西漢時代321 平帝(十五) 翟義挙兵 7年
丁卯 7年
春、竇況等が西羌を撃破しました(前年参照)。
五月、改めて貨幣を造りました。
錯刀は一枚が銭五千に値し、契刀は一枚が銭五百に値し、大銭は一枚が銭五十に値します。これらの新貨幣は五銖銭と並行して使われました。
『資治通鑑』胡三省注にそれぞれの貨幣の説明が書かれていますが省略します。
民で盗鋳する者が多数いたため、列侯以下、国民が黄金を携帯することを禁止し、黄金を御府(『資治通鑑』胡三省注によると、少府に御府令と丞がいました。御府は天子の衣服を主管します)に納めたら同じ値の代価を受領できることにしました。
しかし政府はいつまでも同額の代価を与えませんでした。
翟方進(成帝時代の丞相)の子・翟義が東郡太守を勤めていました。
翟義が姉の子・上蔡の人・陳豊と謀ってこう言いました「新都侯(王莽)が天子の位を執って(摂天子位)天下に号令している。故意に宗室で幼稚な者を選んで孺子とし、周公が成王を輔佐した義に依託した(利用した)。暫くは観望しているが(天下の人心を試しているが)、必ず漢家に代わるはずだ。その形跡はしだいに見え始めている(其漸可見)。今は宗室が衰弱し、外には強蕃(強い藩国)がなく、天下が首を傾けて(頭を下げて)服従し、国難に亢扞(抵抗防御)できる者がいない。私は幸いにも宰相の子という立場を備え、身は大郡を守ることができた。父子が漢の厚恩を受けたので、義によって国のために賊を討ち、社稷を安定させなければならない。兵を挙げて西進し、不当に摂政している者を誅して、宗室の子孫を選び、それを補佐して立てることを欲する。たとえ時命(時機)が成らなくても(たとえ失敗しても)、国のために死に、身が埋められて名を立てられるなら(死国埋名)、なお先帝に対して慚愧することはない。今、これを発するが、汝は私に従う気があるか?」
陳豊は十八歳で勇壮だったため、許諾しました。
そこで翟義は東郡都尉・劉宇、厳郷侯・劉信および劉信の弟に当たる武平侯・劉璜と結謀しました。
劉信の子・劉匡はこの時、東平王だったため、東平の兵を集結させました。
翟義は劉信を天子に立て、自ら大司馬・柱天大将軍を称します。
郡国に檄文を飛ばしてこう伝えました「王莽は孝平皇帝を鴆殺(毒殺)し、天子の位を執って(摂天子位)、漢室を絶つことを欲している。今、天子(劉信)が既に立った。共に天罰を行おう。」
郡国が皆震撼しました。
翟義軍が山陽に至った時には衆十余万になっていました。
翟義挙兵の報告を聞いた王莽は惶懼(恐慌)して食事もできなくなりました。
王莽は自分の党人や親族を諸将に任命しました。軽車将軍・成武侯・孫建を奮武将軍に、光禄勳・成都侯・王邑を虎牙将軍に、明義侯・王駿を強弩将軍に、春王城門校尉(『資治通鑑』胡三省注によると、春王門は長安城東の北側第一門です。元の名は宣平門といい、王莽が改名しました。漢の城門校尉は十二城門を管理しましたが、春王城門校尉という官名を観ると、王莽は十二城門にそれぞれ城門校尉を置いたようです)・王況を震威将軍に、宗伯(『資治通鑑』胡三省注によると、元宗正です。平帝時代に王莽が宗伯に改名しました)・忠孝侯・劉宏を奮衝将軍に、中少府(『資治通鑑』胡三省注によると、この中少府は長楽少府を指すようです。宮中の職なので中少府といいます)・建威侯・王昌を中堅将軍に、中郎将・震羌侯・竇況を奮威将軍にします。
七人は自ら函西(函谷関以西)の人を選んで校尉、軍吏を任命し、関東の甲卒を率い、奔命(緊急で招集された軍)を動員して翟義を撃ちました。
