西漢時代 鮑宣の上書

西漢哀帝建平四年(前3年)哀帝が董賢や外戚を優遇しているため、諫大夫鮑宣が上書しました。

西漢時代296 哀帝(十一) 董賢の封侯 前3年(2)


以下、『資治通鑑』からです。
「臣が見るに(竊見)、孝成皇帝の時代は外親が権を持ち、人々が親しい者を牽引して朝廷を充塞させたため、賢人の路を妨げ、天下を濁乱させ、奢泰(奢侈)に度がなくなり、百姓を窮困させました。そのため、日食が十回あり、彗星が四回起きました。危亡の徵(兆し)は陛下も自ら見てきたことです。今、なぜ逆に以前よりも更にひどくするのでしょうか。

今、民には七亡があります。陰陽が不和で水旱が災禍となっていること。これが一亡です。県官が更賦(兵役の代わりに納める税)租税を厳しく取り立てていること(重責更賦租税)。これが二亡です。貪吏が公に恃んで(公事を利用して)受取(搾取)が止まないこと。これが三亡です。豪強大姓が蚕食(侵食。土地の兼併)して厭わないこと。これが四亡です。苛吏(酷吏)繇役によって農桑の時を失っていること。これが五亡です。部落が鼓鳴(警戒の太鼓を敲くこと)し、男女が遮列(列になって遮ること)していること(治安が悪いため盗賊に備えなければならないという意味です)。これが六亡です。盗賊が劫略(略奪)し、民の財物を奪っていること。これが七亡です。

七亡だけならまだましですが、そのうえ七死があります。酷吏による殴殺が一死です。治獄(裁判)が深刻(厳酷)であることが二死です。無罪の者を冤罪に陥れているのが三死です。盗賊の横発(横行)が四死です。怨讎によって害しあっているのが五死です。歳悪(凶作)による饑餓が六死です。時気(時疫。疫病)疾疫が七死です。

民に七亡があって一得もないのに、国安を望もうとするのは誠に困難です。民に七死があって一生もないのに、刑措(法を用いないこと)を望もうとするのは、誠に困難です。これは公卿、守相の貪残成化(貪婪暴虐が気風になっていること)がもたらしているのではありませんか。
群臣は幸いにも尊官にいて重禄を食していますが、自ら細民(庶民)に惻隠(同情)を加え、陛下を助けて教化を流そう(広げよう)としている者がいるでしょうか。(彼等の)志はただ私家(自分の家)を経営することにあり、賓客の要求を満足させて(称賓客)姦利を為しているだけです。(彼等は)苟容曲従(意志を曲げて追従すること)を賢とし、拱默(手をこまねいて何も言わないこと)尸禄(いたずらに俸禄を得ること)を智とし、臣宣(私。鮑宣)等のような者を愚と言っています。陛下が臣を岩穴(山洞。隠居の地)から抜擢したのは、誠に豪毛(亳毛。些細。わずか)の益があることを望んだからであって、ただ臣に美食大官を与えて高門(『資治通鑑』胡三省注によると、高門は宮殿の名で、未央宮にありました)の地を重くさせたのではないはずです(皇宮の威厳を高めるために形だけ賢人を用いたのではないはずです。原文「豈徒使臣美食大官重高門之地哉」)

天下とは皇天の天下です。陛下は上は皇天の子であり、下は黎庶(民衆)の父母であり、天のために元元(民衆)を牧養(養育)しているので、皆を同じように視て(視之当如一)『尸鳩(『詩経国風』)』の詩に符合するべきです(尸鳩は鳥の名です。七羽の子鳥がいて、親鳥が平等に育てているという句があります)。今、貧民は菜(野菜)も満足に食べられず(食不厭)、衣服にも孔があいています。父子、夫婦が互いに守り合うこともできず、誠に人を悲しませます(原文「誠可為酸鼻」。「酸鼻」は涙が出そうで鼻がむずむずすることです)。陛下が救わなかったら、どこに帰命すればいいのでしょう(誰を頼ればいいのでしょう)。どうして外親と幸臣董賢だけを養い、多くの賞賜を与えて大万(巨万)を数えているのでしょうか。奴従、賓客に贅沢をさせ(原文「使奴従賓客漿酒藿肉」。「漿酒藿肉」は酒を漿(飲物の一種)とみなして、肉を藿(豆の葉)とみなすことで、贅沢な生活を意味します)、蒼頭廬児(奴僕)も皆、それによって富を得ています。これは天意ではありません。

汝昌侯傅商に至っては、功がないのに封侯されました。官爵とは陛下の官爵ではなく、天下の官爵です。陛下がその官に相応しくない人を選び(取非其官)、相応しくない人に官を与えているのに(官非其人)、それでも天が喜んで民が服すことを望むのは、困難ではありませんか。方陽侯孫寵と宜陵侯息夫躬は辯が衆を移すに足り(その弁才で民衆を動かすことができ)、その強さは独立することもできるほどで、姦人の雄であり、世を惑わすのが最も激しい者です。すぐに罷免して退けるべきです。外親の幼童でまだ経術に通じていない者に及んでは、全て休むように命じて師傅に就かせるべきです。急いで故(旧)大司馬傅喜を招き、外親を統率させるべきです。故(旧)大司空何武と師丹、故(旧)丞相孔光、故(旧)左将軍彭宣は、経学においては皆、博士を経験し、位は皆、三公を経歴しました。龔勝が司直になってからは郡国が全て選挙に慎重になりました(『資治通鑑』胡三省注によると、司直は丞相を輔佐して不法の者を検挙しました。龔勝は正道を守っておもねらなかったため、郡国が恐れて選挙を公正に行うようになりました)(彼等は皆)大いに委任できます。陛下が以前、些細な我慢できないこと(小不忍)によって何武等を退けたため、海内が失望しました。陛下は功徳がなくても甚だ多くの者を許容できているのに、何武等を忍ぶことができないのですか。天下を治める者は天下の心を用いて(自分の)心とするものであり、自分の快意を専らにするだけであってはなりません。」