西漢時代318 平帝(十二) 傅太后と丁姫 5年(2)

今回は西漢平帝元始五年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
王莽が上奏しました「市場の売り物に複数の価格がないこと(売買が公平に行われていることを意味します。原文「市無二賈」)、官に獄訟(訴訟)がないこと、邑に盗賊がいないこと、野に飢民がいないこと、道に落ちている物を拾って着服する者がいないこと、男女が道を異ならせること、これらを制とし、犯した者には象刑を加える(原文「又奏為市無二賈,官無獄訟,邑無盗賊,野無飢民,道不拾遺,男女異路之制,犯者象刑」)」という内容です。
 
象刑というのは犯した罪によって衣服や装飾を換えて見せしめにする刑です。『資治通鑑』胡三省注によると、墨刑(刺青の刑)に値する罪を犯した者は巾で顔を覆い(犯墨者蒙)、劓刑(鼻を削ぐ刑)に値する罪を犯した者は服を赤くさせ(犯劓者以赭著其衣)、髕刑(膝の骨を取る刑)に値する罪を犯した者は髕(膝)を墨で塗り(犯髕者以墨蒙其髕)宮刑(去勢の刑)に値する罪を犯した者は(草履)を履かせ(犯宮者、大辟(死刑)に値する罪を犯した者は襟がない布衣を着させました(犯大辟者布衣無領)
象刑を行うというのは、肉刑や死刑を必要としない、教化が行き届いた平穏な社会を意味しています。
 
[] 『漢書帝紀からです(『資治通鑑』は前年に書いています)
天下から逸経(失われた経典)、古記(古書)、天文、歴算、鍾律(音楽)、小学(文字学)、史篇西周時代の史籀の書。前年参照)、方術、本草(薬草)に精通している者および五経論語、孝経、爾雅(古代の辞書)を教授した者を招き、所在地から一封軺伝(「軺」は軽車、「伝」は伝馬、伝車です。伝車を使う時は一尺五寸の木に書かれた伝信が必要で、封に御史大夫の印章が押されていました。一馬に一封が必要だったので、一馬が牽く軺伝を「一封軺伝」といいます)を走らせて京師に向かわせました。
京師に至った者は数千人に及びます(『漢書帝紀』では「至者数千人」ですが、『資治通鑑』では「前後至者千数(前後して至ったものは千人以上になった)」と書かれています。前年参照)
 
[] 『漢書帝紀からです。
前年、梁王・劉立が衛氏と結んだという罪を弾劾されたため、劉立は自殺し、国が廃されました。
本年、梁孝王劉武(文帝の子)の玄孫の耳孫劉音を王に立てました。
 
漢書文三王伝(巻四十七)』と『漢書諸侯王表』によると、王莽が太皇太后に進言して孝王の玄孫の曾孫に当たる沛郡卒史劉音を梁王に立てました。梁孝王の後を継がせるためです。しかし王莽が帝位を簒奪すると劉音は王位を公に落とされ、その翌年には国が廃されました。
漢書帝紀』は「梁孝王の玄孫の耳孫」としており、「耳孫」は通常「名前を聞いたことしかない遠い子孫」を指しますが、ここでは曾孫の意味かもしれません。
 
[] 『資治通鑑』からです。
王莽が上奏しました「共王(定陶共王劉康)の母(傅太后と丁姫哀帝の母)は以前、臣妾の道を守りませんでした(前不臣妾)。しかしその冢(墓)の高さは元帝の山陵と等しく、しかも帝太后と皇太太后の璽綬を懐にして埋葬されています。共王の母と丁姫の冢を掘り起こしてその璽綬を取り、共王の母を定陶に帰らせ、共王の冢の傍に埋葬することを請います。」
太后は既に過ぎた事なので墓を掘り起こす必要はないと考えました。
しかし王莽が固く争ったため、王太后は詔を発し、元の棺のまま改葬するように命じました。
すると王莽がまた上奏しました「共王の母と丁姫の棺はどちらも名梓宮(有名な梓木で造った棺。「梓宮」は棺を意味します)で、珠玉の衣を身につけており、藩妾の服ではありません。改めて木棺に換えて珠玉の衣を除き、丁姫は媵妾の傍に埋葬することを請います。」
太后はこれにも同意しました。
官位にいる公卿は皆、王莽の意見に阿諛追従し、銭帛を納めたり子弟を派遣して改装を手伝いました。諸生や四夷も併せて十余万人が道具を持ち、将作大匠を援けて共王の母と丁姫の冢(墓)を掘り起こします。
二旬(二十日)の間に両方とも平らになりました。
王莽は更に棘でその地を囲んで世の人々に対する戒めにしました。
 
また、王莽は共皇廟を破壊し、共皇廟を建てるように主張した泠褒と段猶哀帝建平元年6年参照)を合浦に遷しました。
 
漢書何武王嘉師丹伝(巻八十六)』には「泠襃(泠褒)、段猶等を全て合浦に遷し、また、高昌侯董宏を免じて庶人にした」とあります。しかし『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「哀帝建平四年(前3年)に董宏は既に死に、哀帝元寿二年(前1年)に、子の董武が父の佞邪に坐して免じられているので、今に至るはずがない。『師丹伝』の誤りである」と解説しています。
 
共皇廟の建設に反対して罷免された師丹が召されて公車(官署)に赴きました。関内侯の爵位を与えられ、故邑の収入を得ることになります。
数カ月後には改めて義陽侯に封じられましたが、一月余で死にました。
 
