西漢時代322 平帝(十六) 王光自殺 8年(1)

今回は西漢王莽(孺子)始初元年です。二回に分けます。
 
西漢王莽(孺子)始初元年
戊辰 8
 
本年十一月に王莽が始初に改元します(下述します)
 
[] 『資治通鑑』からです。
春、地震があり、天下に大赦しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
翟義を滅ぼした王邑等が京師に帰還し、西に向かって王級等と共に趙朋、霍鴻を撃ちました。
 
二月、趙朋等が殄滅(全滅。消滅)し、諸県が平定されて静かになります。
朝廷軍は兵を整えて凱旋しました(還師振旅)
 
王莾が白虎殿で酒宴を開いて将帥を労い、賞賜を与えました。
詔を下して陳崇に軍功を調べさせ、高低の順位を決めました。周制の五等の爵位に基き、功臣を侯、伯、子、男に封じます(五爵の最上位に当たる公は王莽です。商周の後代も公位にいます。平帝元始四年・4年参照)。その数は三百九十五人に上りました。
「皆、奮怒によって東を指し、西を撃ったので、羌寇、蛮盗、反虜、逆賊は踵を返すこともできず(短い期間で)時に応じて殄滅し、天下が全て服した」という功績によって封侯されます。
 
関内侯の爵位を与えることになった者には、関内侯を「附城」に改名して下賜しました。その数も数百人に上ります。
資治通鑑』胡三省注によると、「附城」の「城」は「墉」に通じます。「墉」は古くは「庸」と書かれました。本来、「庸」には「雇用」や「庸人」の他に「城壁」の意味がありましたが、後に城壁の意味で使う時は「土」をつけて「墉」と書くようになったようです。
よって、王莽の「附城」は周代の「附庸」と同じ意味になります。附庸は天子ではなく大国の諸侯に属しました。
元々関内侯は食邑を持たない侯位で列侯の下に位置するので、王莽は周代の「附庸」と同格とみなして「附城」に改名したようです。
 
王莽は汝南にある翟義の父翟方進および先祖の冢(墓)を掘り起こし、棺柩を焼きました(『資治通鑑』胡三省注によると、翟方進は汝南上蔡の人です)
翟義の三族を皆殺しにし、誅殺は種嗣(後代)にも及びました。
死体は全て同じ阬(穴)に集めて棘や五毒(『資治通鑑』胡三省注によると、「野葛、狼毒の類」です)と一緒に埋められます。
また、翟義や趙朋、霍鴻の党衆の死体を集め、濮陽、無塩、圉、槐里、厔の五カ所で道の傍に積みました(『資治通鑑』胡三省注によると、濮陽、無塩、圉は翟義の党の死体、槐里、厔は趙朋、霍鴻の党の死体です)
死体の山の上に表木(木の標識)を立てて「反虜逆賊鯢」と書きました。
鯢」は鯨です。「」は鯨の古字で雄、「鯢」は雌です。ここでの「鯢」は「反虜」「逆賊」に並べて「凶悪な敵」という意味で使われています。
 
翟義等が敗れたため、王莽は威徳が日に日に盛んになっていると考え、本当の皇帝の位に即くことを謀り始めました。
 
[] 『漢書王莽伝上(巻九十九上)』と『資治通鑑』からです。
群臣が上奏しました「摂皇帝(王莽)の子王安と王臨の爵を進めて公にし、兄の子(王永)王光を封じて衍功侯にするべきだ」という内容です。
 
太后が詔を発してこう言いました「摂皇帝の子を進めて襃新侯(褒新侯)安を新挙公とし、賞都侯臨を襃新公(褒新公)にします。また、王光を衍功侯に封じます。」
 
この時、王莽は新都国を返還していました。『資治通鑑』胡三省注によると、王莽は居摂するようになったので(天下を治めることになったので)、新都国を返したようです。
群臣がまた上奏し、王太后が王莽の孫王宗を新都侯に封じました。
王宗は王莽の長子王宇(平帝元始三年3年参照)の子です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
九月、王莽の母功顕君が死にました。
王莽は天子の位に登って摂政しており(居摂践阼)、漢大宗の後を奉じていたため(漢の大宗に代わる立場にいたため)、功顕君のために緦縗(帝王が諸侯のために着る喪服)を着て、弁(冠)に麻環絰(麻の帯)を加え、天子が諸侯を弔う時の服装をしました。
王莽は壹弔再会しました(「壹弔再会」は直訳すると「一回弔問して二回会す」です。葬礼の形式だと思いますが、具体的にはよくわかりません)
 
王莽は新都侯王宗を喪主にして三年の喪に服させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
司威(『資治通鑑』胡三省注によると、王莽が置いた官で、百官を司察(監督査察)しました)陳崇が上奏しました。王莽の兄の子に当たる衍功侯王光が個人的に執金吾竇況に話をしてある人を殺すように求め、竇況は王光のためにその人を逮捕し、法を及ぼした(処刑した)という内容です。
 
王莽の兄王永は早逝したため、王莽が王永の妻と王光を養ってきました(成帝永始元年16年)
しかし王莽は今回の一件に激怒して王光を厳しく譴責します。
王光の母が王光に言いました「汝は自分で視て長孫、中孫と較べて如何ですか(汝自視孰與長孫、中孫)。」
長孫は王宇、中孫は王獲です。どちらも王莽の子ですが王莽に殺されました。
王光母子は自殺し、竇況も死にました。
 
