西漢時代317 平帝(十一) 九錫 5年(1)
今回は西漢平帝元始五年です。三回に分けます。
西漢平帝元始五年
乙丑 5年
春正月、明堂で祫祭しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、「祫祭」というのは廟を廃した先祖を全て太祖と合わせて祭る儀式です。
安漢公・王莾がまた上奏して長安の南郊と北郊を恢復しました。
三十余年の間に天地の祠が五回も遷されました。
成帝永始三年(前14年)十月、甘泉泰畤と汾陰后土を復旧しました。
今回、南郊と北郊を恢復したので、五回になります。
王太后が詔を発しました「帝王は徳によって民を撫し、その次は親親(親しむべき人と親しむこと)してそれを互いに及ぼすと聞いています。昔、堯は九族と睦み、舜はこれ(九族)と惇敘(秩序に則って厚く和睦すること)しました。朕(王太后)は皇帝が幼年なので暫く国政を統べており、宗室の子が全て太祖高皇帝の子孫および兄弟に当たる呉頃(『漢書』の注によると、呉頃は高帝の兄・劉仲で、代王に封じられましたが後に廃されて合陽侯になりました。その子・劉濞が呉王に封じられたため、劉仲に追諡して呉頃王と呼びました)、楚元(高帝の弟・劉交です)の後代であることを想っています。漢元(漢初)から今に至るまで(宗室の子弟が)十余万人になったので、たとえ王侯の属といっても、互いに監察矯正ができなかったら(莫能相糾)、あるいは刑罪に陥ってしまい、教訓が至っていない咎となります。伝(『論語』の言葉です)はこう言っているではありませんか『君子が親族に厚く親しめば、民が仁に興きる(民が感化して仁に向かうようになる。原文「君子篤於親,則民興於仁」)。』よって、太上皇以来の族親(親族)で、それぞれ氏を世に継承させている宗室は、郡国が宗師(宗族を教育する官)を置いてこれを糾(監察矯正)し、教訓を及ぼしなさい。二千石は徳義がある者を選んで宗師にしなさい。教令に従わない者や冤罪のために失職した者を考察し、宗師は郵亭を使って書を宗伯(宗正)に送り、それを報告しなければなりません。毎年正月、宗師にそれぞれ帛十匹を下賜することにします。」
夏四月乙未(初一日)、博山侯・孔光(簡烈侯)が死にました。
贈賜、葬礼が盛大に行われ、一万余輌の車が葬送に参加します。
馬宮が太師になりました。
王莽が新野の田地を受け取らなかったため、吏民で上書する者が前後して四十八万七千五百七十二人に上りました。諸侯王、公卿、列侯、宗室で(王太后に)謁見した者も皆叩頭して言いました「速く賞を安漢公に加えるべきです。」
この動きに対して、王莽が上書して言いました「諸臣民が上章したことで、下して議した内容は、事を全て放置して、上げる必要がありません(臣民が上奏したことで、群臣に下して議論させた内容は、再び上奏する必要はありません。放置するべきです。原文「諸臣民所上章下議者,事皆寝勿上」)。臣莽が尽力して制礼作楽(礼楽制度の作成)を完成できるようにしてください。事が成ったら引退を賜って(賜骸骨)家に帰り、賢者の道を避けること(賢者に昇格の道を開くこと)を願います。」
甄邯等が王太后に進言し、王太后が詔を下しました「公(王莽)は会う度にいつも流涕叩頭し、『賞を受けないことを願う。賞が加えられたら位にいられない』と言っています。今は(礼楽の)制作がまだ定まっておらず、事は公を待って決められるので(王莽の決定が必要なので)、暫くは公の意見を聞いて制作させることにします。完成したら、群公(諸大臣)はそれを報告し、前議を探究しなさい。但し九錫の礼儀は早く上奏しなさい。」
五月、策書を発して安漢公・王莽に九錫を与えました。王莽は稽首再拝してそれを受け入れます。
九錫については前年も書きましたが、若干異なるので、改めて『資治通鑑』本文と胡三省注を元に王莽に下賜された九錫の内容を書きます。
