西漢時代 揚雄の上書

哀帝建平四年(前3年)匈奴単于が入朝の許可を求めましたが、哀帝は拒否しました。

西漢時代297 哀帝(十二) 匈奴の入朝 前3年(3)

 
黄門郎揚雄が諫めて言いました「臣が聞くに、『六経』の治とは、乱が起きる前に治めることを貴び(貴於未乱)、兵家の勝とは戦う前に勝つことを貴ぶ(貴於未戦)といいます。二者はどちらも微(隠れたこと。深遠なこと)ですが大事の本でもあるので、察しなければなりません。今、単于が上書して入朝を求めましたが、国家は同意せずこれを辞しました。臣の愚見では、漢と匈奴はここから間隙が生まれますが、匈奴は元々五帝も臣にすることができず、三王も制御することができなかったので、間隙を生ませてはならないことは甚だ明らかです。臣には遠くを語ることができません。よって、秦以来の前例を引用してこれを明らかにすることを請います。

秦始皇の強と蒙恬の威をもってしても、西河を窺うことができなかったので、長城を築いて境界にしました(『資治通鑑』胡三省注によると、蒙恬匈奴を駆逐して北河を国境にしました。漢の朔方郡の地に当たります。西河は漢が置いた武威、張掖、敦煌、酒泉の地です。秦はこれらの地を取れなかったので、長城を築いて境界にしました)。漢が興隆したばかりの時も、高祖の威霊をもってしても三十万の衆が平城で困窮しました。当時は奇譎(奇計策謀)の士、石画(大計。堅固な計)の臣が非常に大勢いましたが、最後にどのようにして脱したかは、世に語られることがありませんでした匈奴に包囲された高帝は美女の絵を閼氏に送って包囲を解かせました。陳平の秘計です。中原の礼から外れた恥ずべき計だったため、秘密にされました。公言できないような秘計を使うほど酷い状況に漢軍が置かれていたことを語っています。高帝七年200年参照)。また、高后の時は匈奴が悖慢(道理がなく傲慢)になりましたが、大臣が臨機応変に書を送ったので、(対立を)解くことができました。孝文の時になると、匈奴が北辺を侵暴し、候騎が雍と甘泉に至ったため、京師が大駭(驚愕。震撼)しました。(文帝は)三将軍を発し、棘門、細柳、霸上に駐屯させて匈奴に)備え、数カ月後にやっと兵を解きました。

孝武が即位してからは、馬邑の権(謀)を設けて匈奴を誘おうとしましたが、いたずらに財を費やして師を労しながら、一虜を見ることもできませんでした。単于の面(顔)はなおさらです匈奴の一兵も見ることができなかったので、単于を誘い出すのはなおさら不可能でした)。その後、深く社稷の計を考え、万載(万年)の策を規恢(企画・展開したので、数十万の師を大いに興し、前後十余年もかけて衛青、霍去病に兵を操らせました。こうして、西河を渡り、大幕(大沙漠)を絶ち、(山名)を破り、王庭を襲い、その地の果てまで至り(窮極其地)、敗走する敵を追い(追奔逐北)、狼居胥山で封の儀式を行い(天を祭り)、姑衍で禅の儀式を行い(地を祭り)、瀚海にまで臨み、捕えた名王、貴人は百を数えました。この後、匈奴は震え怖れて和親を求めるようになりましたが、それでも臣と称しようとはしませんでした。

そもそも、前世(先人)は無量の費(際限ない費用)を傾けて無罪の人を労役させることで楽しみ、狼望(『資治通鑑』胡三省注によると、狼望は匈奴の地名、または烽火を挙げて遠望する辺塞を指します)の北で快心を得ようとしていたのでしょうか。(それは違います。)一度も労さない者は久しい安逸を得られず(不壹労者不久逸)、一時の出費を避ける者は永寧を得られない(不暫費者不永寧)と考えたから、百万の師を餓虎の喙(口)で損なうのも忍び(我慢し)、府庫の財を運んで盧山の壑(溝)を埋めても悔やまなかったのです(『資治通鑑』胡三省注によると、「盧山」は「匈奴の山」と「単于南庭」という説があります。また、衛青が自分の墓を盧山に似せており、衛青は顔山に至ったことがあるため、胡三省は「顔山が盧山かもしれない」とも書いています)

本始(宣帝の最初の年号)の初めに至ると、匈奴に桀心(不順の心)が生まれ、烏孫を略奪して公主を侵犯しようと欲しました。そこで五将の師十五万騎を発してこれを撃ちました。この時は獲た物が少なく、ただ威武を奮揚して、漢兵が雷風のようであることを明らかにしただけでした。空で行って空で帰りましたが(損失もありませんでしたが)、それでも二将軍(田広明と田順)を誅殺しました(宣帝本始三年71年参照)北狄が不服だったため、中国はまだ高枕安寝(枕を高くして、安心して眠ること)ができませんでした。

