西漢時代316 平帝(十) 宗廟 4年(2)

今回は西漢平帝元始四年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
太学に『楽経』を設けました。
博士の定員を増やして各経を五人にしました。
 
天下から一芸(一経)に通じて十一人以上に教授した者および逸礼(失われた古礼。または古文の『礼記』)、古書、天文、図讖(予言、予兆。『資治通鑑』胡三省注は「図讖は虚妄であり、聖人の法ではない」「成帝と哀帝の後から聞かれるようになった」と書いています)、鍾律(音楽)、月令(天文暦法、兵法、史篇の文字(『資治通鑑』胡三省注によると、「史篇」とは西周宣王の太史史籀が書いた十五篇の古文書です。文字を学ぶために作られた書です)の意に通じて理解している者を集め、全て公車(官署)に赴かせました。
天下の異能の士を網羅し、前後して千人以上が京師に至ります。
彼等の学説は朝廷で記録し、乖謬(荒唐。道理から外れていること)を正して異説を統一しようとしました。
 
漢書・平帝紀』は翌年にこの事を書いています(再述します)
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
王莽が治河(治水)の能力がある者を集め、百人を数えました。その中で大略(重大な戦略。主張)が他と異なる者には、長水校尉平陵の人関並(『資治通鑑』胡三省注によると、関氏は夏王朝の大夫関龍逢の子孫、または関令尹喜の子孫です。尹喜は函谷関の令で、老子から『道徳経』を授かりました)、御史臨淮の人韓牧、大司空掾王横等がいました。
 
関並が言いました「河黄河は往々にして平原か東郡の左右(一帯)で決壊しており、その地形は低くて土が疏悪(粗くて質が悪いこと)です。禹が河を治めた時の事を聞いたところ、元々この地を空にしており、水が猥盛(多くて盛んなこと)になったら放溢(氾濫)し、少なくなったらしだいに自ら尽きる(水が無くなる)と考えていました。時には(決壊する)場所が変わりましたが、この地から離れることはできませんでした。上古は知り難いので、近く秦漢以来を考察すると、河は曹衛の域(一帯)で決壊しており(『資治通鑑』胡三省注によると、漢の済陰、定陶が旧曹国、東郡および魏郡黎陽が古衛国に当たります)、その南北は百八十里に過ぎません。この地は空にすることができます。官亭、民室を置かないだけのことです。」
 
韓牧が言いました「『禹貢』に記載された九河のおおよその場所を穿つべきです。たとえ九河は作れないとしても、四、五の河を作ることができれば益があるはずです。」
 
王横が言いました「河は勃海の地に入り、韓牧が穿とうと欲する所よりも高くなっています。以前、天が常に連雨を降らせ、東北の風が吹き、海水が西南に溢れ出て数百里を沈めたため、九河の地は既に海に浸食されています。禹が通した河水は、本来は西山から下って東北に去りました。『周譜』はこう言っています『定王五年、河が移る。』すなわち、今通っているのは、禹が穿った場所ではないのです。また、秦が魏を攻めた時、河を決壊させてその都に注ぎました。そのため決壊する場所が大きくなり、修復できなくなっています。平地(の民)を全て移してから改めて河を穿って開き、西山(『資治通鑑』胡三省注によると、黎陽以西の諸山です)に沿わせ、高地に乗じて東北の海に入れるようにすれば、水災がなくなります。」
 
司空掾沛国の人桓譚がこれらの討論を主持して甄豊に言いました「これら複数の意見の中に、必ず一つの是(正解)があります。詳しく考験(考察)すれば、どれも豫見(あらかじめ結果を見ること)できるはずです。計が定まり、その後に事を挙げれば、費は数億万に過ぎず、また浮食(農耕をせず食糧を得ること)、無産業の民を働かせることもできます。空居(何もせず生活すること。無産業の民を指します)と行役(労役させること)は同じく衣食を必要とします。県官が衣食を負担し、彼等に労働させれば、双方(政府と無産業の民)の便となります(原文「空居与行役,同当衣食,衣食県官而為之作,乃両便。」訳は『漢書溝洫志』の顔師古注を参考にしました)。こうすれば上は禹の功を継承し、下は民の疾(害)を除くことができます。」
当時、王莽は空語を崇めていただけだったため、どの意見も実行しませんでした。
 
最後の原文は「時莽但崇空語無施行者」です(『資治通鑑』)
漢書溝洫志』には「王莽時但崇空語無施行者」と書かれており、「王莽の時代は(人々が)空語を崇めていただけだったため、実行する者がいなかった」と読めます。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
群臣が上奏しました「昔、周公は七年摂政して制度がやっと定まりました。今、安漢公は輔政して四年、営作(建造。『漢書王莽伝上(巻九十九上)』によると、明堂と辟雍の建設を指します)して二旬(二十日)で、大功が全て完成しました。宰衡の位を上げて諸侯王の上とするべきです。」
詔を発して(恐らく王太后の詔です)「可」と言い、併せて九錫の法について議論させました。
「九錫」は本来、天子が使うもので、功臣に対する最も厚い賞賜です。武帝元朔元年(前128年)にも書きましたが、改めて述べます。
資治通鑑』胡三省注によると、「九錫」は車馬、衣服(尊貴を示します)、楽器(古代は音楽が教養の一つとされていました。楽器を下賜するのは、民の教化を命じたことを表します)、朱戸(赤い門です。住居の中が整っており、他の者とは異なることを示します)、納陛(殿上に登るために作られた貴人専用の階段です。詳細はわかりません。殿上に自由に登る権利を得たということかもしれません)、虎賁百人(虎賁は禁衛の勇士です)、鈇鉞(斧鉞。生殺の権限を表します)、弓矢(征伐の権限を表します)、秬鬯(美酒です。祭祀に使います)を指します。
 
