西漢時代 五行終始説

王莽が西漢から帝位を簒奪した時、自分の王朝を土徳と位置付けました。

西漢時代323 平帝(十七) 西漢滅亡 8年(2)


これは「五行説」「五行終始説」の考えが元になっています。
五行説」とは、万物は「木」「火」「土」「金」「水」という五つの物質から成り立っており、この五つの物質が代表する性質(五徳)が諸事の秩序も形成しているという思想です。
「五行終始説」というのは戦国時代の鄒衍が説いた思想です。鄒衍は五徳が入れ代わりながら万物事象を主宰し、社会に変動を起こす原動力になっていると考えました。「五徳転移」の説とも言います。
例えば歴代王朝の盛衰にも五徳の運行が当てはまり、木徳の王朝(夏)が徳を失ったら金徳の王朝(商殷)が興隆し、金徳の王朝が徳を失ったら火徳の王朝(周)が興隆すると考えました。
 
このように金徳が木徳に克ち、火徳が金徳に克つという考えを「五行相克」といいます。「五行相克」に則ると、歴代王朝の興廃は

黄帝土徳夏木徳商金徳周火徳秦水徳漢土徳

となります。
 
漢の徳に関しては、今までにも何回か触れました。

まず、西漢文帝前十五年(前165年)、丞相張蒼が漢は水徳に当たると主張しました。

周は火徳の国といわれており、火を消すのは水なので、周を滅ぼした秦は自分の王朝を水徳と位置付けました。秦が水徳なら漢は土徳になりますが、秦が短命かつ暴虐だったため、張蒼は「秦には五行に則る資格が無い」と考え、漢が火徳の周を継いだ水徳の王朝であると主張しました。
これに対して、魯人の公孫臣が「漢は土徳に当たる」と主張し、土徳に応じて黄龍が現れると予言しました。黄色が土徳の色だからです。
丞相張蒼は公孫臣の言を否定して退けましたが、実際に成紀で黄龍が現れたため、文帝は土徳説に賛成しました。

武帝も漢を土徳とみなし、太初元年(前104年)には、黄色を尊ぶことにしました(成帝鴻嘉三年18年参照)

 

しかし西漢末になって劉向劉歆父子が「五行相克」の考えを否定しました。『漢書郊祀志下』の「賛」がこれについて書いているので、以下引用します。

「漢興の初(漢が興きたばかりの時)は庶事(諸事)が草創(創建)の段階だったため、叔孫生(叔孫通)が簡単に定めた朝廷の儀があるだけだった。正朔暦法服色郊望(祭祀)の事においては、数世に及んでもまだ章(規定)がなかったのである。

孝文の時代に至って夏郊(夏の郊祀)を始めたが、張蒼が水徳を主張したのに対し、公孫臣や賈誼は土徳に当たると考え、結局明らかにできなかった。
孝武の世になると、文章(礼楽制度)が盛んになり、太初に改制した。そこで児寬、司馬遷等も公孫臣と賈誼の言に従い、ついに服色・数度が黄徳(土徳)に順じることになった。彼等は、五徳の伝は『不勝(火は水に勝てず、水は土に勝てないという考え方。「相勝」「相克」の思想)』に従うと考え、秦が水徳だったので、漢は土(土徳)に拠ってこれに克ったとみなした。

しかし劉向父子は、『帝出于震(『帝王世紀』の記述で、「庖犠氏が「震」から生まれた」という意味です。「震」は「辰」に通じ、「東」「春」「木(木徳)」を意味します)』とあることから、包羲氏が始めて木徳を受けたと考えた。その後、母によって子に伝えられ(原文「以母伝子」。恐らく世襲されたという意味です)、終わったらまた始まり、神農、黄帝以下、唐(帝堯)(帝舜)三代夏商周を経歴して、漢が火(火徳)を得たのである。そのため高祖が始めて起った時、神母が夜に号哭し、赤帝の符を明らかにした。その結果、旗章を赤とし、自ずから天統を得ることができた(『漢書』の注はこう書いています「西漢末には)劉向父子にこの議(意見)があったが、当時は施行されず、東漢光武帝建武二年26年)になってやっと火徳を用いて色は赤を尊ぶようになる」)。昔、共工氏が水徳として木火の間におり、秦と運を同じくした。どちらも次序(順序)ではなかったので、永くなかったのである(下述します)。このように語ると、祖宗の制には自然の応があり、時宜に順じているようだ。」