元康、神爵の間(どちらも宣帝の年号です)になると、大化(教化)が神明になり、鴻恩(大恩。皇帝の恩恵)が行き届きました。逆に匈奴では内乱が起き、五単于が争って立ったため、日逐、呼韓邪が国を率いて死に帰し(漢のために死命に帰しました。「死命」は命を棄てて尽力するという意味です。匈奴の日逐王と呼韓邪単于は漢に帰順して漢のために尽力することにしました)、扶伏(匍匐)して臣を称しましたが、それでも(漢は)羈縻(籠絡。懐柔)し、顓制専制しないことを計りました(日逐王と呼韓邪単于は漢に降って臣を称しましたが、漢は匈奴を従属させるのではなく、国とみなして懐柔することにしました)。この後は、朝見を欲した者は拒みませんでしたが、欲しない者にも強要しませんでした。それはなぜでしょうか。外国の天性は忿鷙(残忍強暴)で、形容(容貌)は魁健(魁偉壮健)であり、力を負って気に頼り(自分の力と気迫に頼り。原文「負力怙気」)、善によって教化するのは困難ですが、悪によって習わせるのは容易であり、その強(頑強)は屈するのが困難で、その和は得るのが難しいからです。よって服していない時は師を労して遠くを攻め、国を傾けて財貨を尽きさせ、尸(死体)を伏せて(寝かせて)血を流し、堅城を破って敵を抜き、あのように困難でしたが、服した後は慰薦(慰問。慰撫)撫循(按撫)し、交流して賂(礼物)を贈り、威儀(武威と儀礼俯仰(頭を低くしたり高くすること。一挙一動、または応対の意味です)がこのように備わっているのです。往時においては、かつて大宛の城を屠し(破り。武帝時代)烏桓の塁を踏み(蹂躙し。昭帝時代)、姑繒の壁(営塁)を探り(恐らく偵察、または遠征の意味です。昭帝時代に姑繒等の益州夷の叛乱を平定しました)、蕩姐の場(地)を藉し(蹂躙し。『資治通鑑』胡三省注によると、蕩姐は羌に属します。元帝永光二年42年に隴西羌彡姐が反しました。胡三省は「これを指すのではないか」と解説しています)、朝鮮の旃(旗)を折り武帝時代)、両越の旗を抜きました武帝時代)。近いものは旬月(十日から一月)の役に過ぎず、遠くても二時(半年)の労を越えず、今は既にその庭(異民族の朝廷)で農耕し、その閭(異民族の里)を掃いて除き、郡県を設置して、雲が去って蓆を巻くように(「雲徹席巻」。何も残らないという意味です)、後に余災がなくなりました。しかし北狄だけはそうなりませんでした。真に中国の堅敵であり、三垂(東西と南の三辺)とこれを比べたら隔絶しているので(他の三辺とは比べものにならないので)、前世はこれを非常に重視していました。未だに態度を変えて軽んじるべきではありません。

今、単于は義に帰して款誠(忠誠。誠実)の心を抱き、その庭を離れて(陛下の)前で陳見(意見を述べること。ここでは謁見、朝見)することを欲しています。これは上世(先帝)の遺策であり、神霊が想い望んでいることなので、国家に出費があったとしても、やむを得ないことです。どうして来厭の辞(上游から来て人を圧するという理由)によって拒絶できるでしょう。無日の期(期日がない約束。朝見できる日を決めないこと)によって疎遠にし(今回入朝を拒絶して、今後いつ朝見できるかも確約しなかったら匈奴を疎遠にすることになります)、往昔(往年)の恩(恩恵。恩義)を消したら、将来の間隙を開いてしまいます。単于が)疑って間隙を開き、恨心を持つようになったら、前言を負い(前言を恃みとし)、往辞を縁(原因)にして、怨みを漢に帰し(以前の友好的な言を理由に漢を怨み)、これを機に自ら(漢との関係を)絶ち、ついに北面の心が無くなり、威によっても制せず、諭すこともできなくなります。どうしてこれが大憂にならないのでしょう。

明者とは形がないものを視て、聡者とは声(音)がないことを聴くものです。もし未然の事に先行できたら、兵革を用いる必要がなく、憂患も生まれません。しかしそうできなかったら、一度間隙が生まれてしまったら、たとえ智者が内(国内)で心を労し、辯者が外(国外)で轂撃(奔走。「轂」は車輪の中央で、車軸が外に出っ張った部分です。「轂を撃つ」というのは、轂がぶつかるほど多数の馬車が往来するという意味です)したとしても、未然の時には及びません。そもそもかつて西域を図り、車師を制し、城郭都護三十六国を置いたのは(西域都護を置いて三十六国を管理させたのは)、康居、烏孫が白龍堆を越えて西辺を侵すことに備えるためですか?(違います。)匈奴を制すためにそうしたのです。百年を労しながら一日で失い、十を費やして一を愛すようでは(十の出費によって匈奴を制して来たのに、朝見で使う一の出費を惜しむようでは)、臣は心中で国のために不安を覚えます。陛下が未乱未戦のうちに少しでも留意し、辺萌(辺民)の禍を阻止することを願います。」