[十三] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
王莽が宗廟に関する上奏をしました。主な内容は、孝宣廟を尊んで中宗とし、孝元廟を尊んで高宗とし、天子が世世(代々)祭祀を行うこと、孝宣皇考廟(宣帝の父の廟)を破毀して今後修建しないことです。
また、南陵(文帝の母太后の陵墓)と雲陵(昭帝の母太后(鉤弋夫人)の陵墓)を廃して普通の県にするように進言しました。
これらは全て採用されます。
元帝を祖宗に入れたのは、王太后元帝の皇后)の歓心を買うためです(新王莽始建国四年・12年に再述します)
 
哀帝が即位したばかりの時、太祖高帝、太宗文帝、世宗武帝の祖宗三人と、昭帝、宣帝、元帝、成帝の四帝、併せて七廟が奉祀されました。但し、皇考廟(宣帝の父の廟)も残されているので、実際は八廟が存在しています(成帝綏和二年7年参照)
後には哀帝が更に共皇哀帝の父)のために廟を建てたため、九廟になりました哀帝建平二年5年参照)
平帝が即位すると、平帝も哀帝元帝の孫に当たり、同じ世代なので、平帝は哀帝ではなく父の世代に当たる成帝の跡を継いだことになりました。そのため、哀帝が廟に入ることはなく、また今回、皇考廟も廃されたので、太祖高帝、太宗文帝、世宗武帝、昭帝、中宗宣帝、高宗元帝、成帝と共皇廟の併せて八廟になりました。
翌年には共皇廟も破壊されて天子七廟の制度に符合することになります。
 
[十四] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
王莽は北は匈奴を教化し、東は海外を到らせ、南は黄支を懐柔したものの、西方だけには勢威を加えていないと考えました。
資治通鑑』胡三省注によると、越裳氏が通訳を重ねて白雉を献上し、黄支国が三万里を越えて生犀を献上し、東夷王が大海を渡って国珍(国宝)を献上し、匈奴単于が一字名に改名しました。
 
王莽は西方にも勢威を及ばすため、中郎将平憲等に多額の金幣を持たせて派遣しました。塞外の羌人を誘って土地を献上させ、内属(漢への帰順)を願うように仕向けます。
平憲等が帰国してから上奏しました「羌豪良願(人名です)等の種(族)約一万二千人が、内臣になって鮮水海(現在の青海湖です)、允谷、塩池を献上し、平地美草を全て漢民に与え、自ら険阻な処に住んで藩蔽になることを願っています。良願に降意(投降の意図)を問うと、こう答えました『太皇太后は聖明で安漢公は至仁なので、天下が太平となり、五穀が成孰(成熟)し、あるいは禾の長さが一丈余もあり、あるいは一粟に三米ができ、あるいは種を植えなくても自然に生え、あるいは蚕が糸を作らなくても自然に繭ができており(繭不蚕自成)、甘露が天から下り、醴泉(甘泉)が地から出て、鳳凰が姿を現し(鳳皇来儀)、神爵(神雀)が降りて止まりました(神爵降集)。この四年以来(王莽が輔政してから)、羌人は疾苦とすることがないので、喜んで内属を思うのです(思楽内属)。』よってすぐに処業(住居と職業。生活)を手配し、属国を置いて領護(統領保護)するべきです。」
この事は王莽に下されました。
王莽が応えて上奏しました「今すでに東海、南海、北海の郡があります。良願等が献上した地を受け入れて、西海郡にすることを願います。天下を十二州に分けて古制に応じましょう。」
上奏は許可されました。
 
冬、西海郡を置きました。
五十條の法を増やして罪を犯した者を西海に遷しました。移住させられた者は千万(万人以上)を数え、民が王莽を怨み始めました。
 
漢書王莽伝上(巻九十九上)』はこの事を翌年秋に書いていますが、『漢書帝紀』は本年に書いており(但し『平帝紀』は冬ではなく秋に書いています)、『資治通鑑』は本紀に従って本年の事としています(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
[十五] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
梁王劉立が衛氏(平帝の母の一族)と交通(交流)していた罪に坐しました。国を廃されて南鄭に遷されます。
劉立は自殺しました。
 
劉立は文帝の子劉武(孝王)の子孫です(成帝永始四年13年参照)
 
[十六] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
京師を分けて前煇光、後丞烈の二郡を置きました。
資治通鑑』胡三省注によると、前煇光は長安以南の諸県、後丞烈は長安以北の諸県を管理します。
 
公卿、大夫、八十一元士(天子の士。上士。大夫の下に位置します)の官名、位次(等級)および十二州の名称や分界(境界)を改めました。
また、郡国に所属する区域を廃止したり新設したり変更しました。
天下が多事となり、官吏が記録できないほどになります。
 
[十七] 『漢書帝紀からです。
大風が吹き、長安城東門の屋瓦(屋根瓦)が全て飛ばされました。
 
 
 
次回に続きます。