師丹は成帝綏和二年(前7年)に高楽侯(または「高郷亭侯」)に封じられました。故邑の収入というのは高楽侯の収入で、『漢書外戚恩沢侯伝』によると高楽侯は三千三十六戸を擁しました。
封侯されて一年後の哀帝建平元年(前6年)に罷免されました。
その後の事を『外戚恩沢侯伝』はこう書いています「建平元年、漏洩の罪に坐して免じられる。(平帝)元始三年3年)二月癸巳、改めて義陽侯になる。二か月後に死ぬ。」
本年は元始五年なので、元始三年は二年前になります。
しかし『漢書外戚伝下(巻九十七下)』は元始五年に共王の母と丁姫を改莽した事件を書いています。
また、この事件が原因で馬宮が恐れて引退しますが(下述します)、『漢書公卿百官表下』を見ると、馬宮は本年八月に免じられるので、事件があったのはやはり本年のはずです。
よって、『外戚恩沢侯伝』が「元始三年」としているのは、恐らく「元始五年」の誤りです。
更に、『長暦』では本年は二月丙申朔なので、「癸巳」がありません。『外戚恩沢侯伝』の「二月癸巳」も誤りのようです(以上、『資治通鑑』胡三省注参照)
尚、『何武王嘉師丹伝』によると、義陽侯の封邑は二千百戸です。師丹の諡号は節侯といい、子の師業が継ぎました。王莽が敗亡してから義陽侯国も廃絶されます。
 
哀帝時代、馬宮は光禄勳として丞相、御史と共に議論し、傅太后諡号を孝元傅皇后に定めました(傅太后哀帝元寿元年2年に死に、孝元傅皇后の諡号が贈られました。当時の丞相は王嘉、御史大夫は賈延です)
 
王莽が傅太后の尊号について議論した者を追及しましたが、馬宮だけは王莽に厚く遇されていたため、罪が及びませんでした。
しかし馬宮は心中で慚愧して懼れます。そこで上書して言いました「臣は以前、定陶共王の母の諡号について議論しましたが、上の者の意見に迎合雷同し(希指雷同)、経義に背いて偏った意見を述べ(詭経僻説)、そうすることで主上を惑わし誤らせました。臣として不忠です。幸いにも心を洗って自新する機会(洒心自新)を蒙りましたが、誠に再び闕庭を望む顔がなく、再び官府に居る心がなく、再び国邑を食すべきでもありません。太師大司徒扶徳侯の印綬を返上し、賢者の路を避けること(賢者が仕官する道を開くこと)を願います。」

八月壬午(二十日)、王莽が王太后の詔として馬宮に策書を下賜し、こう言いました「四輔の職は国の維綱(国を維持する綱。綱紀、原則)となる。三公の任は鼎足として君を支える。鮮明(精明)固守がなかったら、その位には居られない。君の言は至誠であり、敢えて自分の過失を粉飾しようとしないので、朕は甚だこれを尊重する(朕甚多之)。よって君の爵邑は奪わないことにする。太師と大司徒の印綬を使者に返上し、侯の身分で家に帰れ(以侯就第)。」
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
王莽は皇后(王莽の娘)に子孫の瑞があったため、子午道を通しました。杜陵から南山を貫いて漢中に至ります。
 
「子孫の瑞」は「子孫ができる兆し」という意味ですが、ここでは王皇后に初潮があった、もしくは王皇后が初潮の歳になったことを指します。
資治通鑑』胡三省注によると、男は生後八カ月で歯が生えて八歳で歯が抜け換わり、二八十六歳で陽道が通って(精通)八八六十四歳で陽道が絶たれます。
女は生後七カ月で歯が生えて七歳で歯が抜け換わり、二七十四歳で陰道が通って(初潮)七七四十九歳で陰道が絶たれます。
王皇后はこの年十四歳です。
 
五行の考え方では、「子」は「水」「北」、「午」は「火」「南」に通じ、水(子)天一によって牡(雄。陽)となり、火(午)は地二によって牝(雌。陰)となります天一が水を生み、地六がこれを成し、地二が火を生み、天七がこれを成すといわれています)。よって火(雌)は水(雄)の妃になります。
「子午道」は「子(水。北。牡)」と「午(火。南。牝)」を通した道なので、この道を造った事には、陰陽雌雄を繋げて子孫繁栄を助けるという意味がありました。
また、長安南の山を秦嶺といい、子午という谷があったため、そこからも「子午道」と呼ばれました。この子午谷は一名を樊川、一名を御宿といいます。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
泉陵侯劉慶が上書しました「周成王は幼小だったので、周公が居摂しました。今、帝は春秋に富んでいるので(若いので)、安漢公に天子の事を行わせて周公のようにするべきです。」
群臣は皆、「劉慶の言の通りにするべきです。」と言いました。
 
泉陵侯は景帝の子長沙王の家系です。武帝の時代、長沙王劉発(定王)の子劉賢が泉陵侯に封じられました。これを節侯といいます。劉賢の後、戴侯劉真定が継ぎました。劉真定の子が劉慶(頃侯)になります。
尚、「泉陵侯」を『漢書王子侯表上』では「衆陵侯」としています。『漢書王莽伝上(巻九十九上)』で顔師古がこう解説しています「『王莽伝』『翟義伝(翟方進伝・巻八十四)』とも「泉陵」としており、『地理志』では泉陵県が零陵郡に属しているので、『王子侯表』は「衆陵」としているが、誤りである。」
 
 
 
次回に続きます。