西漢時代311 平帝(五) 匈奴との関係 2年(2)

今回は西漢平帝元始二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
六月、鉅鹿に二つの隕石が落ちました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
光禄大夫楚国の人龔勝と太中大夫琅邪の人邴漢が王莽の専政を見て引退を乞いました(乞骸骨)
王莽は王太后から策詔を下させ、こう言いました「朕は官職の事で大夫を煩わせることを憐れむ。大夫は脩身して道を守り、高年を終わらせよ(天寿を全うせよ。原文「以終高年」)。」
王莽は二人に優礼を加えて帰らせました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
梅福は王莽が必ず漢祚(漢の帝位)を簒奪することになると判断し、ある朝、妻子を棄てて去りました。行方が分からなくなります。
その後、ある人が会稽で梅福を見ました。姓名を変えて呉の市の門卒を勤めていました(『資治通鑑』胡三省注によると、会稽郡の治所が呉県です)
 
[] 『漢書帝紀』からです。
秋、勇武で節があり兵法に明るい者を各郡から一人挙げて、公車(官署)に赴かせました。
 
[十一] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月戊申晦、日食があり、天下の徒を赦しました大赦しました)
 
[十二] 『漢書帝紀』からです。
謁者大司馬掾四十四人を派遣し、符節を持って辺兵(辺境の兵)を巡行させました。
 
[十三] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
執金吾候(執金吾の属官)陳茂を派遣し、鉦鼓(将帥の威信を示します)を持って汝南、南陽の勇敢な吏士三百人を募らせ、江湖の賊成重等二百余人を説諭させました。
成重等は皆自ら出頭します。
朝廷は彼等を家がある地(籍がある地)に送り帰して賦役を義務付け(送家在所收事)、成重は雲陽に遷して公田(朝廷が民に与える田地)と邸宅を下賜しました。
 
[十四] 『漢書帝紀』からです。
冬、中二千石の官員に治獄が公平な者を毎年一人挙げさせることにしました。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
王莽は威徳を盛んにして前代と異ならせることで王太后を喜ばせようと欲し、匈奴単于に示唆して王昭君の娘須卜居次(云が名です。成帝建始二年31年参照)を王太后に入侍させました。
この後、匈奴への)賞賜が非常に厚くなります。
 
[十六] 『漢書西域伝下(巻九十六下)』と『資治通鑑』からです。
車師後王国に新道があり、五船北を出て玉門関に通じていました。新道を通れば漢との往来が近くなります(往来差近)
資治通鑑』胡三省注によると、車師後王国の治所は務塗谷で、長安から八千九百五十里離れていました。
 
戊己校尉徐普はこの道を通して半分の道程を省き、白龍堆の険阻な地を避けられるようにしたいと欲しました。
しかし車師後王国にとっては、新道が国を貫いており、西域に向かう漢の使者に宿舎や物資を供給しなければならなくなるため、心中で不便だと思いました。
また、この地は匈奴南将軍の地と大きく接していました。
徐普は境界を分けて明らかにしてから朝廷に上奏し、姑句を召して証明させようとしました。
ところが姑句が同意しなかったため、徐普は姑句を逮捕しました。姑句は漢の官吏に何回も牛羊を賄賂として贈り、釈放を求めましたが、拒否されました。
ちょうどこの時、姑句の家の矛端(矛頭)で火が起きました。姑句の妻股紫陬が姑句に言いました「矛端が火を生んだのは兵の気です。用兵に利があります。以前、車師前王が都護司馬に殺されました(『資治通鑑』胡三省注によると、これ以前に車師前王が殺されるという事件があったようです。車師前王の治所は交河城で、長安から八千百五十里離れています)。今、久しく繋がれていたら必ず死にます。匈奴に降ったほうがいいでしょう。」
姑句は馬を駆けて高昌壁を突破し、匈奴に入りました。
資治通鑑』胡三省注によると、拓拔魏北魏の時代、闞爽が高昌に国を建てました。漢の高昌壁が国名になったようです。高昌という名は、地が高敞(高大)で人も物も昌盛(隆盛。興隆)しているという意味です。漢武帝が西討の兵を派遣した時、師旅(軍)で頓弊(困窮疲弊)した者がここに住みました。
 