緑韍(「韍」は膝掛です)、袞冕(礼服として使う衣冠です)、衣裳(衣服。上に着るのが「衣」、下に穿くのが「裳」です)、瑒琫・瑒珌(「瑒」は玉の名、または玉のように美しい黄金です。刀の鞘につける飾りで、上の飾りを琫、下の飾りを珌といいます。「瑒琫・瑒珌」は「瑒」で装飾された刀を指すと思われます)、句履(先端が突き出て二つに分かれている靴です)、鸞路・乗馬(「鸞路」は帝王の車、「乗馬」は四頭の馬です)、龍旂九旒(九本の吹き流しがついた龍の旗です)、皮弁(皮の冠です)、素積(模様がない袴、または白衣です)、戎路・乗馬(「戎路」は「兵車」です)、彤弓矢・盧弓矢(「彤」は赤色、「盧」は黒色です)、左に建てる朱鉞と右に建てる金戚(鉞も戚も斧の一種です)、甲冑一具、秬鬯(美酒)二卣(「卣」は酒を入れる容器です)、圭瓉(玉制の酒器です)二つ、九命青玉珪(「九命」は官爵の等級のようなもので、「上公」を表します。『周礼・春官宗伯・典命』に「典命(官命)は諸侯の五儀と諸臣の五等の命を担当する。上公は九命で伯となり、その国家・宮室・車旗・衣服・礼儀は全て九を節とする。侯伯は七命で、その国家・宮室・車旗・衣服・礼儀は全て七を節とする。子男は五命で、その国家・宮室・車旗・衣服・礼儀は全て五を節とする。王の三公は八命、その(王の)卿は六命、その(王の)大夫は四命である」と書かれています。「命」の数が大きいほど等級が上になり、都城・宮殿の建築や車旗・衣服等の器物および儀礼において優遇されました。九命は臣下における最上位になります。「青」は春の色です。万物を生んで成長させることを意味します)、朱戸(前年参照)、納陛(前年参照)を下賜し、宗官、祝官、卜官、史官を設け(西周成王の命で周公が祝、宗、卜、史の四官を置いたため、王莽もそれに倣いました)、虎賁(勇士)三百人を配置しました。
前年、各地の風俗を確認するために派遣された王惲等八人が巡行を終えて帰還しました。
王惲等は、「天下の風俗は斉同(一つにそろうこと)している」と報告し、郡国の歌謠を偽造して功徳を讃頌しました。その内容は三万言(三万字)に上ります。
閏五月丁酉(初四日)、詔を発して劉秀や王惲等併せて十二人を封侯しました。
太僕・王惲等八人は使者として各地を巡行し、風俗を考察して徳化を宣明し、万国を斉同にしたという理由です。
『資治通鑑』胡三省注によると、前者の四人は紅休侯・劉秀、防郷侯・平晏、寧郷侯・孔永、定郷侯・孫遷です。後者の八人は常郷侯・王惲、望郷侯・閻遷、南郷侯・陳崇、邑郷侯・李翕、亭郷侯・郝党、章郷侯・謝殷、蒙郷侯・逯普、盧郷侯・陳鳳です。
『漢書・外戚恩沢侯表』を見ると、平晏だけは丁丑に封侯されており、劉歆等十一人は丁酉に封侯されています。しかし『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「十二人は同じ功によってそろって封侯された。この年は閏五月甲午朔で丁丑はないので、『表』が誤りである」としています。
広平国の相・班穉だけは王莽を称賛する嘉瑞や歌謡を報告しませんでした。
同じ頃、琅邪太守・公孫閎が公府で災害について語りました。
大司空・甄豊は属(『資治通鑑』胡三省注によると、大司空掾と属二十九人がいました。掾の秩は比三百石、属は比二百石です。「正」を「掾」、「副」を「属」といいます)を広平国と琅邪郡に駆けさせ、その地の吏民が二人を弾劾するように促しました。両方の地から「公孫閎は不祥を空造(捏造)し、班穉は嘉応を絶っています(無視して朝廷に報告しません)。嫉妬して聖政を害しているので、どちらも不道です」と上書されます。
王太后が言いました「徳美を宣揚しないのは、災害について語る者と罰を異ならせるべきです(徳美を宣揚しないのと災害を捏造するのとでは罪が異なります)。それに、班穉は後宮の賢家(賢人の家族)なので、私が哀しむところです。」
公孫閎だけが獄に下されて誅殺されました。
懼れた班穉は恩を述べて謝罪する上書をしてから、相印を返上して延陵(成帝陵)の園郎(陵園を守る官)になることを願い出ました。
王太后はこれに同意しました。
次回に続きます。