西漢時代319 平帝(十三) 平定の死 5年(3)

今回で西漢平帝元始五年が終わります。
 
[十三] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。
この頃は既に平帝が成長していました(春秋益壮)。平帝は衛后の件(母衛后が京師に入れず、親族は全て殺されました)が原因で怨みを抱いて喜べませんでした。
 
冬十二月、王莽が臘日を理由に椒酒を献上しました。
臘日は冬の祭祀を行う日です。椒酒は山椒の実等を入れた酒です。
 
王莽が献上した酒には毒が入っていました。平帝が毒に侵されて病になります。
王莽は策書を作り、泰畤で平帝の命請いをしました。自分の身が平帝の代わりに犠牲になることを願います。
策書は金縢(金の帯で封をすること。ここでは「金縢の匱(金の帯で封をした箱)」を意味します)に入れて前殿に置かれました。王莽は諸公に訓戒してこの事を他言しないように命じます。
これは西周の周公の故事を真似しています。西周武王が病に倒れた時、周公が祈祷して策書を金縢の匱に入れ、他言を禁じました。後に成王が即位してから周公の専権を疑いましたが、金縢の匱を発見して周公の忠心を知り、感動して心を入れ変えました。
 
丙午(中華書局『白話資治通鑑』は「丙午」を恐らく誤りとしています)、平帝が未央宮で死にました。
平帝は九歳で即位し、翌年改元しました。在位年数は五年で、享年わずか十四歳です。
 
天下に大赦しました。
王莽は天下の六百石以上の官吏に命じ、全て三年の喪に服させました。
 
王莽が(王太后に)上奏し、孝成廟を尊重して統宗とし、孝平廟を尊重して元宗とするように勧めました。
 
前年(平帝元始四年4年)、皇考廟(宣帝の父の廟)が廃されて太祖高帝、太宗文帝、世宗武帝、昭帝、中宗宣帝、高宗元帝、成帝と共皇廟哀帝の父の廟)の八廟が残され、本年、共皇廟も廃されて七廟になりました。
今回、平帝が死に、王莽の上奏によって成帝が統宗に、平帝が元宗になりました。昭帝が祖宗に入らないということは、平帝が廟に入ったため、昭帝が外されたのだと思います。
こうして太祖高帝、太宗文帝、世宗武帝、中宗宣帝、高宗元帝、統宗成帝、元宗平帝の一祖六宗が決められ、天子七廟の制度に符合しました。
 
有司(官員)が建議して言いました「礼によるなら、臣下には夭折の主君はいないものです(臣不殤君)。皇帝は年が十四歳になったので、礼によって入斂し(棺に納め)元服を加えるべきです。」
上奏は裁可されました。
平帝を棺に納めて元服を加え、成人として康陵に埋葬します。
資治通鑑』胡三省注によると、康陵は長安の北六十里にありました。
 
漢書帝紀』から平帝時代の評価です「孝平皇帝の世は、政治が王莽から出され、(王莽は)善行を褒め称えて功績を顕揚することで自らを尊盛にした。その文辞を観ると、方外の百蛮で服したくない者はなく、休徵(美徴)嘉応が現れて、声(泰平を讃頌する歌)が並んで作られた。しかし上に変異が現れて下で民が怨んでいることに対しては、王莽も文飾できなかった(文章で隠すことができなかった)。」
 
[十四] 『漢書帝紀からです。
詔を発しました(恐らく王太后の詔です)「皇帝(平帝)は仁恵で顧哀(人を思って哀憫すること)しないことがなかった。しかしいつも疾()が一度発すると、気がすぐに上逆し、言語を害したため、遺詔を出すのが間に合わなかった。媵妾(皇后以外の妃嬪。皇后に従って嫁いだ者)を出して全て家に帰らせ、(改めて)嫁ぐことを許す。孝文時の故事と同じである。」
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
長楽少府平晏が大司徒に任命されました。八月に引退した馬宮の代わりです。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
太后と群臣が誰を後嗣にするか議論しました。
当時、元帝の家系は既に途絶えており、宣帝の曾孫で王位に居るものが五人、列侯が四十八人いました。
資治通鑑』胡三省注から五王と四十八侯を列記します。それぞれの詳細は省きます。
五王は下記です。
淮陽王劉縯、中山王成都、楚王劉紆、信都王劉景、東平王開明
 
四十八列侯については、下記五十人を書いています。
広戚侯劉顕、陽興侯劉寄、陵陽侯劉嘉、高樂侯劉修、平邑侯劉閔、平纂侯劉況、合昌侯劉輔、伊郷侯劉開、就郷侯劉不害、膠郷侯劉武、宜郷侯劉恢、昌城侯劉豊、楽安侯劉禹、陶郷侯劉恢、釐郷侯劉褒、昌郷侯劉且、新郷侯劉鯉、郷侯劉光、新城侯劉武、宜陵侯劉封、堂郷侯劉護,成陵侯劉由、成陽侯劉衆、復昌侯劉休、安陸侯劉平、梧安侯劉譽、朝郷侯劉充、扶郷侯劉普、方城侯劉宣、当陽侯劉益、広城侯劉疌、春城侯劉允、呂郷侯劉尚、李郷侯劉殷、宛郷侯劉隆、寿泉侯劉承、杏山侯劉遵、厳郷侯劉信、武平侯劉璜、陵郷侯劉曾、武安侯、当陽侯劉萌、西陽侯劉偃、桃郷侯劉立、栗郷侯劉玄成、金郷侯劉不害、平通侯劉且、西安劉漢、湖郷侯劉開、重郷侯劉少柏。
胡三省は「広戚侯劉顕は孺子(平帝の後継者)の父であり、栗郷侯劉玄成はこれより前に侯を免じられていたので、四十八人である」としています。
しかし『漢書王莽伝上(巻九十九上)』には「広戚侯劉顕等四十八人」と書かれているので、広戚侯劉顕の子が天子に選ばれたからといって四十八人から名を外す必要はないはずです。四十八人は恐らく四十九人の誤り、あるいは、劉玄成以外にも爵位を失っていた者がいたのかもしれません。
 
