、徐普は姑句を逮捕しました。姑句は漢の官吏に何回も牛羊を賄賂として贈り、釈放を求めましたが、拒否されました。
ちょうどこの時、姑句の家の矛端(矛頭)で火が起きました。姑句の妻・股紫陬が姑句に言いました「矛端が火を生んだのは兵の気です。用兵に利があります。以前、車師前王が都護司馬に殺されました(『資治通鑑』胡三省注によると、これ以前に車師前王が殺されるという事件があったようです。車師前王の治所は交河城で、長安から八千百五十里離れています)。今、久しく繋がれていたら必ず死にます。匈奴に降ったほうがいいでしょう。」
姑句は馬を駆けて高昌壁を突破し、匈奴に入りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、拓拔魏(北魏)の時代、闞爽が高昌に国を建てました。漢の高昌壁が国名になったようです。高昌という名は、地が高敞(高大)で人も物も昌盛(隆盛。興隆)しているという意味です。漢武帝が西討の兵を派遣した時、師旅(軍)で頓弊(困窮疲弊)した者がここに住みました。
この頃、去胡来王・唐兜と赤水羌がしばしば互いに侵犯しました。
唐兜が赤水羌に勝てなかったため、西域都護に急を告げましたが、都護・但欽(但欽が姓名です)はすぐに救援を出そうとしませんでした。
赤水羌は赤水周辺に住む大種(恐らく「大族」の意味)で、婼羌と近接していました。
困窮した唐兜は但欽を怨み、東に向かって玉門関を囲みました(漢に帰順するためです)。しかし玉門関が唐兜を中に入れようとしません。
唐兜は妻子や人民千余人を率いて逃亡し、匈奴に降りました。
単于は二人を受け入れて左谷蠡王の地に置いてから、使者を漢朝廷に派遣して上書し、状況を報告して「臣は謹んで既に受け入れました」と言いました。
漢は詔を発して中郎将・韓隆(『資治通鑑』は「韓隆」、『漢書・西域伝下』では「王昌」です)等を匈奴に派遣し、単于を譴責しました。西域は漢に内属しているので、匈奴が二王を受け入れるべきではないと伝えます。
単于は使者を派遣して漢の使者と姑句、唐兜を送り出し、二人の罪を赦すように請いました。漢の使者がそれを王莾に報告します。
しかし王莽はそれを聴かず、詔によって西域の諸国王を集め、軍列を並べてから姑句と唐兜を斬って見せしめにしました。
この事件があったため、漢は四條の規定を設けました。
使者はかつて宣帝が作った約束を回収し、函に封をして還りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、宣帝と匈奴の約束は「長城以南は漢が有し、長城以北は匈奴が有し、降る者がいても受け入れてはならない」という内容です。王莽は古い約束が明確ではないと考えたため、四條を公布して古い約束を回収しました。
この時、王莽が上奏して中国に二字の名が存在しないようにさせました。
『資治通鑑』胡三省注によると、『春秋公羊伝』が二字名を謗っているため、王莽はそれに倣いました。
『春秋公羊伝』を見ると、『哀公十三年』に晋の「魏曼多」を「魏多」と書いており、その解説に「二名(二字名)を謗った。二名は非礼である(だから「曼多」を「多」にした。原文「譏二名二名非礼也」)」と書かれています。
王莽は使者を送って単于に暗示し、「漢の教化を慕って一字名に改める」という上書をするべきだと諭しました。漢が必ず厚賞を加えることを約束します。
次回に続きます。