また、太僕・武讓を積弩将軍に任命して函谷関に駐軍させ、将作大匠・蒙郷侯・逯並(逯が姓、並が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、「逯」は「逮」と書くこともあります)を横壄将軍に任命して武関に駐軍させ、羲和・紅休侯・劉秀を揚武将軍に任命して宛に駐軍させました。
三輔(近畿)が翟義の挙兵を聞き、茂陵以西から汧に至る二十三県で盗賊(反王莽軍)が併発しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、右輔都尉は郿県を治めました。郿県と斄県は扶風に属します。斄県はかつて周の后稷が封じられた邑です。
趙朋、霍鴻等が相談して言いました「諸将精兵がことごとく東に向かい、京師は空になった。長安を攻めることができる。」
王莽は再び衛尉・王級を虎賁将軍に、大鴻臚・望郷侯・閻遷を折衝将軍に任命し、西に向かって趙朋等を攻撃させました。
また、常郷侯・王惲を車騎将軍に任命して平楽館に駐軍させ、騎都尉・王晏を建威将軍に任命して城北に駐軍させ、城門校尉・趙恢を城門将軍に任命します。それぞれが兵を率いて趙朋等の攻撃に備えました。
太保・後承・承陽侯・甄邯を大将軍に任命し、高廟で鉞を授けて天下の兵を統率させました。甄邯は左に符節を持ち(左杖節)、右に鉞を握って(右把鉞)城外に駐屯します。
王舜と甄豊は昼夜殿中を巡行しました。
王莽は毎日孺子を抱いて郊廟で祈祷しました。群臣を集めてこう称します「昔、成王が幼かったので周公が摂政したが、管・蔡が禄父(殷紂の子)を挟んで(強制して)叛した。今、翟義もまた劉信を挟んで乱を為した。古の大聖(周公)でもなおこれを懼れたのだから、臣莽の斗筲(小器)ではなおさらだ。」
群臣がそろって言いました「この変に遭わなかったら聖徳が明らかになりません。」
『大誥』は管・蔡の乱が起きた時、周公が征討を宣言した文章です。王莽は自分を周公になぞらえているため、『大誥』を真似しました。その内容はこうです「その報告を聞いた日(翟義謀反の報告を聞いた日。原文「粤其聞日」。「粤」は文の冒頭に置く助詞で意味はありません)、宗室の儁(俊傑)は四百人おり、民の献儀(民が薦めた賢者)は九万夫いた。予(王莽の自称)は謹んで彼等と最後まで謀り、後嗣を継承させて功を立てる(予敬以終於此謀継嗣図功)。」
王莽は大夫・桓譚等を天下に派遣し、班行(公布実行)・諭告させて皇帝の位を孺子に返すという意思を示しました。
王莽の諸将が東の陳留郡菑県に至りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、菑は旧戴国で、漢代は梁国に属しましたが、後に陳留に入りました。秦代は穀県といいましたが、漢兵が起きた時、邑の多くが菑年(凶年。不作)だったため、菑県に改めました。後に東漢章帝が東巡し、陳留菑県の名が善くないので考城に改名します。
朝廷軍が会戦して翟義軍を破りました。劉璜の首を斬ります。
王莽は大いに喜んで詔を下し、まず車騎都尉・孫賢等五十五人を全て列侯に封じました。それぞれ軍中で拝受します。
王莽は戦勝を記念して天下に大赦しました。
吏士精鋭が翟義を攻めて圉城を包囲しました。
十二月、朝廷軍が翟義軍を大破しました。
翟義と劉信は軍を棄てて逃亡し、固始県界内に入ります。
『資治通鑑』胡三省注によると、圉、固始、陳の三県は淮陽国に属します。陳県は淮陽の国都です。
劉信は捕えられず、行方が分からなくなりました。
次回に続きます。