西漢時代323 平帝(十七) 西漢滅亡 8年(2)

今回で西漢が滅びます
 
[] 『資治通鑑』からです。
期門郎張充等六人が共謀し、王莽を脅迫して楚王を擁立しようとしました。
しかし発覚して誅死しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、この時の楚王は劉紆で、宣帝の曾孫に当たります(成帝綏和元年8年参照)
 
[] 『資治通鑑』からです。
梓潼の人哀章(哀が姓、章が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、哀姓は諡号が氏になりました。また、公晳哀、羊角哀等の子孫も哀氏を名乗りました)長安で学問を修めましたが、以前から正しい行動がなく(素行が悪く。原文「素無行」)、大言を好みました。
王莽が居摂しているのを見て、銅匱(銅箱)を作り、二つの検(書物を入れる箱の標題)をつけ、一つには「天帝行璽金匱図」、一つには「赤帝璽某伝予皇帝金策書」と書きました。「某」は高皇帝の名です。避諱の制度があるため、実名を避けて「某」と書いてあります。
『策書』は王莽が真天子になり、皇太后が天命に従うということが書かれていました。
また、『図』と『策書』はどちらにも十一人に官爵を設けて王莽の輔佐にさせることが書かれていました。十一人には王莽の大臣八人の他に、二つの美名を取って「王興」「王盛」という名を入れ、更に自分の姓名である哀章を混ぜました。
 
哀章は斉の井戸や巴郡の石牛の事が発表されたと聞き、その日の黄昏に黄衣を着て匱(箱)を高廟に運びました。これを僕射(『資治通鑑』胡三省注によると、高廟には令と僕射がいました)に渡します。
僕射が朝廷に報告しました。
 
戊辰(二十五日)、王莽が高廟に行って金匱神禅(神が禅譲を命じる銅匱)を拝受しました。
その後、王冠(帝王の冠)を被って王太后を謁見します。
戻ってから未央宮前殿に坐り、書を下して言いました「予(王莾の自称)は不徳ではあるが、皇初祖考黄帝の後、皇始祖考虞帝(帝舜)の苗裔(王莽は黄帝と帝舜を自分の祖としました。「皇初祖考」「皇始祖考」は帝王の始祖という意味です)、更に太皇太后の末属という立場を託された。皇天上帝が大佑を隆顕(顕揚)し、天命が成って序を統一し(天命によって天下の秩序を統一し。「成命統序」)、符契、図文、金匱策書という神明の詔告が、予に天下兆民を属させた(天下の万民を託した)。赤帝漢氏高皇帝の霊が天命を受け継いで金策の書を伝えたので、予は甚だ祗畏(敬畏)し、欽受(恭しく受け入れること)しないわけにはいかない。戊辰(二十五日)は定に当たるので(「戊辰直定」。『淮南子天文訓』に「(太陰が)寅に居る時は建になり、卯に居る時は除になり、辰に居る時は満になり、巳に居る時は平になり、生を掌る。午に居る時は定になり、未に居る時は執になり、陥を掌る(後略)」とあります。「定に当たる」について、『資治通鑑』胡三省注は「建除の次の日が定に当たる」と書いていますが、「建」「除」の次ぎは「満」になるはずです。また、「戊辰」も「辰」の日なので「満」に当たります。「定に当たる」ではなく、「満に当たる」の誤りかもしれません。あるいは、「直定」は単に「吉日」という意味かもしれません)、王冠を御し(被り)、真天子の位に即き、天下の号を定めて『新』とする(『資治通鑑』胡三省注によると、王莽の封国だった新都国から国号を新にしました)。よって朔(暦)を改正し、服色を変え(易服色)、犧牲(祭祀に使う犠牲の色)を変え、旌旗を異ならせて(殊徽幟)、器具制度を改める(異器制)。十二月朔癸酉を始建国元年正月の朔とし、雞鳴によって時と為す(『資治通鑑』胡三省注によると、十二月を正月とし、丑の時を一日の始めにしました。丑の時は深夜一時から三時に当たります)。服色は徳に配して黄を尊び(配徳上黄)、犧牲は正に応じて白を用い、使節の旄幡は全て純黄とし、そこに『新使五威節』と記して皇天上帝の威命を承る(皇天上帝の威命を受け入れて天下に示す)。」
 
王莽が黄色を尊んだのは、新王朝を土徳と位置づけしたからです。黄色は土徳の色で、五行説では、火徳の後を土徳が継ぎます。当時は漢が火徳とされました。
五行については別の場所で書きます。
 
「犧牲は正に応じて白を用いる(犧牲応正用白)」という個所は、『資治通鑑』胡三省注に「万物は丑(深夜一時から三時)において紐牙(萌芽)(紐牙於丑)、その色(恐らく新芽の色です)は白いので、『正に応じて白を用いた』」とあります。「紐牙於丑」は『漢書律暦志上』からの引用です。
王莽は暦の最初を十二月朔癸酉の丑の時としました。十二月は「建丑の月(北斗七星の柄が丑の方角を指す月)」であり、一日の始めも「丑の時」なので、「正に応じる」というのは、「正朔(一年の最初。または新たに正された暦)」に応じるという意味だと思います。
 
