西漢時代313 平帝(七) 呂寛の獄 3年(2)

今回は西漢平帝元始三年の続きです。
 
[] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
大司徒司直陳崇が張敞(宣帝時代の京兆尹)の孫竦に上奏文を起草させ、安漢公の功徳を盛んに称えてこう言いました「公(王莽)の国(封国)を拡大して周公のようにさせ(『資治通鑑』胡三省注によると、周公には天下における勳労があったため、西周成王が周公を曲阜の地に封じました。方七百里です)、公の子を立てて伯禽(周公の子です)のようにさせ、下賜する品も全て同等にして(下述します)、諸子の封を全て六子(周公の六子で伯禽の弟に当たります。『資治通鑑』胡三省注によると、六子は凡、蒋、邢、茅、胙、祭に封じられました)のようにするべきです。」
「下賜する品(所賜之品)」というのは、魯公(恐らく周公ではなく伯禽を指します)が魯に封じられた時に下賜された物で、附庸国(大国に属する小国。諸侯の下の立場です)、殷民六族(條氏、徐氏、蕭氏、索氏、長勺氏、尾勺氏)、大路(大輅。帝王の車)、大旂(大旗)、封父の繁弱(弓の名。封父は諸侯の国名です)、夏后氏の璜(玉の名)、祝宗(祈祷者。神官)、卜史(卜官、史官)、備物(儀仗や祭祀で使う器物)、典策(典章制度を記録した書籍)、官司(官員)、彝器(礼器、祭器)、白牡の牲(犠牲に使う白い牡牛)、郊望の礼(天や山川を祭る儀礼を指します(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
太后は陳崇と張竦の上奏を群公に示しました。群公がこれを議論している時に、呂寛の事件が起きます。
 
以前、王莽が衛氏(平帝の母衛后の親族)を平帝から隔絶させた時(平帝元始元年1年)、王莽の長子(世子)宇がこれに反対しました。後に禍を受けることになると恐れたからです。
そこで王宇は個人的に衛宝に書を送り、衛后から恩を謝す上書をさせるように勧めました。上書を利用して丁氏と傅氏の旧悪を述べ、京師に至る機会を作るのが目的です(衛后は中山国におり、京師に入って平帝に会うことを禁じられています)
王莽はこれを太皇太后に報告し、詔を下させました。王太后の詔によって有司(官員)が中山孝王后(衛后)を褒賞し、湯沐邑に七千戸を増やします。
 
衛后は日夜啼泣して平帝に会いたいと思っていましたが、上書して王莽や王太后に取り入っても戸邑が増やされただけでした。
そこで王宇が再び衛后に上書させました。今度は直接、京師に入ることを求めます。
しかし王莽がまた却下しました。
 
王宇は師の呉章および婦人の兄呂寛とこの事を相談しました。
呉章は「王莽は諫めても無駄だが、鬼神の事を好むので、変怪(変異)を為して驚懼させ、呉章がそれを理由に政権を衛氏に返すように説得すればうまくいく」と考えました。
王宇は早速、呂寛を派遣し、夜の間に王莽の邸宅に血をまき散らしました。しかし門吏がそれを見つけます。
王莽は王宇を捕えて獄に送り、薬を与えて自殺させました。
王宇の妻焉は妊娠していましたが、獄に繋がれました。子が生まれるのを待って殺されます(『漢書・王莽伝上(巻九十九)』も『資治通鑑』も明記していませんが、呂寛も殺されたはずです。呂寛の家族は合浦に遷されました。新王莽天鳳五年・18年に記述があります)
 
甄邯等が王太后に報告し、王太后が詔を下しました「公は周公の位におり、成王の主西周成王のような幼主)を輔佐しており、しかも管蔡の誅(周公は謀反を企んだ管公と蔡公を誅滅しました。管公と蔡公は周公の兄弟です)を行いました。親親(親しむべき人を親しむこと。ここでは親子や親戚間の私情)によって尊尊(尊ぶべき人を尊ぶこと。ここでは君臣の間の大義を害すことがなかったので、朕はこれを甚だ嘉します。」
 
