西漢時代320 平帝(十四) 劉崇挙兵 6年
丙寅 6年
王莽が摂政したので居摂に改元します。
『資治通鑑』胡三省注はこう書いています。「上に天子がいないため、『資治通鑑』は王莽によって年をつなげなければならなかった(『資治通鑑』は本年から王莽の時代としています)。「假皇帝」と書かず直接「王莽」と書いているのは、王莽の摂政を認めなかったからである(不與其摂也)。帝位を簒奪するに及んでも(新王朝に入ってからも)「王莽」と書くのは、簒奪を認めなかったからである(不與其簒也)。呂后や武后(唐代)を(皇帝とみなさず)「太后」と書いたが、その義(意味)も同じである。」
三月己丑(初一日)、宣帝の玄孫・劉嬰を皇太子に立てました。号を孺子といいます。
「孺子」は子供の意味です。皇帝ではなく皇太子とし、孺子と号したのは、成人したら政権を返還するという意思を示すためです。
劉嬰は広戚侯・劉顕の子です。年は二歳で、卜相が最も吉という理由で立てられました。
太保・王舜を太傅・左輔に、大司空・甄豊を太阿・右拂に(大司空はそのままです)、右将軍・甄邯を太保・後承にしました。
また、四少(少師、少傅、少阿、少保)を置きました。秩は全て二千石です。
四月、安衆侯・劉崇が相・張紹と謀って言いました「安漢公・莽は必ず劉氏を危うくする。天下がこれを非としているのに(反対しているのに)、敢えて先に事を挙げる者がいない。これは宗室の恥だ。私が宗族を率いて先(筆頭)となれば、海内が必ず和すだろう。」
『漢書・王子侯表上』によると、安衆侯国は長沙定王・劉発(景帝の子)の子・劉丹(康侯)が武帝時代に封じられました。その後、節侯・劉山柎、繆侯・劉毋妨、釐侯・劉襃、劉●(「禁」の右に「欠」。『漢書・王子侯表』には諡号が書かれていません)と続き、劉崇の代に至りました。
しかし張紹等は宛に入れず敗れました。
張紹の従弟・張竦と劉崇の族父(曽祖父の兄弟の孫。または同族で自分より一世代上(父の世代)の者)・劉嘉は京師の門闕を訪ねて自ら朝廷に帰順しました。
王莽は二人を赦して無罪とします。
そこで張竦が劉嘉の代わりに上奏し、王莽の徳美を称賛して劉崇の罪状を述べてからこう言いました「宗室のために倡始(率先)し、父子兄弟で籠(土を運ぶ籠)を背負って鍬を担ぎ(負籠荷鍤)、南陽に駆けて劉崇の宮室に汚水を溜め(原文「豬崇宮室」。叛逆した国は宮室を破壊して汚水を溜めるのが古の制度です)、古制のようにすることを願います。劉崇の社(土地神の社)に及んでは亳社(商王朝の土地神の社です。西周が商王朝を滅ぼしてからは諸侯国に亳社を建てさせて亡国の戒めにしました)のようにして諸侯に下賜し、永く監戒として使うべきです。」
王莽は大いに喜び、劉嘉を率礼侯に封じました。劉嘉の子七人には全て関内侯の爵位を下賜します。
後に張竦も淑徳侯に封じられました。
劉崇の室宅は汙池(汚水の池)にされます。
この後、謀反した者の宮室は全て汙池にすることになりました。
今までは、祭祀の言葉では「假皇帝」と称しましたが、民臣は「摂皇帝」と呼び、自らは「予」と称しました。また、太皇太后と帝皇后(平帝の皇后。王莽の娘)を朝見する時はどちらも臣節を回復し、臣下としての礼節を守ることになっていました。王太后の前では「臣」「臣莽」と称していたはずです。
今回、王太后の前でも「假皇帝」と称すことが許されました。
冬十月丙辰朔、日食がありました。
十二月、群臣が上奏して安漢公・王莽の廬(殿中にある宿泊する部屋)を摂省に、府(官署。官府)を摂殿に、第(邸宅)を摂宮に改名するように請いました。
王太后は全て許可しました。
この年、西羌の龐恬、傅幡等が王莽に土地を奪われたことを怨み、反撃して西海太守・程永を攻めました。
程永は奔走します。
王莽は程永を誅殺し、護羌校尉・竇況を派遣して西羌を撃たせました。
次回に続きます。