西漢時代312 平帝(六) 王皇后 3年(1)

今回は西漢平帝元始三年です。三回に分けます。
 
西漢平帝元始三年
癸亥 3
 
[] 『資治通鑑』からです。
王莽は娘を平帝の皇后に立ててその権力を固めようと欲し、こう上奏しました「皇帝は即位して三年になりますが、長秋宮(『資治通鑑』胡三省注によると、「秋」は収穫の時で、「長」は恒久を意味します。そこから皇后宮の名になりました)がまだ建たず、掖庭の媵(正妻に従って嫁ぐ女性。ここでは後宮の妃嬪を指します)も充たされていません。最近の国家の難は元はといえば嗣(後嗣)がなくて配取(皇后の選択)が正しくなかったことから始まりました。『五経』を考論(考察討論)して、皇后を娶る礼を定め、十二女の義を正して(『資治通鑑』胡三省注によると、周の天子に十二女の礼がありました。王莽が言う「十二女」は、十一人の媵に皇后を合わせた数です)、繼嗣を広くし(広く後継者を求め)、二王(商周)の後代および周公、孔子の世(世家。子孫)や列侯で長安にいる者の適子女(嫡子女。正妻が生んだ娘)を博采(広く集めて選ぶこと)することを請います。」
この事は有司(官員)に下されました。有司が衆女の名を提出します。
 
皇后の候補に挙がった者の中には王氏の女が多数いました。
王莽は自分の娘と争いになることを恐れてすぐに進言しました「この身に徳がなく、子の才能も劣るので(子材下)、衆女と並んで選ばれるのは相応しくありません。」
太后はこれを王莽の至誠だと見なし、詔を下しました「王氏の女(娘)は朕の外家である。選んではならない(其勿采)。」
こうして王莽だけでなく王氏の娘全てが皇后の候補から外されることになりました。
 
ところが庶民、諸生、郎吏以上の官吏が宮闕を囲んで上書しました。その数は一日に千余人に上ります。
公卿大夫のある者は廷中を訪ね、ある者は省戸(官署の門)の下で伏し、皆こう言いました「安漢公の盛勳はこのように堂堂(盛大明瞭)としています。今、后を立てるに当たり、どうして公(王莽)の女(娘)を廃すのでしょうか。天下はどこに帰命するのでしょうか。公の女(娘)を得て天下の母にすることを願います。」
王莽は長史以下の官員を分けて派遣し、公卿や諸生を諭して訴えを止めさせました。
しかし上書する者はますます増えていきます。
太后はやむなく公卿の意見を採用することにして、王莽の娘を選びました。
王莽が「広く衆女から選ぶべきです」と言いましたが、公卿がまた争って言いました「諸女を選んで正統を二つにするべきではありません(正当を乱すべきではありません。原文「不宜采諸女以貳正統」)。」
王莽が言いました「(朝廷の使者が)(娘)に会うことを願います(願見女)。」
 
春、王太后が長楽少府夏侯藩、宗正劉宏、尚書平晏を派遣しました。夏侯藩等が納采して王莽の娘に会います。
 
資治通鑑』胡三省注は「婚(結婚)には五礼があった」としています。「納采」「問名」「納吉」「納徵」「請期」です。
「納采」は男側が相手の家族に礼物を贈って結婚を申し込む儀礼で、婚姻関係を結ぶ最初の手続きです。
「問名」は男側が相手の女性の姓名や出生年月日を確認することです。姓名を確認するのは、同姓結婚が禁止されていたからです。出生年月日からは相性を占います。
「納吉」では男側が相手の女性の姓名や出生年月日等を元に占いをして、その結果を相手の家族に伝えます。ここで婚姻関係を結ぶことが確定します。
「納徵」では男側が相手の家族に貨幣礼物を納めます。通常は「納吉」と同時に行われます。
「請期」では男側が婚礼の日を決めて相手に伝えます。
婚礼の日は新郎が新婦の家に迎えに行きます。これを「親迎」といい、「五礼」に「親迎」を加えて「六礼」ともいいます。
 
本文に戻ります。
夏侯藩等が還って王太后に報告しました「公の女(娘)は徳化に染まっており(漸漬徳化)、窈窕の容(美しくて優雅な容貌。『資治通鑑』胡三省注によると、善心を窈、善容を窕といいます)があるので、天序を承って祭祀を奉じるのに適しています。」
 