以前、王莽は自分の母につかえ、嫂(王永の妻)を養い、兄の子(王光)を扶養して名声を得ました。
しかし後に王光が悖虐(道理に背いて暴虐なこと)になると、またそれを利用して公義を示しました。
資治通鑑』胡三省注によると、王光の罪を放置しなかったことが公義ですが、王莽が母の喪に服さなかったことも公義を示すことになったようです。
 
王莽は王光の子王嘉に爵位を継がせて侯にしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、広饒侯劉京が斉郡に新しい井戸ができたことを報告し(『資治通鑑』胡三省注によると、斉郡に広饒県があります)、車騎将軍千人扈雲(『資治通鑑』胡三省注によると、千人は官名で車騎将軍に属します。候、司馬の下です。扈雲は扈が姓、雲が名です)が巴郡に石牛が現れたことを報告し、太保属臧鴻(『資治通鑑』胡三省注によると、漢の公府には掾と属がいました。魯孝公の子彄が臧を食邑にしたので、子孫がそれを氏にしました)が扶風の雍に石(奇石)が現れたことを報告しました。
王莽はこれらを受け入れました。
 
十一月甲子(二十一日)、王莽が王太后に上奏しました「陛下は漢十二世三七の阸(「阸」は「厄」「困難」の意味です。「三七」は「三七の節紀」で、二百十年を指します。「三七の年」は厄年と考えられていたようです。『資治通鑑』胡三省注は「漢元(初年)からこの年で二百十四年になる」と書いています)に遇い、天の威命を継承して、臣莽に詔によって居摂させました。広饒侯劉京が上書してこう言いました『七月、斉郡臨淄県の昌興亭長辛当が一暮(一夜)に複数の夢を見て、こう言われました「わしは天公の使いだ。天公がわしから亭長に告げさせた『摂皇帝がまさに真となる(摂皇帝当為真)。』もしわしを信じないなら、この亭の中に新井ができるだろう。」亭長が晨(朝)起きて亭内を視ると、誠に新井があり、百尺近く地に入っていました(深さは百尺近くありました)。』
十一月壬子(初九日)建が冬至に当たる日(原文「直建冬至」。冬至の日は北斗七星の柄の部分が十二辰の「子」の方位を指します。十二辰は太陽が通る道を十二に分けて十二支をあてはめた天体の概念で、東の子から始まり、丑巳等を経由して西の亥で終わります。「建」は北斗七星の柄が指す方位です。例えば「建子」なら「子」の方位を指し、「建丑」なら「丑」の方位を指します。この年の十一月壬子は北斗七星の柄が「子」を指す冬至の日でした)の巴郡の石牛と、戊午(十五日)の雍の石文はどちらも未央宮の前殿に到りました。臣と太保安陽侯王舜等がそれを視た時、天風が起きて砂塵で暗くなり(塵冥)、風が止んでから石の前で銅符帛図を得ました。その文にはこうありました『天が帝符を告げ、献上した者を封侯する(天告帝符,献者封侯)。』騎都尉崔発等がそれを見て解説しました。
孔子(『論語』の言葉です)はこう言いました『天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏れる(畏天命,畏大人,畏聖人之言)。』臣莽はこれを承用(因襲。遵守)しないわけにはいきません。臣は神祇、宗廟に恭しく仕え、太皇太后と孝平皇后に奏言する時はいずれも『假皇帝』と称し(王莽(孺子)居摂元年6年に王太后を朝見した時だけは「假皇帝」と称すことが許されました)、天下に号令したり天下が事を奏言する時は『摂』と言わず(群臣や民衆の前では「摂皇帝」ではなく「皇帝」を称し)、居摂三年(本年)を始初元年と為し、漏刻は百二十を度とし(当時は昼夜を百刻に分けていました。哀帝建平二年・前5年参照)、これらによって天命に応じることを請います。臣莽は夙夜(朝も夜も)孺子を養育して隆就(成長。成就)させ、周の成王と徳を等しくし、太皇太后の威徳を万方に宣明し、(孺子を)富ませて教育することを望みます(または「天下を富裕にして教化を行き届かせることを望みます。」原文「期於富而教之」)。孺子が元服を加えたら、子に明辟(明君。ここでは明君の政治)を還し(「復子明辟」。『尚書洛誥』の言です。『資治通鑑』胡三省注によると、西周成王が成人してから、周公が政権を還すために言った言葉です)、周公の故事に倣います。」
太后は上奏を許可しました。
 
年号の「始初」は『資治通鑑』の記述で、『漢書王莽伝上(巻九十九上)』では「初始」です。
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「荀悦の『前漢紀』や韋荘の『美嘉号録』、宋庠の『紀年通譜』は全て「始初」としているので、『資治通鑑』はこれに従った。」
しかし斉魯書社の『中国歴代帝王世系年表』等は「初始」としており、現在では「初始」とするのが一般的なようです。
 
本文に戻ります。
衆庶(民衆)は王莽が符命を信奉していると知っていたため、群公(諸大臣。または群臣)に示唆して符命について広く議論させ、それを個別に上奏させました。こうして即真(真の帝位に即くこと)が近くに迫っていることを(王太后や王莽に)示しました。
 
 
 
次回に続きます。