 
「五行相克説」に反対した劉向父子の思想を「五行相生説」といいます。
後の徳が前の徳に打ち克つのではなく、前の徳が後の徳を生み出すという考えです。

「五行相生」による歴代王朝の興廃は『漢書律暦志下』にあります。以下、簡単に書きます(抜粋のうえ意訳します)

 
太昊帝庖犧氏
天を継いで王になりました。百王の先(筆頭)です。首徳(始めの徳)は木から始まります。
 
炎帝神農氏
庖犧氏が没して神農氏が立ちました。火が木を受け継ぐので炎帝といいます。民に耕農を教えたので、天下が神農氏と号しました。
 
庖犧氏と神農氏の間に共工伯がいましたが、王にはなりませんでした。水徳を有しており、五行の秩序に合わなかったからです(木徳を継ぐのは火徳だからです)
 
黄帝軒轅氏
神農氏が没して黄帝氏が立ちました。火は土を生むので土徳になります。天下が軒轅氏と号しました。
 
少昊帝金天氏

『考徳(『漢書』の注によると、五帝の徳を考察した書です)』が「少昊は清という」といっており、「清」は黄帝の子清陽を指します。その子孫(子か孫)で名を摯という者が立ちました。土は金を生むので金徳です。天下が金天氏と号しました。

 
顓頊帝高陽氏

少昊が衰えて九黎が徳を乱すと、顓頊がこれを受けました。蒼林昌意の子です。金は水を生むので水徳です。天下が高陽氏と号しました。

 
帝嚳高辛氏
顓頊が建てたものを帝嚳が受けました。
清陽玄囂の孫です。水は木を生むので木徳です。天下が高辛氏と号しました。
帝摯が跡を継ぎました。世数(継承された世代の数)はわかりません。
 
唐帝陶唐氏(堯)
帝嚳の四妃陳豊が帝堯を生み、(堯は)唐に封じられました。高辛氏が衰えたため、天下が帰順しました。木は火を生むので火徳です。天下が陶唐氏と号しました。
天下を虞(舜)に譲り、子の朱を丹淵に住ませて諸侯にしました。在位七十載(年)です。
 
虞帝有虞氏(舜)

顓頊が窮蟬を生み、その五世後に瞽叟を生み、瞽叟が帝舜を生みました。(舜は)虞の汭に住みました。

堯が天下を譲りました。火は土を生むので土徳です。天下が有虞氏と号しました。
天下を禹に譲り、子の商均を諸侯にしました。在位五十載です。
 
伯禹夏后氏
顓頊の五世後に鯀を生み、鯀が禹を生みました。
虞舜が天下を譲りました。土は金を生むので金徳です。天下が夏后氏と号しました。
十七王が継承し、合わせて四百三十二歳(年)でした。
 
成湯(殷)
湯が夏桀を討伐しました。金は水を生むので水徳です。天下が商と号し、後に殷と呼びました。
殷の世は三十一王が継承し、六百二十九歳でした。
 
武王
武王が商紂を討伐しました。水は木を生むので木徳です。天下が周室と号しました。
秦が周を滅ぼしました。周は全部で三十六王、八百六十七歳です。
 
秦伯
昭王、孝文王、荘襄王、始皇、二世、合わせて五世、四十九歳です。
 
漢高祖皇帝
秦を討って周を継ぎました。木は火を生むので火徳です。天下が漢と号しました。
 
以上が『律暦志下』の抜粋です。
上述した『漢書郊祀志下』に「共工氏が水徳として木火の間におり、秦と運を同じくした。どちらも次序(順序)ではなかったので、永くなかったのである」とあるので、秦も水徳を称しており、五行の秩序から外れたため、周の後は秦ではなく漢が継いだと考えられたようです。
 
西漢武帝の頃までは「五行相克」の説に則って漢は土徳と考えられていましたが、西漢末に劉向父子が「五行相生」を提唱すると、漢は火徳という考えが普及しました。
東漢を建国する光武帝がこれを確立します。
 
王莽が自分を土徳としたのも、漢を火徳とみなし、火が土を生むという「五行相生」説に則ったからです。