そこで、太師孔光、大司徒馬宮、大司空甄豊、左将軍孫建、執金吾尹賞、行太常事太中大夫劉秀(劉歆)および太卜令、太史令(『資治通鑑』胡三省注によると、太常の下に太卜や太史等の令がいます)が皮弁(鹿皮の冠)を被り、素積(素裳。模様がない袴。または白衣)を着て、礼に基いて共同で卜筮を行いました。
その後、皆がそろって報告しました「兆(卜の結果)では『金水王相』に遇い(原文「兆遇金水王相」。『資治通鑑』胡三省注によると、金が王になったら水が相となって王を輔佐する(金王則水相)という意味のようです。五行説では金が水を生むので、金水は深い関係を意味します)、卦(筮の結果)では『父母得位(父母が位を得る)』に遇いました(原文「遇父母得位」)。いわゆる康強の占(安康強健の予兆)、逢吉の符(吉に逢う予兆)というものです(『資治通鑑』胡三省注によると、身体が康強になって子孫が吉に逢うことを意味するようです)。」
 
太牢(牛豚がそろった犠牲の様式)によって祭祀を行い、宗廟に策書を提出して婚姻の報告をしました。
有司(官員)が上奏しました「故事(前例)では、皇后が降嫁する際(聘皇后)(聘礼は)黄金二万斤となっており、銭にしたら二万万(二億)に値します。」
王莽は深く謙譲して六千三百万だけを受け取り、そのうちの四千三百万は十一の媵家と九族の貧しい者に分け与えました。
資治通鑑』胡三省注によると、皇后の聘礼結納金が黄金二万斤というのは、呂后が恵帝に魯元公主を娶らせた時の故事です。
「媵」は皇后と一緒に皇帝に嫁ぐ女性です。王莽は「十二女の義」を正そうとしたため、皇后と一緒に十一人を嫁がせました。
また、ここでの「九族」は上は高祖(曾祖父の父)から下は玄孫(曾孫の子)に及ぶ親戚を指します。
 
以上は『資治通鑑』の内容です。聘礼を受け取る経緯が『漢書王莽伝上(巻九十九上)』に少し詳しく書かれています。
王莽はまず四千万だけを受け取り、そのうちの三千三百万を十一の媵家に与えました。
群臣が(王太后に)言いました「今、皇后が聘を受けたのに、群妾をほとんど越えていません。」
(王太后が)詔を下して二千三百万を増やしました。合わせて三千万になります(実際に受け取ったのが三千万です。媵家に与えた三千三百万を合わせると六千三百万になります)
王莽はそのうちの千万をまた九族の貧しい者に与えました。
 
漢書帝紀』にはこう書かれています。
「春、有司に詔を下し、皇帝のために安漢公王莽の女(娘)に納采した(上述)。」
「また、光禄大夫劉歆等に詔を下し、共同で婚礼(婚姻の制度)を制定させた。四輔、公卿、大夫、博士、郎、吏の家属は皆、礼に基いて妻を娶り、二頭の馬が牽く小車に立って自ら迎えに行くことにした(親迎立軺併馬)。」
顔師古は「新たにこの制度を定めた」と書いています。王莽の娘の結婚にともなって婚礼制度も整理されたようです。
夏、王莽が婚礼等の制度に関する上奏をします(下述)
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、安漢公王莽が車服の制度、吏民の養生(生活)送終(葬礼)嫁娶(婚礼)や奴婢田宅器械(器物用具)の品(等級)に関する上奏をしました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
官稷(帝王が五穀の神を祀る社)を建てました。
漢書帝紀』の注を見ると、如淳は「既に官社(帝王が土地神を祀る社)があったが、まだ官稷がなかったので、官稷を官社の後ろに建てた」と解説しています。官社と官稷を合わせて「社稷」といいます。
臣瓉は「漢初に秦の社稷を除いて漢の社稷を建てた。その後、また官社を立てて夏禹を配したが、官稷は建てなかった。今回、初めて官稷を建てた。東漢光武帝の後は官社だけがあり、官稷は建てなかった」と書いています。
顔師古は「如淳と臣瓉の二説は完全ではない。初めは官稷を官社の後ろに建てた。これは一つの場所である。今回、改めて(官稷を)別の場所に建てて、前後の関係を解消した(不相従也)」と解説しています。
 
また、学官を設けました。
郡国の学校は「学」、県侯国は「校」といい、校と学には経師儒学の経典の師)を一人置きました。
郷の学校は「庠」、聚(邑。郷より小さい行政単位)は「序」といい、序と庠には孝経師(『孝経』の師)を一人置きました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代313 平帝(七) 呂寛の獄 3年(2)