西漢時代315 平帝(九) 宰衡 4年(1)

今回は西漢平帝元始四年です。二回に分けます。
 
西漢平帝元始四年
甲子 4
 
[] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、高祖を郊祀して天に配し、孝文を宗祀して上帝に配しました。
郊祀は郊外で行う祭祀、宗祀は明堂で行う祭祀です
「上帝」について『資治通鑑』胡三省注が複数の説を載せています。以下、列記します。
「上帝は太微五帝であり、または昊天上帝という。」
「上帝は天である。」
「上帝は泰一の神で、紫微宮におり、天の最も尊い者である。」
「元気(気の一つ)が広大な様子を昊天という。人が尊ぶ者では帝を越える者はおらず、人は天に託しているので、上帝と呼ぶ。」
 
[] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
殷紹嘉公・孔吉(または孔何斉)を宋公に、周承休公・姫党を鄭公に改めました(殷紹嘉公と周承休公に関しては成帝綏和元年・前8年参照)
 
[] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
詔を発しました(王太后の詔だと思います)「夫婦(の仲)が正しければ父子が親しみ人倫が定まるものである。以前、有司に詔を下し、貞婦の賦役を免じて(復貞婦)女徒(女囚)を帰らせたのは、誠にこうすることで邪辟を防いで貞信を全うさせようと欲したからである。眊悼の人(『漢書』の注によると、「眊」は八十歳、「悼」は七歳です。ここでは八十歳以上と七歳以下という意味です)に及んでは、刑罰を加えないのは聖王が制定したことである。しかし(今は)苛暴の吏が法を犯した者の親属や婦女老弱まで多数を拘繋(逮捕拘禁)しており、怨みを結んで教化を損ない(搆怨傷化)、百姓がこれを苦にしている。よって百僚に明敕(訓戒)する。婦女で本人が法を犯していない者(他者の罪に連座した者)および年八十以上、七歳以下の男子で家が不道の罪に坐していない者、詔で名捕(逮捕の指名)されていない者は、皆、(牢に)繋げてはならない。験(調査)に当たる者はその場所(婦女や老幼がいる場所)で験問(調査審問)せよ。ここに著令(成文化した法)を定める。」
 
[] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月丁未(初七日)、大司徒・馬宮、大司空・甄豊等を派遣し、乗輿法駕(公室の車と儀仗)を率いて安漢公邸で皇后を迎えました。皇后の璽紱を授けます。
 
王皇后が未央宮に入り、天下に大赦しました。
 
漢書王莽伝上(巻九十九上)』は「四月丁未」の事としていますが、『漢書帝紀』では「二月丁未」です。『漢書外戚伝下(巻九十七下)』でも「春」としているので、『王莽伝』が誤りです(『資治通鑑』胡三省注三省)
また、『王莽伝』によると、王皇后は十八歳で太后になります(新始建国元年9年)。そこから逆算すると結婚した時は十三歳で、平帝と同じ年です。
 
[] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
太僕王惲等八人にそれぞれ副使を置き、符節を与え(「假節」。「假」は「借りる」の意味です。臣下が皇帝の命令を受けて任務を行う時は符節を持って皇帝の威を示し、帰還したら皇帝に返したので、「假節」といいます。「持節」ともいいます)、天下各地に分けて巡行させました。風俗の観覧考察が目的です。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
九卿以下六百石に至る官吏で、宗室に属籍がある者に爵位を与えました。与えた爵位は五大夫(第九爵)以上で、それぞれに差があります。
また、天下の民に爵一級を、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)高年(高齢者)に帛を下賜しました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
夏、王皇后が高廟で謁見しました(原文「皇后見于高廟」。誰に会ったのかは分かりません。高廟を拝謁したという意味かもしれません)
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
太保王舜等と吏民八千余人が上書し、そろってこう言いました「陳崇の言(前年参照)のように、安漢公に賞を加えてください。」
この章(上書)は有司に下されました。
すると有司が王莽のために請いました「公に召陵、新息の二県および黄郵聚と新野の田を益封すること。伊尹、周公の称号を採用し、公に号を加えて宰衡と称すこと(伊尹は阿衡、周公は冢宰と称しました。宰衡は両者を合わせた称号です)。位を上公とし、三公が(王莽に対して)事を述べる時は『敢えて申し上げます(敢言之)』と言うこと。公の太夫(王莽の母)に号を下賜して功顕君と称すこと。公の子である男二人を封じ、王安を褒新侯に、王臨を賞都侯にすること(『資治通鑑』胡三省注によると、王莽は新都侯で、「新都」を分けて「褒賞」を加えた国名が「褒新侯国」と「賞都侯国」になります)。后(王皇后。王莽の娘)に聘結納金三千七百万を加え、合わせて一万万(一億。前年に六千三百万を受け取っています)にして大礼を明らかにすること。太后が前殿に臨んで自ら封拝(封侯)し、安漢公が前で拝し、二子が後ろで拝し、周公の故事に則ること西周成王が伯禽を魯に封じた時、父の周公が前で拝し、魯公が後ろで拝しました)」という内容です。
 