王莽は衛氏の支属を全て滅ぼし、衛后だけを残しました。
呉章は要斬(腰斬)に処されて東市門で磔尸(見せしめのために死体をばらばらにすること)されました。
 
呉章は当世の名儒として知られていました。
資治通鑑』胡三省注によると、呉章は『尚書』経を研究して博士になりました。
生前は自分の学説を盛んに教授しており、弟子は千余人を数えます。
王莽はそれを悪人の党とみなしたため、全て禁錮して仕宦(仕官)できなくさせるべきだと考えました。
それを知った呉章の門人はことごとく名を変えて他の師に就きます。
しかし平陵の人云敞はこの時、大司徒掾でしたが、自らを呉章の弟子として弾劾し、呉章の死体を回収して、抱きかかえて帰りました。死体を棺に納めて埋葬します。
京師の人々は云敞を称賛しました。
 
王莽は呂寛の獄を徹底的に追求し、以前から嫌っている者も牽連して全て誅滅しました。
元帝の妹敬武長公主はかねてから丁氏と傅氏に附いており、王莽が専政するようになってからは王莽を批難しました。
紅陽侯王立は王莽の尊属(王莽の叔父に当たります)で、平阿侯王仁(王譚の子です)は剛直な性格でした。
王莽は太皇太后の名義で詔を発し、三人に使者を送って圧力をかけます(遣使迫守)。三人は自殺に追い込まれました。
しかし王太后には「敬武公主が突然病死した」と報告しました。
太后が喪に臨もうとしましたが、王莽は頑なに反対して止めさせました。
 
甄豊が使者を派遣し、伝車に乗って衛氏の党与を調査しました。
郡国の豪桀や漢の忠直の臣で王莽に附かない者は皆、法を犯したと誣告されて殺されました。
何武、鮑宣および王商(『資治通鑑』胡三省注によると、涿郡の王商で、成帝の丞相だった人物です)の子に当たる楽昌侯安、辛慶忌の三子である護羌校尉通、函谷都尉遵、水衡都尉茂と南郡太守辛伯等が処刑されます。
死者は数百人に上り、海内が震撼しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、何武は大司馬を選んだ時に王莽を推挙しなかったため、今回処刑されました。
鮑宣は以前から強項(剛強)で知られていました。
王商はかつて王鳳と対立しており、王鳳の誹謗によって罷免されて死にました(成帝河平四年25年参照)。そのため、子の安は王氏に協力していませんでした。
辛慶忌は元々王鳳に取り立てられました。王莽はその三子に能力があるのを見て、親しく接して厚く遇しようとしました。しかし辛茂は自分が名臣の子孫だという自負があり、兄弟も顕貴な地位に列しているため、王莽に附くべきではないと考えました。甄豊や甄邯(どちらも王莽の近臣)に対しても身を屈して仕えようとしません。そのため処刑されました。
辛伯も辛氏の一族だったため、併せて禍が及びました。
 
北海の人逢萌が友人に言いました「三綱が絶たれてしまった。去らなかったら禍が人に及ぶだろう。」
三綱は君臣父子妻の間にあるべき道義です。『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「王莽は自分の叔父(王立)を殺し、また自ら冢嫡(嫡長子。王宇)を殺した。これは天性を滅ぼすことだ。主君の祖姑(祖父の姉妹。敬武長公主)を殺し、忠直の臣を全て除いた。これは君が無いことだ(国君を無視することだ)。よって三綱が絶たれたという。」
 
逢萌は冠を解いて東都城門に掛けると(『資治通鑑』胡三省注によると、逢萌はこの時、長安で学んでいました)、故郷に帰り、家属を連れて海上に出て、遼東で客居しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代314 平帝(八) 後嗣の義 3年(3)