本文に戻ります。
王莽は五王と四十八(四十九)侯が既に成長していることを嫌い、「兄弟は互いに後(後継者)になることはできない」と言いました。
平帝は中山王劉興の子で、劉興は元帝の子、元帝は宣帝の子なので、平帝は宣帝の曾孫にあたります。五王四十八列侯も宣帝の曾孫で平王と同じ世代に当たるので、王莽は「兄弟」の関係にあると見なしました。
 
そこで王莽は宣帝の玄孫(曾孫の子)を全て集めて選立することにしました。
 
この月、前煇光謝囂が上奏し、武功長孟通(武功県長です。『資治通鑑』胡三省注によると、武功県は元々扶風に属しましたが、王莽が京師を分けて前煇光を置いてから、武功県も前煇光に属させました)が井戸を掘って白石を得たことを報告しました。
白石の上は円形、下は方形で、丹書(赤い文字の文書)がありました。「安漢公莽が皇帝に為ることを告げる(告安漢公莽為皇帝)」と書かれています。
西漢末から符命(天命による予言)が盛んに使われるようになりますが、ここから始まります。
 
王莽は群公を使ってこの事を王太后に報告させました。
太后が言いました「これは天下を誣罔(欺瞞)することなので、施行してはなりません。」
太保舜が王太后に言いました「事が既にこのようになったのですから、どうしようもありません。阻止するにも力が足りないので止められません(力不能止)。それに王莽が敢えて他の考え(帝位簒奪の野心)を持つことはなく、ただ称摂して(摂政を称して)その権を重くし、天下を塡服(鎮服。力で服従させること)したいだけだけです。」
太后は内心では同意してはならないと知っていましたが、力では制止できないため、ついに同意しました。
 
王舜等がすぐに王太后に詔を下させました「孝平皇帝が短命で崩じました。既に有司を使って孝宣皇帝の玄孫二十三人を集めさせ、相応しい者を差度(較べて選ぶこと)して孝平皇帝の後を継ぐことになっていますが、玄孫は襁褓にいる年なので、至徳の君子を得なかったら、誰が安んじられるでしょう。安漢公莽は三世(成帝哀帝平帝)輔政し、周公と世は異なっても(功績が)符合しています。今また前煇光囂、武功長通が丹石の符を上言したので、朕はその意を深思しました。『為皇帝』というのは、皇帝の事を摂行するという意味です。よって安漢公に居摂践祚(帝位に登って大臣として政治をすること。「居摂」は大臣の地位で政治を行うこと、「践祚」は帝位に登ることです)させ、周公の故事と同等にします。礼儀(王莽が摂政するための典礼儀式)を具えて(準備して。整えて)上奏しなさい。」
 
群臣が上奏しました「太后は聖徳が昭然(明らかなこと)としており、深く天意を見ているので、詔によって安漢公に居摂させました。臣は安漢公が践祚(帝位に登ること)し、天子の韍冕(衣冠)を着て、戸牖の間(東西の戸や窓の間)で斧依(斧の模様が描かれた屏風)を背にして立ち、南面して群臣に向かい(南面朝群臣)、政事を聴き、車服の出入りには警蹕(道を清めたり護衛すること)を設け、民臣は(王莽の前では)臣妾と称し、全て天子の制と同等にすることを請います。天地を郊祀し、明堂で宗祀し、宗廟で共祀し、群神に享祭する時は、賛(祭祝の辞)で『假皇帝』といい(祭祀の言葉では王莽を「假皇帝」と称し。「假」は「代理」の意味です)、民臣は『摂皇帝』といい、自らは『予』と称します。朝事を平決(裁決。評議決定)する時は、常に皇帝の詔の形式を使って『制』と称します。こうすることで皇天の心を奉順(受け入れて従うこと)し、漢室を輔翼し、孝平皇帝の幼嗣(幼い後継者)を保安し、寄託(「寄」は天下を任されていること、「託」は平帝の後継者を託されていることです)の義を完成させ、治平の化(教化)を興隆させます。太皇太后と帝皇后(平帝の皇后。王莽の娘)を朝見する時はどちらにおいても臣節を回復します太皇太后と帝皇后に対しては臣下の礼節を守ります)。宮(王莽の邸宅)(家庭内)(封国。新都国)(『資治通鑑』胡三省注によると、武功県が王莽の采邑とされ、漢光邑と呼ばれました)においては自ら(自由に)政教を施し、諸侯の礼儀における故事(前例)と同等にさせます(封国や封邑内では独立した諸侯と同等であり、朝廷の干渉を受ける必要がありません)。」
太后は詔を発して「可」と言いました。
 
 
 
次回に続きます。