この頃、去胡来王唐兜と赤水羌がしばしば互いに侵犯しました。
唐兜が赤水羌に勝てなかったため、西域都護に急を告げましたが、都護但欽(但欽が姓名です)はすぐに救援を出そうとしませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、羌国王の号を去胡来王といいました。陽関から千八百里長安から六千三百里離れています。「去胡来」というのは去胡戎が漢に帰来したという意味です。
赤水羌は赤水周辺に住む大種(恐らく「大族」の意味)で、羌と近接していました。
 
困窮した唐兜は但欽を怨み、東に向かって玉門関を囲みました(漢に帰順するためです)。しかし玉門関が唐兜を中に入れようとしません。
唐兜は妻子や人民千余人を率いて逃亡し、匈奴に降りました。
単于は二人を受け入れて左谷蠡王の地に置いてから、使者を漢朝廷に派遣して上書し、状況を報告して「臣は謹んで既に受け入れました」と言いました。
 
漢は詔を発して中郎将韓隆(『資治通鑑』は「韓隆」、『漢書西域伝下』では「王昌」です)等を匈奴に派遣し、単于を譴責しました。西域は漢に内属しているので、匈奴が二王を受け入れるべきではないと伝えます。
単于は叩頭して謝罪し、二虜(姑句と唐兜)を捕えて漢の使者に引き渡しました。
王莽は更に詔を発し、中郎将王萌に命じて西域悪都奴(『資治通鑑』胡三省注によると、西域の谷の名です)の境界で待機させました。
単于は使者を派遣して漢の使者と姑句、唐兜を送り出し、二人の罪を赦すように請いました。漢の使者がそれを王莾に報告します。
しかし王莽はそれを聴かず、詔によって西域の諸国王を集め、軍列を並べてから姑句と唐兜を斬って見せしめにしました。
 
この事件があったため、漢は四條の規定を設けました。
「中国人で逃亡して匈奴に入った者、烏孫人で逃亡して匈如に降った者、西域諸国で中国の印綬を佩しながら匈奴に降った者、烏桓人で匈奴に降った者は、皆受け入れてはならない」という内容です。
 
中郎将王駿、王昌と副校尉甄阜、王尋を使者にして匈奴に派遣し、四條を単于に公布しました。四條の規定と璽書詔書を一つの函(箱)に入れ、封をして単于に渡し、施行するように命じます。
使者はかつて宣帝が作った約束を回収し、函に封をして還りました。
資治通鑑』胡三省注によると、宣帝と匈奴の約束は「長城以南は漢が有し、長城以北は匈奴が有し、降る者がいても受け入れてはならない」という内容です。王莽は古い約束が明確ではないと考えたため、四條を公布して古い約束を回収しました。
 
この時、王莽が上奏して中国に二字の名が存在しないようにさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、『春秋公羊伝』が二字名を謗っているため、王莽はそれに倣いました。
『春秋公羊伝』を見ると、『哀公十三年』に晋の「魏曼多」を「魏多」と書いており、その解説に「二名(二字名)を謗った。二名は非礼である(だから「曼多」を「多」にした。原文「譏二名二名非礼也」)」と書かれています。
 
王莽は使者を送って単于に暗示し、「漢の教化を慕って一字名に改める」という上書をするべきだと諭しました。漢が必ず厚賞を加えることを約束します。
単于はこれに従い、上書して言いました「幸いにも藩臣に備わることができ、心中で太平聖制を楽しんでいます。臣の故名(旧名)は囊知牙斯ですが、今謹しんで改名し、知と名乗ります。」
王莽は大いに喜んで王太后に報告しました。使者を送って答諭(答礼の言葉)を伝え、厚い賞賜を与えました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代312 平帝(六) 王皇后 3年(1)