王莽は稽首(叩頭。跪拝)して辞退し、封事(密封した上奏文)を提出しました「母の号を受けることだけを願います。王安と王臨の印韍(印紱)および号位(称号爵位戸邑は返上します。」
王莽の意見が群臣に下されると、太師孔光等がそろって言いました「賞が功に当たるには足りません(いくら賞を厚くしても王莽の功績に応えることはできません)。謙約退譲(謙遜謙譲)は公の常節なので、最後まで聴かないでしょう。しかし忠臣の節も(時には)自ら屈して主上(主君)の義を伸ばさなければなりません。大司徒と大司空を派遣して、持節承制(符節を持って皇帝の命を実行すること)して公に詔を下し、速く(朝廷に)入って視事(政事を視ること)するように命じるべきです(『漢書王莽伝上(巻九十九上)』によると、王莽は厚賞を避けるために病と称して家にこもっていました)。また、尚書に詔して公の譲奏(辞退の上奏)を再び受け取らないようにさせるべきです。」
太后はこれに同意しました。
王莽は入朝して政治を行い、召陵、黄郵、新野の田(土地)を減らした以外、他の内容は全て受け入れました。
こうして安漢公王莾に「宰衡」の号が加えられ、公太夫人は功顕君を号し、公子王安と王臨も列侯に封じられました。
この時の王莽は、爵位は新都侯、号は安漢公、官は宰衡太傅大司馬になります。
 
王莽は追加して与えられた納徵(聘礼。結納金三千七百万から銭千万を出して、王太后の左右で供養を奉じている者(左右で仕えている者)に与えました。
王莽は専権していましたが、王太后を欺瞞によって惑わし、媚を売って仕えたため、王太后の歓心を得ていました。下は傍に仕える長御(女官)に至るまで、様々な方法を用いて王太后を喜ばせ、賄賂として贈った額は千万を数えました。
 
王莽は王太后に進言し、王太后の姉妹を尊重するために、君号を称させて湯沐邑の収入を与えるように勧めました。
漢書元后伝(巻九十八)』によると、姉の王君俠を広恩君に、妹の王君力を広恵君に、王君弟を広施君にしました。
このように王莽が王太后の周囲の者にも恩恵を与えたため、王太后の左右の者は昼も夜も王莽を称賛しました。
 
また、王莽は王太后が婦人の身で深宮の中に住んでいることを嫌っていると知り、王太后に娯楽を与えることで権勢と交換しようとしました。そこで、王太后に四季ごとの四郊の巡狩(巡行)をさせることにしました。『資治通鑑』胡三省注によると、城邑の外を郊といいます。
太后は四季ごとに車を走らせて四郊を巡り、孤児や寡婦、貞婦を慰問しました。訪れた長安の属県でいつも恩惠を施し、民に銭帛、牛酒を下賜します。毎年これが常例になりました。
 
太后のそばに仕える弄児(玩童。『資治通鑑』胡三省注によると、官婢や侍史が生んだ子が弄児になりました)が病を患って外舍に住んだ時は、王莽自ら見舞いに行きました。
太后の歓心を得ようとする様子はいつもこのようでした。
 
太保王舜が上奏しました「公が千乗の土を受け取らず(千乗の土地は諸侯の国です。千乗の車を擁する地という意味です。王莽が広大な封地を受け取らなかったことを指します)、万金の幣(聘礼)を辞退したことを天下が聞き、郷化(向化。敬慕)しない者はいません。蜀郡の男子路建等は訴訟を中止し、慚怍(慚愧)して退きました。文王が虞芮を退けた故事でも、どうして越えられるでしょう西周時代、虞と芮の二国が土地を争って周王に訴えに行きました。しかし周に入ると人々が譲り合っていたため、虞と芮の二君は恥じ入って帰りました)。これを天下に報告(宣告)するべきです。」
資治通鑑』は明記していませんが、『漢書王莽伝上』では王舜の上奏が採用されています。
 
この頃、太師孔光が王莽の専権を見てますます恐懼し、病を理由に頑なに官位を辞しました。
太后が詔を発しました「太師は入朝する必要はありません。十日に一回、省中(禁中)に入りなさい。几杖(肘置きと杖)を設けて餐十七物を下賜します。その後に帰りなさい。官属は今まで通り自分の職を行いなさい(孔光は十日に一回入宮し、それ以外の日は家で養生します。但し、属官は今まで通りの職務を行います)。」
 
[] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
王莽が上奏して明堂、辟雍辟廱)、霊台の建設を始めました。学者のために万区の舍(宿舎。家屋)を建てます。これらの規模はとても盛大でした。
 
「明堂」は皇帝が儀礼や祭祀を行い、政治と教化を施す場所です。『資治通鑑』胡三省注によると、黄帝時代は「合宮」、有虞(帝舜)時代は「総章」、殷(商)代は「陽館」といい、周代に「明堂」と呼ばれました。
「辟雍」は学校、「霊台」は天文を観測する場所です。『資治通鑑』胡三省注によると、天子の天文台を霊台と呼び、諸侯の天文台は観台といいました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代316 平帝(十) 宗廟 4年(2)