王莽は真皇帝の位に即くことになったため、まず諸符瑞を持って王太后に報告しました。
太后は大いに驚きます。
当時、孺子がまだ即位していなかったため、皇帝の璽は長楽宮(王太后の宮殿)で保管されていました。
そこで即位を宣言した王莽は王太后に璽を請いました。しかし王太后は渡そうとしません。
王莽は安陽侯舜を送って王莽の意を伝え、王太后を諭させました。
王舜はかねてから謹敕(慎重で身を正すこと)していたため、王太后に親愛信用されていました。
王舜が王太后に会うと、王太后は王莽のために璽を求めに来たと知り、怒って罵りました「汝等父子宗族は漢家の力を蒙り、富貴を世に重ねたのに(富貴累世)、それに報いないばかりか、人の孤寄(孤児を託すこと)を受けると、便利の時(利がある時)に乗じてその国を奪い、再び恩義を顧みることがありませんでした。このような人は、狗豬(犬豚)でもその残り物を食べません。天下にどうして汝のような兄弟がいるでしょう(原文「天下豈有而兄弟邪」。『資治通鑑』胡三省注によると、「天下にはこのような人がいるはずがないので、全く人心を得られないという意味」、または「天下が共に誅すことになるので、兄弟が存続できなくなるという意味」です)。そもそも、汝等が自ら金匱符命によって新皇帝になり、正朔、服制を変更するのなら、璽も自ら改めて作り、それを万世に伝えるべきです。なぜこの亡国不祥の璽を使うのですか。汝がこれを欲して求めるのなら、私は漢家の老寡婦で旦暮(朝晩)には死ぬので、この璽と共に葬られることを欲します。(汝は)最後まで得られません。」
太后は涕泣しながら言いました。傍に仕える長御(宮女の長)以下の者も皆涙を流します。
王舜も悲傷を抑えられなくなりましたが、久しくしてから王太后を仰ぎ見て言いました「臣等には既に言うことがありません(王莽を諫めることはできません)。王莽は必ず伝国の璽を得ようと欲します。太后は最後まで与えないでいられるのですか(寧能終不與邪)。」
太后は王舜の語が切実だったため、王莽が強制しに来ることを恐れ、ついに漢の伝国の璽を取り出して地に投げ捨てました。
太后が王舜に言いました「私は老いたのでもう死にますが、汝等兄弟が今すぐ族滅されることを知っています。」
 
王舜は伝国の璽を受け取ると帰って王莽に上奏しました。
王莽は大いに喜び、王太后のために未央宮漸台で酒宴を開きました。衆人を思うままに楽しませます。
資治通鑑』胡三省注によると、未央殿西南に蒼池があり、池の中に漸台がありました。
 
王莽は王太后の漢家の旧号を改めたいと思い、太后の璽綬を換えようとしました。しかし王太后が拒否する恐れがあります。
王莽の疏属(遠い親戚)王諫が王莽に媚びるために上書しました「皇天が漢を廃して去らせ、命によって新室を立てました。太皇太后は尊号を称すべきではありません。漢に従って廃すことで天命を奉じるべきです。」
王莽はこの書を王太后に報告しました。
太后は「この言は是です(この言の通りです)」と答えました。『資治通鑑』胡三省注は「恚忿(憤怒。怨恨)の言葉」と書いています。
王莽が言いました「これは誖徳(徳に背くこと)の臣です。罪は誅に当たります。」
 
冠軍(地名)の人張永が銅璧(璧の形をした銅。璧は中央に孔がある円形の玉です)の符命を献上しました。太皇太后を新室文母太皇太后と称すべきだと書かれています。
王莽は詔を下してこれに従いました。
また、王諫を鴆毒で殺し、張永を貢符子に封じました。
 
漢書元后伝(巻九十八)』で班彪がこう評しています(『資治通鑑』も引用しています)「三代夏商周以来、春秋が記載する内容で、王公国君とその失世(亡国)の関係において、女寵が原因ではないことは稀だった。漢が興きてからも、后妃の家から呂氏、霍氏、上官氏のように国家を危うくさせようとした者がしばしば現れた。王莽が興隆してからは、孝元后が漢四世を経歴して天下の母となり、六十余載(年)饗国(享国)し、群弟が代々権勢を握って次々に国柄を持った。五将十侯(『資治通鑑』胡三省注によると、五将は王鳳、王音、王商、王根、王莽で、大司馬になりました。十侯は陽平頃侯王禁、王禁の子敬侯王鳳、安成侯王崇、平阿侯王譚、成都王商、紅陽侯王立、曲陽侯王根、高平侯王逢時、安陽侯王音、新都侯王莽です。または、王鳳は王禁を継いだのでここに入れるべきではなく、淳于長を入れるという説もあります)が現れたが、最後は新都(王莽)が成就した。天下において(天子の)位号が既に移ったのに、元后は巻巻(拳拳。懇切、忠誠の様子です)としてまだ一璽を握り、王莽に授けることを欲しなかった。婦人の仁とは悲しいものである(悲夫)。」
 
 
 
次回から王莽の新王朝に入ります。